第9話「水のまどろみ」前編


 残暑の陽光にじんわりとした汗が浮かび、人々の足が日陰に沿って進む、そんなある日。

 御納戸町の住宅街外れにひっそりと建つ大きな洋館。その玄関でチャイムを鳴らしたのは、なめらかな金の髪を三つ編みで左右に垂らした十代前半の少女だった。

 待つこと数分、しびれを切らした繊細な指が再びチャイムへと伸びたとき、ゆっくりとドアが開かれた。澄んだ空色の双眸に映ったのは、栗色のショートヘアーにダークブルーの瞳を湛えた小柄な少女。歳の頃は同じくらいか、シックな黒の洋服に身を包んだ姿がお嬢様然とした容貌を印象付ける。

「どちらさまですか〜」

 うちわでパタパタあおぎながら、まったりとしただるそうな表情で、洋館の主であるフヴィエズダ・ウビジュラこと通称ヴィエはそう会釈した。

「あ、あの、私はアクエリアス・ロックといいます。リアライズ・羽丘さんにあなたのことを教えられて、それで訪ねてきました」

「リアさんに? それはともかく、全身にミネラルと糖分が補給できそうな名前ねー」

「……は?」

「いえいえ。それで、アクエリアスさんは何用でわたしのところに」

「ええと……少し変わった話で、長くなりますので……玄関でお話しするには少々」

 困った風に瞳を左右させる三つ編み少女のワケありげな物言いに、暑さでたるんでいたヴィエの顔にみるみる生気がみなぎってきた。興味深々というわけだ。

「それはそれは。わかりました、客間へお通ししますのでどうぞ中へお上がりください」

「はい。あ、私のことはアクアでいいですよ。フヴィエズダさん」

「わたしのこともヴィエでいいよー。じゃあ普通にくだけた話し方でいーい?」

「ど、どうぞ。――あの、ヴィエさんはこのお屋敷に一人で住んでるんですか?」

「ううん、もう一人いるけど今はバイト中。まあお金のことは全部わたしがなんとかしてるんだけど」

「すごいですね……そんなに若いのに」

「うふふ、先立つものさえあれば、頭を使ってうまく資産運用すればわけないよ。あ、いま冷房故障してて部屋の中が暑いけど我慢してね。でもアクアって冷たくて涼しそうな名前だねー、あと美味しそう」

「はあ……」

 このひと大丈夫なんだろうかと内心不安になるアクアだった。



「――で、現状がいったいどうなってるのかを判明ならびに解決したいと」

 確認するヴィエに、テーブル越しにこくんと頷く金髪碧眼の少女。

 話を聞き終えた結果、事情は次のようなことだった。

 アクアは、とある大きな船の中にある雑貨屋のアルバイトで、いつものように倉庫の整理等をしていたところ、陳列する品物の中に置かれていた、商品ではない見慣れないランプを発見した。

 不思議に思って手に取りじーっと眺めていると、突然もくもくと煙が飛び出し、瞬く間に白の閃光に飲み込まれ、気がついたら見知らぬ部屋で目を覚ました。それが羽丘家というわけだ。

 突然発光とともに現れた少女に驚いたリアとのすったもんだの末、互いに自己紹介を済ませた上で状況の理解を模索しようとするが、リアはバイトと夏休みの宿題で忙しいらしく、知り合いにその手のことに詳しい専門家がいるからその人に頼れば解決してくれるかもと言われ、――そして現在に至る。

「どうです、何か分かりましたか」

「うーん……ちょっと心を楽にして、じっとしてて」

 きょとんとしつつリラックスする少女へ、ヴィエはすっと手の平をかざした。

 一拍置いて床いっぱいに青光を放つ魔法陣が浮かんでビクッとなるアクアだが、言われたとおりじっとしていると、程なくして魔法円はすうっと消え、眼前の娘は得たりとばかりに微笑した。

