「風の行方」


 運命は変えられないのかもしれない。

 しかし――強い想いがあれば、その先に続く道を創る事だって出来る筈だ。



 夢。

 久しぶりの夢。

 ひとりの少女が、笑顔で自分を見ていた。

 顔は見えない。夕焼けの逆光が少女の姿を覆い隠していたから。

 何も無い、オレンジ色の世界の中で、夢霞のように朧ろげに佇んでいたから。

 ただ一つ。

 笑っている少女の姿は、何故か、ひどく儚げに見えた――――



「朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校行くよ〜」

「ん?」

 目覚ましから聞こえる幼なじみの少女の声が、祐一を夢から引き戻した。

「朝〜、朝だよ〜。朝ご飯食べて学校――――」

 ぷつっ。

 目覚ましのスイッチをオフにすると、祐一はのそのそと毛布から身体を起こした。

 制服に着替えて部屋を出ると、同じく制服姿で部屋から出てきた従妹の少女と鉢合わせた。

「珍しいな。名雪がこんなに朝早く起きてくるなんて」

 不思議そうに訊くと、名雪はおっとりとした人柄がにじみ出るような笑顔で返した。

「昨日は、ちょっと早く寝たからね」

「へぇ、何時ごろだ?」

「七時半」

「……」

 それは、ちょっとなのだろうか。レベルが高すぎて、祐一にはわからなかった。

「それはそうと祐一。荷造り、捗ってる?」

「まぁ、ぼちぼち……かな」

 祐一の返事は歯切れが悪かった。

 ようやく両親がこの町に来る日が決まり、それに向けて荷物の整理を始めたのだが、これが予想以上に大変だったりする。

 名雪には、一人で大丈夫と大見得を切ったものの、やはり後悔の念が募る。

 そんな祐一を見兼ねてか、名雪が助け船を出してきた。

「祐一。わたしでよかったら、手伝うよ」

「悪い、頼む」

「イチゴサンデー、五つ」

「……五つは、多いだろ。」

「じゃぁ、三つでいいよ」

「……わかった」

 それでも、二千六百四十円の出費だった。



 朝食を終えると、祐一は名雪と一緒に通学に出る。と、目の前に見慣れた少女が立っていた。

「おはようございます、祐一さん。それに名雪さん」

 ぺこりと頭を下げる少女。制服のケープのリボンの色は緑。そう、美坂栞である。

「おはよう、栞ちゃん」

 名雪がにこりと笑って挨拶を返す。栞の向こうで香里が「ふーん」と言う顔で腕組みしていた。

 名雪が部活の朝練以外で、こんな時間に起きてきた事に感心しているのだ。

「あ、それじゃ祐一、栞ちゃん。わたし香里と先に行くから」

 そう言って、ぱたぱたと駆けてゆく名雪。

 一応、気を利かせてくれたらしい。

「名雪さんって、きれいですよね」

 香里と並んで歩く後ろ姿を見ながら、栞が小さく漏らした。

「きれいって、名雪がか?」

 はぁ? という表情で祐一が聞き返す。

 栞はごく真面目に頷いた。

「そうは見えないけどな」

「それは、祐一さんが名雪さんと、いつも一緒にいるからです。あんまり近すぎて気がつかないだけですよ」

「うーん」

 そう言われてみると、そうなのかも知れない。祐一の頭の中では、名雪は昔の幼なじみから変わっていないつもりだったのだが、他人が見て『きれい』と形容するくらいに七年という歳月は経っていたのだ。

