「遥かな海より」
 

 ざ、ざざざ。

 波の音。鼻にツンとくるような何ともいえない香り。例えるならそれは潮騒。

 はるかな彼方より運ばれてきた、海という名の象徴だ。

 闇の中。海の香りを乗せて、蒼ざめた男がひとり――遠い海より嵐とともに。

「期限は切れた」



 ふるふるふる。

 頭に大きなチェックのリボンをのせた小柄な少女が、とても不安そうな顔で首を振る。

 [こわいの]

 スケッチブックにはそう書かれていた。

「何も一人でなんて言ってない。一緒にいて安心できる人と行けばいいんだ」

 青年が少女の顔を覗き込むようにして元気づける。

「頼む、澪。お前だけが頼りなんだ」

 その真剣な嘆願と眼差しに少女は、やがて、ゆっくりと首を縦に振った。さらさらとペン先が白い大地に生命の息吹を吹き込む。明るい笑顔を添えて、その世界が開かれた。

 [がんばるの]



 たったったっ。

 小さなダンスのステップを踏むような、軽快な足音を響かせながら少女が走る。いつものように商店街を疾走し、目的の場所へと向かう。

 幾許か地を蹴ったあと、少女――月宮あゆの足が止まる。

「あ……」

 それだけしか言葉が出なかった。

 いつもの場所。いつもの時間。しかし、そこに彼女の目的のものはなかった。まるで最初から何も存在しなかったような、ひっそりとした空間を瞳に映し、あゆは糸の切れた操り人形のごとく突っ立っていた。



「おはようございます、祐一さん」

 ぺこりと朝の挨拶をする栞を見て、祐一は思わず「おっ」という呟きを漏らした。ケープにワンピースタイプの制服ではなく、胸に緑のリボンをあしらった、白いブラウスと赤いスカート姿だったからである。

「夏服か」

「はい。私、夏服を着るのは初めてですから嬉しいんです」

 今にもターンを決めそうなほど、楽しげに栞がはしゃぐ。幸せそうな笑顔がまぶしい。

「それなら、おれだって夏服は初めてだ」

 負けじと祐一も笑う。確かに去年の冬に転校してきた祐一にとって、この学校の夏服は初めてだろう。

「似合ってますよ、祐一さん」

「栞こそ似合ってるぞ」

 互いに見つめあい、二人の顔が赤くなる。

「何でもいいけど、遅刻しないようにね」

 突然の声に、祐一と栞はギョッとして振り向いた。ウェーブのかかった長い髪が、ゆっくりと遠ざかっていくところだった。

「……」

 別な意味で真っ赤になった二人は、慌ててその後を追いかけた。



 昼休み。

 中庭で昼食中の祐一と栞に、

「ボクは、キミにお伽話をしてあげよう」

 どこかのゲームで聞いたような台詞をのたまって、たいやき娘が出現した。

 しかも制服姿である。

「おい、あゆ」

「ん? なにかな、祐一君」

 あゆはにこにこしていた。

「なにかな――じゃないだろっ。何でお前がここにいるんだ!? おまけにその制服はいったいどーしたっ!」

「栞ちゃん。この卵綴じ、おいしいねっ」

 ごつっ!

 栞の手作り弁当をひとつまみするあゆの頭に、祐一のグー小突きがヒットした。

「うぐぅ……痛い」

「人を無視するからだ」

 そういって、ぱたぱたと手を振る祐一。

「で、まずは何でお前がこの学校の制服を着ているんだ?」

「……」

 あゆが無言のままでいると、突然のことに成り行きを見守っていた栞が「ぽん」と手をたたいた。

「わかりました。赤いリボンから判断するとですね、名雪さんの去年の夏服を借りてきたんですね、あゆさん」

「すごいよ栞ちゃん、名推理だよっ」

「阿呆かーっ!」

 祐一の乾いた叫びが中庭に木霊した。

「うぐぅ〜、仕方がなかったんだよ」

 少し情けない声であゆが言い訳を始める。

 しかも、ちゃっかり栞のそばの芝生に腰を下ろしたので、いきなり追い返すわけにもいかない。仕方がないのはこっちのほうだ――そう思いながら、祐一は事情を聞くことにした。