「やっぱり、どうも波長が違うなって思ったんだ。アクアはこの世界の人間じゃあないね」

「え――それって、えっと……ここは異世界ということですか?」

「あなたからすればそう。さしずめそのランプが原因でこの世界に次元跳躍したってところかな」

「ええーーーーーっ!!」

 大きな目をまんまるにして驚くアクアを眺め、蒼茫の瞳を楽しげに細めるヴィエ。

「うふふ、これはなかなか面白そう」

「ちょ、面白そうじゃないですよっ! ここが別の世界って、そんな」

「いろいろ興味深いわね。あなたの世界のこと詳しく聞いてみたいし、折角だからこの世界に滞在しちゃわない?」

「じ……冗談じゃありません! ふっ、ふざけないでください! 人の難儀な状況を愉快がるなんて、いけないことですっ。人生は長いんです、悔い改めてください!」

 拳を握り締めて憤りを表し、アクアはビシッと指先を突きつけた。清涼なる水の瞳が純粋な怒りに揺らめいている。

 そんな彼女の態度を見たヴィエは一瞬ぽかんとして、すぐさま聖歌隊の合唱のごとき爆笑を吐き出したではないか。腹を抱えて笑うとはまさにこのことだ。

「あ、あははははっ、ひ、ひひう……ぜえぜえ。あー……おなかがよじれそうになったよ。アクアいい人だねー」

「ひ――人を馬鹿にするのもいい加減にしてください!」

 怒りの大声もどこ吹く風、にんまりとテーブル越しに上体ごと顔を近づけて、

「馬鹿になんかしてないよ。アクアがあんまり可愛いから、その純真さを汚してあげたいなーと思って」

「いやああああっ!」

 パシーンと張りのある音。

 ひりひりと赤くなった左頬を押さえながら、ソファに腰を戻したヴィエは線目で涙の粒を浮かべた。

「いたーい……もう、冗談なのに〜」

 冗談には聞こえなかったアクアの背筋は、まだ寒気で震えていた。

「しっかりしたリアさんの紹介だからマトモな人だと思ったのに……本当にろくでもない女の子だった」

「リアさんわたしのことそんな風に言ったんだー。友達なのにひどいよね」

「私に言われても……それ間違ってないですし。――って、あああ、私には楊さんを真人間に更生させるという使命があるのに、私がいなくなったら彼が完全な駄目人間の坩堝に沈んでしまうっ」

 思わず頭を抱えるアクアであるが、対面の少女は別のことで眼を輝かせた。

「その人って、アクアが働いてるお店の店主なんだよね。アクアより七つ年上の男性だっけ」

「そうですよ。私は楊さんをまっとうな人間に生まれ変わらせるために、押しかけでバイトになったんです。本当なら私、両親のもとで十二歳の青春を謳歌しているはずだったのに……」