 栞は、ほうっと溜息をついた。

「私……名雪さんやお姉ちゃんみたいに綺麗になりたいんです」

「そりゃ無理だ」

「わ、ひどい。即答なんてあんまりですー」

 口を小さく尖らせて、上目使いに祐一を見やった栞は、いつもの口調で言った。

「そんなこと言う人、嫌いです」

「おれは好きだぞ」

 きっぱりとした声で祐一が続ける。

「名雪や香里みたいじゃなく、いま目の前にいる栞のことが――俺は好きだ。」

 真剣な祐一の言葉に、栞は頬が赤くなるのを感じた。

「祐一さん……恥ずかしいこと、言ってますよ?」

「本気だ」

「……ずるいです。そんなこと言われたら、何も言い返せなくなってしまいます」

 栞の真っ白な肌が、ますますほのかに紅潮していった。

「それに―――」

 栞はいまのままで十分魅力的だから、と続く言葉を祐一は必死に飲み込んだ。

 流石にそれは恥ずかしくて言えない。

「それに?」

「いや……何でもない」

「わー、途中で言い止められたら気になりますよー」

「いや、ほら、もう時間が」

「そんな誤魔化しても―――」

 駄目です――とは、言えなかった。何故なら本当に時間が無かったからだ。



「やけに遅かったわね」

 予鈴ぎりぎりで昇降口に駆け込んできた祐一と栞をみて、香里が呆れたようにつぶやく。

「栞、相沢君に何かされなかった?」

 冗談混じりに訊いてきた姉の言葉に、先程の祐一との会話を思い出し、栞は赤くなって俯いた。

 それをどう受け取ったか、

「……祐一、嘘だよね?」

「……そうなの? 相沢君」

 名雪と香里の怪訝な視線に祐一が慌てる。

「ちょ、ちょっと待て! 『そうなの?』って、どういう意味だ?」

「言葉の通りよ」

「おいおいっ」

 祐一、絶体絶命。

 と、その時――――――

「おい、何やってんだ。もうすぐ先生が来るぞ」

 救いの主は北川だった。



「実は今日、祐一さんにお話したいことがあるんです」

 昼休み。

 久しぶりに、二人っきりの昼食を中庭で楽しんでいると、栞がそう言ったのだ。

「話?」

「はい、前に一度だけ話した事がありますよね。夢の中の誰かのお話を」

「ん……?」

 いきなりの事に少し考える祐一。そう言えば以前、栞がそんなことを言っていたような気がする。

「あぁ、たしか、夢の世界で何かを探してずっと待ちつづけた誰かが、栞に奇跡を起こしてくれたかも……って、話だったか?」

「はい」

 アイスクリームを一口すくって、頷く栞。

「それがどうかしたのか?」

 意図が理解できずに問う祐一に、栞は真面目な顔をした。

「祐一さん、その『誰か』が、『誰』なのか、考えてみませんか?」

「はあ?」

 これまた訳の分からない話だった。

 栞が本気で言っているとすれば、つまり本当かどうかも疑わしい事を考えろと言う事になる。

「どうして突然そんな話を?」

「それは―――気になるからです」

「気になるって……」

「多分、私の予想だと祐一さんがどうしても思い出せないという、七年前の出来事に答えが隠されているんじゃないかと―――」

「こらこらっ」

 自分の困惑を無視して言葉を続ける栞に流石に祐一は待ったをかけた。

 このままでは、成し崩し的に何事かを決定されてしまう。

「あのな、栞」

「夢を見たんです」

 栞が先手を取った。

「オレンジ色の世界のなかで、誰かが私を見ているんです。とても良く知っているはずなのに、どうしても思いだせない……」

「……」

 祐一は何も言えなかった。ふと、今朝見た夢を思い出してしまう。逆光の下で笑っていた少女……あれは誰だったのだろうか――

 それを考えると、断れなかった。


 午後の授業はほとんど頭に入らなかった。



 放課後――

 横に並んで歩く栞に訊いてみた。

「なぁ、栞。本当はただ気になるだけじゃないんだろ?」

「……はい」

 祐一はぼんやりとしているように見えて、意外とつかみどころのないタイプである。

 本人は特に何も思っていないだろうが、なかなか鋭い部分があるのだ。

 だから、栞は真剣に祐一の顔を覗いた。

「祐一さん、前に言いましたよね。起きる可能性が少しでもあるから、だから奇跡って言うんだ―――と」

「ああ」

「もし、夢の世界の誰かが、私のためにたった一つのプレゼントを使ってくれたとしたなら……そして、その為に誰か自身が悲しい運命を選択したのだとすれば―――」

 そこで言葉を切って、いくらか優しい表情で祐一を見つめる。

「今度は私達が、その誰かの為に奇跡を起こしてあげたいんです。夢の中の長い想いには叶わないかもしれませんけど……でも、ふたりぶんの想いがあれば――きっと」

「……そうだな」

 祐一は、そっと栞の頭を撫でた。

 どこかほっとした表情で眼を伏せる栞を瞳にやって、祐一は遠い空を見上げたのだった。



 そういえば、祐一が七年前のことを思い出せないのは、とても悲しい事があったからだよ――

 と、名雪が言っていたのを思い出した。

 とても悲しくて、思い出さえも閉ざしてしまうほどのつらい出来事があったからだと。

 夜、そのことを訊いてみるが、名雪はふるふると首を横に振った。

 どんなことがあったのかまでは、わからないという事らしい。しかし、最後に名雪は珍しく真面目な声でこう付け加えた。

「でも、祐一……それはきっと、祐一自身が思い出さないといけない事なんだと私はおもうよ」