「何がどう仕方なかったんだ」

「うん。ボクがいつものように、たい焼き屋のおじさんのところへバイトをしにいくと……」

 屋台がなくなっていたのだという。

 あるべきところにあるはずの屋台は、何故か跡形もなく消えていたのだった。

「それで、もう頼れるのは祐一君と栞ちゃんしかいなくて……秋子さんに名雪さんの制服を貸してもらったんだよ」

 何と言うべきか、ムチャクチャな話である。

「残念だったな、あゆ」

「?」

 哀れむような祐一の眼差し。

「それはアレだ。たい焼き屋のおやじは、お前にバイト代を払うのが嫌で逃げたんだ」

「うぐぅ、何てこと言うんだよっ!」

 あゆが怒鳴る。

「栞ちゃんからも何か言ってやってよ」

 栞はそっと目を伏せた。

「残念です、あゆさん」

 ずべしゃあっ!

 あゆはその場に突っ伏した。祐一は隣で大笑いである。

「し、栞ちゃんまで冗談言っちゃだめだよ……」

 よろよろとあゆが起き上がる。爆笑する祐一に文句を言う気力もない。

「ご、ごめんなさい。この場の雰囲気で、つい」

 そう謝ってから、若干、まじめな顔になる。

「でもあゆさん。この前に会ったとき、確か「来週はたい焼き屋のおじさんが旅行で屋台がお休みだから、とっても残念だよ」とか言ってませんでしたか?」

「えっ」

 栞の重大発言に、あゆの表情が驚きのそれに変わった。

 二対の視線を受けて暫く思考をめぐらせていたが、やがて「あっ」という声とともに両手を叩いた。それは栞の言葉が正しかったことを意味しているらしく、あゆの額から僅かに冷や汗が流れた。

「すごいよ栞ちゃん、名推理だよっ」

「阿呆かーっ!」

 祐一の乾いた叫びが空を舞い、かくて「消えたたい焼き屋事件」は解決したのだった。

 無論、これはこれから起こる怪事件の、ささやかな前哨戦に過ぎない。

 この日の夜、友人の少女から送られてきた手紙が、本題の前奏曲であった――




 青い空。

 いつもの街から遠く離れた地。

 水絵をどこまでも広げて流し込んだような、淡い青と白の世界が地上を睥睨している。その遥か眼下、焼け付くような熱気を帯びたアスファルトの上に三人の姿はあった。

「暑い」

 うだるような声で祐一が額の汗を拭う。その横で同じく、あゆが灼熱の日差しにくらくらとしていた。いくら初夏とはいえ、北の町で過ごしている人間にはこたえる暑さだ。

「暑いですね」

 同様の言葉を発する栞だったが、あまり汗をかいているようには見えない。スケッチブックが丸ごと入るらしい四次元ポケットといい、どうにも謎である。

「で、待ち合わせ場所はここでいいんだな」

 見晴らしのいい小さな公園の、ちょうど日陰になる大きな松の木の下で聞く祐一に、栞が頷いた。と、同時にあゆが小首をかしげる。

「でも澪ちゃんのいう怪事件って何かな?」

「うーん、そこまでは……」

 栞もかぶりを振った。

 そう。親友の上月澪から連絡があったのは数日前。学校で不気味な事件が起きているから協力してほしいというのである。

 そこで土曜の午後、祐一たちは遠路はるばる澪の住む町へとやってきたのだった。一応、一泊するつもりで来ているので、簡単な着替えは用意してきてある。

 と、いきなり背後に人の気配が――

 がばっ!