「ふうん、それで、アクアはその楊くんのことが好きなの?」

「……はい?」

「だからあ、楊くんのことを異性として意識して好意を抱いてるのかって訊いてるの」

 耳年増な子供のようにワクワクした顔でそう言われ、水の名前を持つ少女は僅かに呆けた。

「な……なにふざけたこと言ってるんです! どこをどう結びつけたらそんな根も葉もないとんちんかんな戯言を口にできるんですか!?」

 無意識の動揺からきているだろう大仰なリアクションがことのほか可笑しく、ヴィエは謳うように厭らしい笑みで視線を濃くした。

「えー、でもいくら更生させるためだからって、普通は嫌なヤツのそばにそんなに長いこといられないよ。大体他にも駄目な人っていると思うし、なんでその人だけなのかなー」

「そ、それは……別に嫌なやつだなんて思ってませんし、確かに他にも人間的に問題のある人はいましたけど……一人の人間が救えるのはせいぜいが一人の人間なんですよ」

「ふうーん、そうなんだあ、うふふふっ」

「……そ、そんなことより! 私が元の世界に戻れる方法はないんですかっ」

 もうこの話はここで打ち切りと言わんばかりの剣幕。

 さんざ楽しんだヴィエはようやく真面目な表情を見せて思案をめぐらせた。やがてそれは難しい顔へと変わっていく。

「次元を越えるっていうのは簡単なことじゃないんだよ。何かを召喚、送還するくらいなら可能だけど、別世界へのゲートを開いて無事に向こう側へ辿り着くとなると……ね。準備も大変だし方法のそれも非常に手間がかかる。まあ、わたしならできないことはないけど成功や安全は保障できないし、ちょっと――面倒かな」

「面倒……って、そんな――困ります! わ、私にできることならなんでもしますから、お願いします! 元の世界に帰れるなら、ここにしばらく留まってもいいですから」

「うふふ、その申し出は非常に嬉しいんだけど――いや、まあ、わたし色に染める……もとい、手取り足取りしつけるにはその方が都合が良いかな?」

 じっとりと妖しく光るダークブルーの眼で凝視され、アクアの瞳にはっきりと恐れが浮かんだ。それは、知ってしまえば欲しくなる、手の届く所にあるのではないかと錯覚する、うらやましい、あやしい、何とも名状しがたい怖気だった。

「え……と、あの……」

「あはは、そんな怯えなくても。わたしとしてはそうしてしまいたいのは山々なんだけど……でも小さな乙女の仄かな想いを朽ち果てさせるのは勿体ないしねえ」

「だから、そんなんじゃ――」

「いいからいいから。さて、今すぐというのはわたしには不可能ね。わたしの知り合いでそんなことが可能なのはただひとり……でも、お願い聞いてくれるかなあ」

 うーむと腕を組んで悩む見目幼き美少女を、水色の瞳はぽかんと見つめるばかりだ。

「まあ、訪れる口実としてはちょうどいいか」

 ふっと緩まるヴィエの口もとは、軽い感慨を湛えていた。



 ロマンチックなデザインの寝室で、少女二人はベッドの上で寄り添うように仰向けになっていた。

「ど、どこへ行くのかわかりませんけど……なんか怖いです」

「うふふっ、ドキドキしちゃってるんだ。大丈夫、わたしがついてるから」

「あ……」

 ぎゅっと手を握られ、アクアはなんともいえぬ安心感を覚えた。ヴィエという少女は人間性に問題があるが、それでもこういうときは温かさと頼もしさが伝わってくる。

「それじゃあ、行くよ――」

 数秒後、手を繋いだ二人の少女は安らかな眠りへと誘われ、意識は急速に深い昏睡へと溶けたのだった。



 其処は、まさしく、一言でたとえるならば、壮麗きわだかな都としか形容できぬ場所であった。

 夕日を浴びて貴やかに金色燦然とした光輝に包まれる都は、縞大理石を用いた迫持造りの橋、柱廊、神殿、皓壁を擁し、虹色の水煙をあげる銀水盤の噴水を大きな広場や香たつ庭園に配して、幅広い通りの両側には優美な木々や花にあふれる壷や象牙造りの彫像が輝かしい列をつくる一方、北面の急斜面には赤い屋根や古さびた尖り破風が幾重にも層を重ね、草色の玉石敷きの小路をかきいだいている。

 意識を取り戻して幾許か、三つ編みの幼き娘などはその淡い緩やかな水面の瞳を、ただただ感動の波紋に広げるだけで、あたかも夕暮れの瑰麗なる都市の異様な美しさに魅せられているのだった。

 その傍らでは、こちらは眼にすること幾分か慣れているのだろう、栗色ショートの娘は呆けずともせず、しかし、闇の暗さを添えた蒼き双眸は、うっとりとした絶え間ない悦びをいっぱいに湛えている。

