第2話「笑顔の理由」前編


 蛋白石の玉座に坐す白人の男と、その正面で立ち尽くすスラブ系の幼き少女。

 やや淡白な顔つきをした細身の中年男は、少女を見据えても「ふむ」と漏らしたきりだ。

「少し見ない間に何かあったようだね」

 神妙でもなく心配するでもなく、ただ軽い興味だけが感じられる声。

 少女にとってはそれが嬉しくもあったか、空虚な狡猾さを湛えた端正な小顔を薄く微笑させた。

「嫌なことがあっただけ。そして無邪気で可愛らしかった以前のわたしじゃなくなっちゃったの、お恥ずかしいことに」

 はーあ、とついた溜息には嘆息も自嘲も付随しておらず、それで済ませてしまえるあたりが以前と変わったということらしい。

「確かに無垢な可愛げは失せたようだ。どころか、今の君は此処の下部を構成する崖みたいだね」

「中が空ろな硝子……むー、なかなか意地悪なこと言ってくれるじゃない、カーター」

 僅かに眉を寄せてふくれっ面を向ける少女に、男の口元はどこか愉しそうだ。

「おや、怒ったかな?」

「あたりまえでしょー? わたしだって人間なんだから、面と向かって癇に障ること言われたら内心腹が立つわよ。本や動画の登場人物には結構多くいるけど、何を言われても心底動じない人間なんて現実にはまず存在しないんだからね」

「多少の開きはあれどそのとおりだ。私とて例外にあらず、人間は感情の生き物であるという理から決して逃れることはできない」

「うん、そうそう。だからってわけでもないんだけど……ちょっと疲れちゃったかなあ」

「察するに今の君が誰かに弱みを見せることは珍しいと思ったが」

「まあそれだけわたしがカーターを信頼してるってことで。うん、いっそ永住したくなったかも」

「中途半端はよくないな」

 淡々と、ばっさりと窘められ、少女は深い紺の双眸をガッカリとした風に閉じた。そんなことは百も承知だ。

 男もそれが分かっているから一刀両断にした。その場限りの気持ちでは困る。

「仮に手段を実現したとしてもだ、君のその顔に以前まで浮かんでいたものを取り戻してからにしたまえ」

「……」

 何も答えられず肩をすくめる。それが少女の精一杯だった。



 ふっと目を覚ました。

 早朝のまどろみにぼんやりした思考を少しずつ覚醒させていく。寝起きはいいほうではない。

 少し懐かしい夢だった。あれから一年も経っている――そろそろ会いに行くべきかと思ったが、どうも怠惰と億劫さが先に来てしまう。

 だが揺るぎない自信を持って見せてやれるようになったのだ。機会があれば近いうちに訪れよう。

 上体を起こしたとき、少しの異常に気づいた。

「あれ……?」

 身体が妙にだるい。それになんだか頭が重い。天蓋付きのベッドから足を下ろすが、動作が緩慢だ。

 上質のカーペットに立って軽くふらついた。

「うー、おかしいな」

 風邪でもひいたのだろうか、おでこが熱っぽい。体温計を口にくわえて計測すると、ジャスト三十八度と出た。

「最悪」

 ジト目でつぶやき、のそのそと学生服に着替えてから、気品に満ちたバロック調の食堂に足を運ぶ。サイモンは早朝から昼までのバイトのためもう出かけた後だ。もっとも、朝は弱いため彼より早く起きることなど滅多になかったりするが。

 食事はいつものごとくエプロン姿のナイトゴーントが調理して食卓に並べてくれていた。夜鬼は戦闘で直接相手を攻撃することもなければ料理をすることもない。ヴィエがそれを可能とする魔術様式を付加した結果だ。