「きゃ」

 何者かが栞の背中に飛びついたらしい。バランスを崩すのを何とか耐え切る。

「こんな真似する奴は――」

 一人しかいない。祐一がそう確信して横を向くと、突然の出来事にぽかんとしているあゆの姿があった。

「……やるな、分身の術か」

「何のこと?」

 きょとんと返すあゆ。

「となると」

 栞の背後に視線を走らせる祐一。すると、青いチェックのリボンを頭に載せた、小柄な少女が目に入った。ぴょこんと栞の背中から離れて、人懐っこい笑顔を見せる。脇に抱かれていたスケッチブックが開かれた。

 [栞さん、こんにちわなの]

 栞も訳を理解したらしく、笑顔を返す。

「こんにちわです、澪さん」

「何だ、澪だったのか」

 [祐一さんとあゆさんもこんにちわなの]

 にこにこと祐一のほうにも笑顔を見せた後、あゆのほうへ向かう。

「澪ちゃん、お久しぶりだねっ」

 ぎゅうっと抱き合う二人を見て祐一は、似てるなぁと苦笑せずにはいられなかった。

 子供っぽいところや、よく人に飛びつくところなんかが特に――久弥氏のシュミなのだろうか。

「って、久弥氏って誰だよ」

 ひとりツッコミする祐一をよそに、澪が校内の怪事件のことを切り出した。すでにスケッチブックにはそのあらましが書かれてある。

「おーい、無視しないでくれっ」

 あわてて栞とあゆの間に割って入る祐一。内容は大体、次のとおりだった。


 ここ最近、週末の夜の校舎に謎の男が現われる。

 ひどく蒼ざめた顔で男は語る。

 期限は切れた。

 七年に一度の上陸を許されたる私は、救済を求めて来たのだ――遥かな海より嵐とともに。


「何だそりゃ」

 祐一が首をかしげる。当然、澪にだってわからない。だからこそ助けを求めたのだ。

「お前知ってるか?」

「ボクに聞かれても困るよ」

 それもそうだ。あゆに聞いて解るなら苦労はいらない。

 うーんだの、うぐぅだの悩んでいると、栞から思いもよらない言葉が飛び出した。

「さまよえるオランダ人ですね」

「え」

「栞ちゃん知ってるの?」

 驚愕の視線の先、栞がごく自然に頷いた。以前、美汐が貸してくれた本の中にその話があったらしい。

「ワーグナーという人の有名な歌劇です。なかなかいいお話ですよ」

 そういって、顔をほころばせる。

 [栞さん物知りなの]