「……」

 そうなのかも知れなかった。



 夢。

 今日も、夢を見た。

 夕焼けの下、相変わらず顔は見えなかったが、その姿はより朧ろげに霞んでいた。

 もしかすると、もうあまり時間は残されていないのかも知れない―――



 土曜日の午後。

 祐一と栞は学校帰りに、商店街のゲームセンターに寄っていた。

 ぽかっ。ぽかっ。

 怒り顔、笑い顔、泣き顔。様々なモグラが頭を叩かれて穴から出入りする。

「ふう……」

 スコア画面を見て祐一に笑顔を向ける。

「上手くなったな、栞」

 不思議と汗ひとつかいていない栞に称賛の声を送る祐一。正直、祐一の今の煮詰まった頭には栞との楽しい時間が必要だった。

 本当に辛いときには、無理をしてでも笑わないと救われない――そんな感じと似ているのだろう。

 一通り、商店街をまわった後、二人の姿はいつもの公園にあった。

「たとえ話をひとつ、いいですか?」

「ん? ああ」

 祐一は頷いた。気晴らしに面白い話でもしてくれるのだろう――そう思ったし、どんな話か興味もあった。

「たとえば、ひとつの風があります。それは世界の果てまで届く風なんです」

「そんな風あるか」

「ですから、たとえばの話ですよ」

 うー、と非難めいた眼差しが祐一に向けられる。いつもの調子でいきなり話のコシを折ってしまう祐一だった。

「悪い、続けてくれ」

「ほんとに悪いと思ってますか?」

「ほんとにホント」

「……わかりました」

 疑いつつも納得してくれる栞のことが、祐一は好きだ。

「それは世界の果てまで届く風。でも、その風は世界の果てまで吹いたその後は……どこへ向かうんでしょう? どうなるんだと思いますか?」

 少し、夢見るような口調だった。無論、祐一に話の返答はできなかった。

「なんて、ちょっと意味ありげでかっこいいですよね」

「べつにそうは思わないけどな」

「祐一さん、せっかく考えた話なのにひどいですー」

 祐一は笑った。すねる栞が可愛かった。

 ひとつだけ、祐一が注意した。

「栞、それはたとえ話じゃなくて、問いかけだ」

「あ」

 そうですねと栞も笑ってくれた。

 今日、栞と一緒にここに来て本当に良かった。祐一は心からそう感じる。

「わー。祐一さん、空が真っ赤ですよ」

 栞が珍しそうに空を見上げて溜息をつく。

 つられて、祐一も空を見た。

「……」

 ――――――――――――――――――――――――――――――!

 祐一の頭に衝撃が走った。

 赤。

 赤い空。

 緋色。朱色。薄紫。赤い世界。

 どこまでも続く、一面の美しい夕焼け。

 何処にも届かない。どこにも迎えない。

 血のように赤い――――

「祐一さん?」

 心配そうに祐一を窺う栞。

 その耳に、小さな呟きが入った。

「おれは……ちゃんと、覚えていなくちゃいけなかったんだ……」

「え……もしかして、記憶が?」

 祐一が頷く。

 凍りついた思い出、閉ざしていた七年前の情景が、そこにあった。



 数日後。

 ある病院で、七年間も昏睡状態にあった一人の少女の意識が、まるで永い眠りから覚めるように―――戻った。

 その少女の名は――




「ぐははは!」

「うぐぅ、そんな悪代官みたいな笑い方しないで……」

 大きな帽子を被った少女が、爆笑する祐一に抗議する。

「そうですよ祐一さん。あゆさんが可哀相です」

 栞に言われて、祐一はようやく笑うのを止めた。それからゆっくりと帽子の少女――月宮あゆをみる。

 何でも、床屋で髪を切ってもらったら、切られすぎた、という事らしい。それで祐一は大笑いしたのだった。

「でも、お前なんで髪を切ったんだ?」

 当然のように訊く祐一だったが、なぜかあゆは顔を赤くした。

「それは……秘密だよ」

 そう言って横を向く。

「あっ。あんな所に露店があるよ! ボク、何か食べ物買ってくるよっ」

 あゆがわざとらしく公園入り口近くの露店を指差す。「あんな所に」も何も、公園に入るときから目に付いていた。

 そのまま走り出そうとするあゆを呼び止めて、祐一は千円を手渡した。

「えっ」

「好きなもの買って来い。何たって、お前の退院祝いだからな」

「……うんっ」

 笑顔で頷き、ぱたぱたと走り去っていく。

 その後ろ姿を見ていると、横から栞が声をかけてきた。

「祐一さん。ライラックの花言葉、知ってますか」

 意味ありげに訊いてきたので「ん?」と思う祐一だったが、もちろん知るわけないので首を横に振った。

 栞は目を伏せて言った。

「初恋の痛み―――」

「……」

 思わず露店の方を見やる祐一だった。

「私、ちょっとだけ、あゆさんが羨ましいです……」

 そう行って、栞も露店の方を見た。

 祐一はなんとなく気恥ずかしくなったので、つい前日に思いついた事を口にすることにした。

「たとえば」

「え?」

 栞が祐一の方を向く。

「世界の果てまで届く風も、巡り巡って『生まれたての風』になる―――っていうのはどうだ?」

「……素敵です」

 栞が微笑む。春の日差しに照らされた笑顔が、とても眩しかった。

 そんな二人の耳に、ぱたぱたと駆ける元気な足音が近づいてくる。

 そよ風が優しく舞っていた――

(END)

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