 並べられた朝食を眺め、あまり食欲が湧かないのでパン一切れとスープと紅茶で済ませる。

 この程度の熱くらい大丈夫だろう――そう頭で言い聞かせて邸宅を後にするヴィエだった。



「ヴィエちゃん、テストどうだった?」

「あはは、いつもどおりだよ。可もなく不可もなく」

「ホントだー。ヴィエさん何でもそつなくこなすよね」

 昼休み。昼食を終えたヴィエは教室内でクラスメイトの女子二人と雑談していた。話題は四時限目に返された昨日のテストの結果だ。

 文系理系とも平均に位置するヴィエだが、実のところ彼女はミスカトニック大学の教師になれるほどの頭脳を持っている。しかし飛び級などには興味ないし、不必要に目立ちたくないからわざと均等な中程度の学力に保っているのだ。

「ところでヴィエちゃん……何だかさっきから顔色が悪いような気がするんだけど、大丈夫?」

「えっ。あ、うう……だいじょうぶだよ、ちょっと微熱があるくらいで全然平気だから」

「そう? 給食も無理して食べてたみたいだし、具合よくないなら保健室に行くか早退するかしたほうが」

「心配してくれてありがとう。あと二時間だし問題ないよ、帰ったらゆっくり休むから」

 気を使われるのも面倒なので精一杯にっこりと笑い流した。



 放課後。

 帰り道を歩くヴィエの足取りは非常におぼつかない。ふらふらと、一歩一歩が重い。全然平気ではなかった。

 電柱に寄りかかって肩で息をしながら休憩していると、背後から声をかけられた。

「ヴィエじゃない。電柱の前で立ち止まってどうかしたの?」

「……なんだリアさんか」

「なんだとはご挨拶ね、まったく」

 呆れたように眉をひくつかせたのは金髪碧眼の少女。腰上までの髪を変わった髪留めで頭の左上に纏め、水色のポーチをたすき掛けにしている。

 背格好はヴィエとあまり変わらないが、その制服が主張するのは御納戸学園高等部。立派な高校二年生であるこの少女の名は、リアライズ・羽丘。日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれたハーフで通称リア。