「で、どんな話なんだ?」

 ちょっと興味を覚え、祐一が訊いた。

「えっと……神様の怒りを受けたオランダ人の船長さんが、不老不死となって七つの海を彷徨わないといけなくなったのが……」

「オカルトか?」

「違いますよー。ちょっとミステリアスですけど、いいお話なんですよ」

 笑顔でそう返されてしまうと、何も言えなかった。結局、謎の男探索のために、午後八時に澪の学校に集まることになったのだが。

「えっ、夜の学校?」

 不安な顔をしたのは勿論、あゆである。ただでさえ怖がりなのに、夜の学校とくれば表情を曇らせるなというほうが無理だろう。

「何だ、怖いのか?」

「うぐぅ。そ、そんなことは」

 見るからに不安そうだった。

「本当に大丈夫ですか?」

「う、うんっ。ボク平気だよ」

「そりゃ栞にまで心配されたら、どっちが年下だかわからないからな」

「うぐぅ、ほっといて!」

「それでは私は澪さんの家で夕飯の準備をお手伝いしますけど、祐一さんとあゆさんはどうします?」

「おれは少し散歩でもしてくる」

「じゃあボクは栞ちゃんたちと一緒に夕飯の手伝いを」

 言いかけたあゆは、背後に無言の圧力と凍てつく視線を感じた。

「と、思ったけど祐一君に止められそうだから、ボクも散歩してくるよ」

 そんなわけで七時に上月家で夕食ということが決定になる。そのとき、栞が澪の持つスケッチブックを見て何か閃いた。

「あの、澪さん。あとで似顔絵を描いてもいいですか?」

 その瞬間、祐一とあゆの表情が石像のように固まったが、事情を知らない澪は笑顔で[楽しみなのー]と期待をあらわにした。

 そんな少女の肩に祐一は優しく手を置く。

「澪、後悔するなよ」

 あゆが両手をぎゅっと握る。

「澪ちゃん。どんなものを見ても、それには栞ちゃんの真心が詰まってるんだよ」

 ハテナマークを浮かべる澪の後ろで、栞が自分の眉を見事なハの字に変えた。

「祐一さんもあゆさんもひどいですよっ。そんなこと言う人、嫌いですー」

 拗ねたような栞の声をハーモニーに、祐一は夕空の下を走り去る。さっきまでの暑さも夕陽の到来とともに、すっかり引いていた。



「おっ、これかな?」

 少し大きめの書店に足を踏み入れた祐一は目的の本を発見した。小さな本屋ではまったく見つからなかったそれを、ゆっくりと読み始めていく。

 航海中に天を呪う言葉を吐いたため、不老不死となり、永劫に海上を彷徨わなければならなくなったオランダ人船長。彼は七年に一度だけ、陸に上がることを許される。そしてその僅かな期間の間に、彼を心から愛する女性の愛を受けることが出来れば、彼は救済されるのだ。だが、彼はそのことを自分から語ることを禁じられている。自分が≪彷徨えるオランダ人≫であることを人に話した時点で救済は反古になるのだ。

 そして幾多の歳月が流れ――

 運命の少女ゼンタとの邂逅。

 それは永遠とも感じられる彷徨の果てにたどり着いた奇跡。


「へえ。一応、純愛ものなんだな」

 確かに、いい話ではある。読み終わった祐一の脳裏を、感慨に似たものが駆け巡っていった。

 救済を求め、永劫を彷徨う男。

 運命を信じ、真心を奉げる少女。

 そして、むせ返るような甘いあんこの芳香。

「って、ちょっと待て!」

「わっ」

 勢いよく振り向いた祐一の眼に、たい焼きを頬張りながら驚くあゆの姿が映った。

「やっぱりお前か」

「祐一君。いきなり振り返るから、びっくりだよ」

「それはこっちの台詞だ」

 見ると、あゆは食べかけの他に、もう一匹を片手に持っていた。

「やるな。早速、ガードの甘い店からちょろまかしてきたか」

「うぐぅ。ボク、食い逃げなんかしてないよっ」

 あゆの抗議に祐一はフッと笑った。

「語るに落ちたな、あゆ。おれは食い逃げなんて一言も口にしてないぞ」

 してはいないが、ほとんど同意語である。

「で、でも本当に食い逃げなんてしてないよ! ボク、ちゃんとお金払ったもん」

「一円か?」

「うぐぅ、八十円だよっ」

「まあそんなわけだから、もう一匹はおれが頂こう」

 何がそんなわけなのか、いきなりあゆの手からまだ口のついていないたい焼きをかすめ取ると、目にもとまらぬ速さで自分の口に放り込んだ。

「ああっ」

 あゆが声をあげる間に、ほかほかのたい焼きは祐一の腹腔に収まった。

「何てことするんだよっ」

「まあ待て、夕飯前にたい焼き二匹は腹にくるだろ。だからおれは、あゆのためを思って一匹始末してやったんだ」

 正直、とんでもない理屈である。とゆーか、あゆを怒らせるには充分だった。

「ひどいよっ。祐一君、意地悪だよ。極悪人だよっ!」

「……何か名雪にも同じことを言われたような気がするぞ」

 そのときも食べ物がらみだった記憶がある。

 それはともかく、一触即発といったこの場の空気に、咳払いが割り込んできた。

 二人が横を向くと、書店の店員らしき男が無言で立っていた。

「あゆ、本屋でたい焼きなんか食べてるから店員さんが怒ってるぞ」

「お客様も立ち読みはご遠慮ください」

「…………」



「うぐぅ、あゆのおかげでお金を無駄に使ってしまったじゃないかぁ」

「うぐぅ、真似しないでっ。天罰覿面だよっ!」

「うぐぅ」

「うぐぅ、真似しないでっ!」

 うぐぅ、うぐぅと連呼する奇怪な男女の姿は、上月家の方角へ吸い込まれていった。



 心篭もりし温かい料理は人を癒す。

 祐一とあゆもすっかり機嫌を直して、ついに舞台は澪の学校へと移った。



 夜の校舎。

 昼間は学生たちで賑わう活気溢れる空間も、夜になると別の顔を見せる。

 闇に佇む巨大な建築物は、別世界に迷い込んだかのような錯覚を与えるのだ。

 蒼い深淵が支配する、その圧倒的な存在感が訪れる者を出迎える。そう、まるで闇そのものが意思をもっているかのごとく。

 そんな異境に、四人の姿はあった。

「しかし、こんな簡単に入れるなんて、不用心な学校だな」

 ひっそりとした廊下を見やっての言葉。

 実は祐一の学校も似たようなものだったりするのだが、風呂入って湯冷めしないうちに寝てしまった彼に、そんなことは解らない。それよりも彼には今現在、もっと困ったことが起きていた。

「なあ……歩きにくいから少し手を離してくれないか?」

 祐一の頼みに、二人の少女はふるふると首を左右に振った。そのまま腕にしがみついて離れようとはしない。

 そうである。あゆだけでなく、澪まで怖がりだったとは夢にも思わなかったのだ。

「うぐぅ……怖いよ」

「おれは誰かに見つかる事の方が怖いぞ」

 はあ、と溜息。

「えっと……両手に花ですね、祐一さん」

「……嬉しくない」

 栞のフォローも逆効果だった。

「ん、そうか。栞、パス」

「え」

 言うが早いか、祐一はあゆの手を無理矢理解くと、その両手を栞の腕にしがみつかせた。

「わ」

 あゆにしがみつかれ、栞は少しだけぐらついた。栞には悪いがこれで楽になる。

「祐一さん、ひどいですよー」

「なに、ちょっと重いマスコットだと思えば平気だ」

「うぐぅ。ボク、マスコットじゃないよっ」

 怒ったように言う。人間、怖くても文句は出るようだ。そんなあゆを、祐一はちょっとからかってみたい衝動に駆られた。

「あ、幽霊」

「ええっ!?」

 いかにも嘘っぽい棒読みの台詞だったが、あゆは泣きそうな顔で真剣に驚いた。

「わ、わ、わ、わ」

「馬鹿、冗談だ」

 あまりに狼狽しているので、さすがに嘘だと教えてやることにした。

「はぁ……心臓が止まるかと思ったよ」

「それがもと生き霊のセリフか」

「うぐぅ、それとこれとは話が別だよっ!」

 ちなみにこの会話、事情を知らない澪には理解不能である。



 そんなこんなで暫く校舎を歩いていると、なにやら空気が変わったような気がした。ひんやりとした無機質な空気に混じって、独特の芳香が鼻腔に漂ってくる。何か、全ての生命が懐かしさを感じる、そんな不思議な香りだ。