 ヴィエと知り合ったのは一ヶ月ほど前ですぐに仲良くなったが、彼女の本性を知ってからは辟易した目で見るようになった。

「なんか具合よくなさそうだけど――」

 じんわりと汗を浮かばせるヴィエの額に手の平を添えたリアは、びっくりして目を丸くする。

「わっ、すごい熱じゃない!」

「そうだ、リアさん、わたしを家まで背負っていってくれないかなあ」

「はあ? あんたの家って住宅街の外れだったわよね……なんで私がそんなこと」

「えー、友達でしょー」

「誰がいつ友達になったのよっ。それより医者寄ったほうがいいんじゃ」

「医者は要らないから家までおぶって」

「あんたってやつは……じゃあ今度食事でもおごってもらうからね?」

「うん、そんなのでよければ。なんなら一流レストランのフルコースをご馳走してあげるけど」

「いやそこまでしなくていいから」

 ジト目で拒否するリアだった。庶民の自分には気が引ける半面、このブルジョワめというやっかみがないこともない。

「でもギブアンドテイクなんてお人好しのリアさんらしくないなあ」

「ヴィエじゃなかったらお礼なんか要求しないわよ。てゆーかお人好し言うなっ」

「うふふふっ。じゃあタカくんはいいの?」

「あー、あいつも駄目に決まってるでしょ。お父さんの弟とは思えない破戒僧だし」

 うんざりしつつヴィエを背負ったリアは、かかる重みの少なさと、痩せすぎというわけではない健康的な軽さに安心した。

 ただ、背中を通して伝わってくる体温は彼女の現状を物語るに足る熱さだ。

「本当に医者行かなくていいの? もし悪化でもしたら……」

「大丈夫、病気になったら治せるから」

「なにそれ。病気なら治せるってなんかむかつくわねー。それなら今すぐに治せばいいでしょ」

「ただの風邪や熱は無理なの。厳密的には病気じゃないし」

「知らないわよそんなこと」

 聞いたことがあるような気はするが正直どうでもいい。どのみち都合がいいことには変わりない。

「帰ったらサイモンくんに看病してもらうんだー。えへへ、風邪で寝込んだ恋人を彼氏が看病するシチュエーションっていいよね♪」

「サイモンさんって確か二十代よね。小学五年生のあんたと恋仲って、思いっきり犯罪じゃない」

「なんで? 相思相愛なら年の差なんて関係ないでしょー」

「このマセガキは……世間一般的に間違いなくアウトよ、常識的に考えて」

「それはリアさん自身の意見?」

 耳元にかかる声のトーンが、唐突に冷水を含んだような静けさに変わり、リアは「えっ」と気勢をそがれた。

「リアさん、それは極めて陪審員制度的な倫理でしょ? 誰もが求める寄りかかっても倒れない指針なんて宙ぶらりんなもの信念にしたらいけないよ。リアさんが何によって立つかは其処じゃない。そんな脆いものじゃ駄目だからね」

 情報社会による世間の大多数が妥当だと判断したものが真実とされ、それ以外は異物として削除される。その残酷な多数決によって決められる常識こそが現実であり『世界』なのだ。

 だが、はたしてそれは本当に正しいことなのだろうか。そう思い込んでいるだけで、自分達は井の中の蛙ならぬ大海原の蛙に過ぎないのではないのか。

 思考の奔流に飲まれそうになるリアだったが、

「――話をすり替えるなっ」

 手首のスナップを利かせてヴィエの頭に逆手チョップ。いい音がした。

 すぐさま涙目と思われる抗議が上がったが無視するに限る。普通なら風邪人相手に手など出さないが、この少女にはこれくらいやっても罰は当たらないだろう。

「大体あんたは……ハッ!?」

「あらら?」

 二人して感知した。突然、近くに、超常のものでしかありえない異質な空気が発生したのだ。

 ふと見ると、数名の少女が角の小道へ、吸い込まれるようにふらふらと歩いていくのが目に入った。ヴィエと同じ制服を着ているので御納戸学園初等部の生徒に間違いない。

 心ここにあらずという、まさに夢遊病者のごとき表情からして何かに操られているかのようではないか。後を追って角を曲がると、縦に開いた空間の裂け目の中に消えていくところだった。

「な……っ!」

「そういえばわたしのクラスメイトだよあの子たち」

 言ってから、ヴィエはしまったという顔で眉をしかめた。案の定リアの声色が変わる。

「そうなのっ? よし、私たちも行くわよ!」

「ちょっと待って。行くならまずわたしを家まで運んでからどうぞ」

「はあ!? あんた自分の知り合いを無視するっていうの?」

 そうくるからしまったと思ったのだ。見ず知らずの人間だと言えば一人で突っ走ってくれただろうに、熱で思考力が低下していたのが口惜しい。

 言っても無駄だろうなと半ば諦めながらも拒否の言葉を選ぶヴィエである。

「三十八度以上の熱を出してる女の子を早く休ませてあげるほうが先決でしょー」

「いやなんか随分余裕あるじゃないってゆーか悪化したら治せるんでしょ? 言い争ってる暇ないし早く助けに行かないと」

「なんで、助けないといけないの? わたしにとって恋人のサイモンくん以外は、知り合いだろうと友達だろうと親兄弟だろうと他人なんだから関係ないよ」

「あんたねえ、いい加減にしなさいよ」

「リアさんこそ自分の価値観を人に押し付けるのやめてよねー。わたし正義の味方じゃないんだから」

「くっ……それはそうだけど……あんただってさっき自分の意見を押し付けてきたでしょ?」

「あれは価値観の強制じゃなくて、ありがたーい忠告」

「……」

「無言は肯定の証? わかったらどうぞご自由に一人で首突っ込んできて」

「――分かったけどあんたの態度が気に入らないっ!」

「えっ、ちょ、ああぁぁぁぁ」

 問答無用。リアはヴィエを背負ったまま、有無を言わさず全速力で空間の裂け目に突っ込んでいった。

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