「これは、海の香りか?」

 そう、潮騒の匂いであった。

「どうして学校の中で……」

 有り得るはずのない事態に、じわじわと冷たいものが背中へと昇ってくる。人はそれを恐怖と呼ぶ。そして、栞が廊下の向こうを指差してポツリと呟いた。

「祐一さん、あそこに誰か……います」

「なにっ」

 ぎょっとしてその方角、廊下の曲がり角のあたりを見る一同。

 そこには――

「うっ」

 祐一が思わずうめく。

 薄暗い闇の中に立つ一人の男。顔はよくわからないが、黒いマントを全身に纏ったその姿からは、蒼茫とした雰囲気が流れくる。

 そんな怪異的状況を目の当たりにして、四人はすっかり硬直してしまった。そして男が口を開く。そこから紡ぎ出される声は、この世のものとは思えぬ、不可思議に満ちていた。

「期限は切れた。遠い海より嵐とともに、あなたに逢うため来たのだ。真実の救済を私は待つ、最も近き海で」

 言葉を終えると、かつんかつんと足音を鳴らしながら廊下の角へ姿を消した。同時に、緊張から開放された身体が自由になる。

「ボ、ボクやっぱり帰るよっ!」

 途端、あゆが逃げようと走り出す。が。

「きゃ」

「わ」

 ずて、ごろ、ばた。

 栞にしがみついていたのをすっかり忘れていたため、二人してその場に転がった。

「よく転ぶやつだな」

「うぐぅ、余計なお世話だよ……って、あれ、これ何?」

 うつぶせに倒れたあゆがふと眼をやると、廊下に備え付けられたロッカーの片隅に何か置いてあるのを発見した。起き上がって手にとって見ると、どうやら部屋に置くタイプの芳香剤らしく、そこから先刻まで感じていた海の香りが強く放出していた。

「と、いうことは」

「やっぱり、この怪事件は人為的なものだったというわけですね」

「あ……そうなんだ」

 あゆがほっとした顔を見せる。

「はい。犯人の目的はわかりませんが、何をすればいいのかは解りました」

「すごいね、栞ちゃん」

「そんなこと、ないですよ」

 指先を唇に添え、くすりと笑う。そんな何気ない仕草のひとつひとつに、栞の心の強さが窺える。

「それで澪さん、この学校のプールの場所はどこですか?」

 この質問にポンと手を打って感心する祐一。「最も近き海」というわけである。

「でもこの暗さじゃスケッチブックの文字が読めないよ」

 あゆの心配は無用だった。澪が向けたスケブには、淡い光の文字がプールの場所を提示していたのである。

「考えたな、蛍光ペンか」

 [そうなの]

 にこにことご機嫌な澪だった。

 事件はいよいよクライマックスに突入したのである。



 闇に照らされたプールサイドに佇む人影。黒マントの男だ。

 男の眼は、たった今やってきた三人の少女と一人の青年の姿を映す。その中の一人、暗闇の中にあってなお、雪のような白い肌を煌かせるボブカットの少女が一歩、前進した。恭しく男のほうへ一礼する。

「始めまして、フィリップ・ヴァン・デル・デッケン船長」

「……何だそれは」

 男が怪訝そうな声を出すと、栞は得たりとばかりに微笑んだ。

「さまよえるオランダ人の元となった、船乗り達の間に語り継がれる幽霊船伝説の船長ではないかといわれた人物です。「オランダ人」を語るなら、それくらいは知っていますよね」

「!」

 男の身に明らかな動揺が走った。

「栞のやつ、えらく芝居がかってるな」

 祐一が不思議に思っていると、上着の裾がくいくいと引かれた。振り向くと目前に淡い光の羅列。

 [澪が演技指導したの]

「あ、成る程」

 そういえば澪は演劇部だった。とゆーか、夕飯の準備だけでなくそんなことまでしていたとは驚きである。

「私はあなたを疑う! もはや救済は成されぬ。我こそは伝説のさまよえるオランダ人!」

 すっかり焦りきった男が、半ば無理矢理に立ち去ろうとするが、無論ここまできてそんなことをさせる訳にはいかない。

「この命に掛けても、あなたに真心を捧げます」

「!」

 栞が最後の言葉を言い終えると、男は愕然と立ち尽くした。それは、自らの敗北を悟ったかのような、そんな動作だった。


 ぱちぱちぱち。


 一瞬の静寂を破って拍手が鳴った。一同が振り返ると、その拍手の主であるらしい一人の青年が入ってきた。歳は祐一と同じくらいだろうか、その青年は、つかつかと黒マントの男のそばに寄った。

「かくて救済は成された。オランダ人とゼンタの魂は、寄り添いながら天へ昇っていったのであった。という訳で、俺の勝ちだな」

 [浩平さんなのー]

 突如、嬉々として澪が走り出した。そのまますごい勢いで青年に抱きついた。

「よし。よくやった、澪」

 [栞さんたちのおかげなの]

「だーっ! このくそ暑い格好で、変声機まで使った俺の苦労はなんだったんだーっ」

 黒マントの男が、先程までとは別人の若々しい声で叫ぶと、やけくそにマントとかつらを脱ぎ捨てる。

 その下から現われた素顔は、いたずら好きの子供っぽい顔をした青年だった。

 あまりの成り行きに、栞たち三人が唖然としていると、澪の髪を撫でている青年が、元黒マントの男に向かって止めの一言を放った。

「悪いな、住井。これで昼食七日分は俺のものだ」

 この一言で、栞も、あゆも、祐一も、事件の全容を知った気がした。



「いやー、それにしても悪かったな。俺たちの賭けに巻き込んだみたいで。随分と北の方から来たんだろ?」

 あまり悪びれた風もない顔で、折原浩平が軽く謝る。驚いたことに、澪の恋人らしかった。

「それにしても……昼食七日分を賭けて、よくこんな手の混んだ事を」

「ふふふ。俺はくだらないことほど、全力で燃える男なのだ」

 浩平がにやりと笑う。どこか憎めないその雰囲気は、祐一と似ていないこともないが。

「このひと、すごいよ。祐一君だってここまではしないよ」

 半ば呆れたようなあゆの言葉。さもありなん。

「それで、君たちはこれからどうするんだ?」

 住井の問いには澪が答えた。

 [栞さんたちは、今日は澪の家にお泊りなの]

「そうか、じゃあそろそろ帰るとするか。きょうはありがとう、だ」

 浩平がにこりと笑って握手を求めてくる。

 栞、あゆ、と順番に握手を交わし、最後に祐一と手を握る。

「……」

 瞬間、浩平の挙動が不自然に止まった。何かやけに真剣な表情で祐一を凝視してくる。

「ん? 俺の顔に何かついてるか」

「あ、いや」

 それで手は離れた。

「……相沢」

「祐一でいいぞ。で、何だ?」

「じゃあ祐一。お前、過去に何か……いや、気のせいか」

「?」

「ま、気にするな。とりあえず困ったことがあったら、このエスパー折原に相談しろ。すぐに飛んでいってやる」

 浩平が、さっきまでのおちゃらけた態度に戻る。一同訳がわからない。

 釈然としないものはあったが、特に気に止める祐一でもなかった。

 かくて事件は解決を遂げたのである。



 帰り道。

 祐一とあゆが、栞に描いてもらった似顔絵はどうだったか、こっそりと澪に訊いてみた。

 [……]

 澪はひどく答えにくそうだった。

「……」

 祐一は何も言わず、ぽんと澪の肩を叩く。

「ふぁいとっ、だよ」

 名雪みたいな言いかたで、あゆが澪を励ます。言わずとも、気持ちはわかる。阿吽の呼吸というやつだ。

「何のお話ですか?」

 ひょいと栞が顔を出す。一瞬ぎょっとしたものの、三人は同時にこう返した。

「秘密だ」

「秘密だよ」

 [秘密なの]

 見事なハモリ具合である。

「わ、そんなこと言われたら気になりますよー」

「わははは」

「祐一さん、笑わないでくださいっ」

 [わーい、賑やかなのー]

 夜のとばりの幕下に、奇跡の輝きにすら劣らぬくらいの、そんな爛爛とした暖かな喧騒が、ただ暫しの間、緩やかに流れていったのだった。 

 <END>

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