「ヴィエさん……ここは」

「幻夢境と呼ばれる<夢の国>だよ。そしてこの邑は、<夢の国>に存在する数多の都市の中でもひときわ類稀なる壮麗きわだかな夕映の都――中空のうつろな硝子の断崖に広がる小塔林立する伝説の都市、イレク=ヴァド」

 およそ眼にしたこともない光景と聴きなれない固有名詞に、半ば茫洋として身の置き場も判然としないでいるアクアに、ヴィエはさぞかし満足の吐息を鮮明にしてみせた。

「イレク=ヴァドこそはわたしの目指すいつか辿り着く彼方であり、<夢の国>の住人と成って永遠を過ごすことに決めた都市なれば……それこそがわたし、フヴィエズダ・ウビジュラという少女の目的にして大願なの」

「え、と、いつか辿り着くって?」

「うふふ、わたしたちは裏口を通ってここに来ているに過ぎないんだよ」

 ヴィエはイレク=ヴァドの王と特別な関係にあるため、「深き眠りの門」を通さず、直接イレク=ヴァドを訪れることができる。

「はあ……よく分かりませんけど、そうなんですか。――それで、今ここに来た理由は何なんです」

「それはね――」

「やあ、お見限りだね、ヴィエ君」

 ちょうどヴィエが口を開いた刹那だった。近くから男性の声が介入の挨拶を通してきたのは。

 そこに立っていたのは、やや淡白な風貌の、三十代にも五十代にも見える不思議な雰囲気を漂わせた紳士だった。

「カーター!」

 たちまち晴れやかな顔になって一声叫ぶヴィエに、紳士は薄く微笑んだ。

「覚醒世界の時間で一年ぶりか。少し驚いたよ、君が少女としての明るさを取り戻しているのだから」

「うふふっ。あれから程なくしてね、とってもいいことがあったの。近いうちに機会があれば話してあげるね」

「それはそれは、楽しみにしておくよ。ところで――そちらの子は?」

 ちらりと一瞥され、アクアは微妙に畏まった。

「は、初めまして、アクエリアス・ロックです。アクアで結構です」

「アクア君か。私はランドルフ・カーターだ」

「カーターはこのイレク=ヴァドを統治する王なんだよー。蛋白石の玉座に就いてるの。それでねアクア、カーターならたぶんあなたを元の世界に帰してくれると思うから」

「ほ、本当ですか!」

「どうやら何か訳有りのようだね。話してみたまえ」



 事情を聴き終えたカーターは、ふむ、と納得の表情を見せた。

「ヴィエ君、それでアクア君の世界は時空連続体に連なるところなのかね?」

「うん、それは問題ないよ、ちゃんと探査したから。何とかなりそう?」

「元の世界へ送還すること自体は大丈夫だが……揺り戻しが発生してしまうな」

「うーん……やっぱりそうかぁ。防止しないといけないかな」

「どんな些細なことであれ、不確定要素を持ち込むのは絶対に避けたいな。私だけでなく、ここを永住の地と決めている君のためにもね」

「わかった。じゃあ揺り戻し防止に必要な現在の周期でのそれを教えて」

「うむ。暫し待ち給え」

 両眼を閉じ、カーターが瞑想を始める。それはあたかも夢想の真理を追い求める永遠の旅人が、いっときの真実を夢で垣間見ているかのような光景であった。

 眉をひそめる三つ編み少女の肩を、傍らの美少女がポンと叩く。

「カーターは、あなたを元の世界に帰す手段を実行したときに生じる事象の揺り戻しを防止する方法を探ってるの」

「はあ……ごめんなさい、よくわからないです」

「要するに、それを防止することができたらあなたは元の世界に帰れるってこと。一応わたしも手伝うけど」

 もしナスの谷のドール退治とかだったら正直お手上げかなと、これは口に出さずにおくヴィエ。

 もともと興味本意で協力しただけなのだから無理と分かれば付き合う必要もない。諦めないようであれば周期が変わるまで待ってもらうまでだ。

 するうち瞑想が終わり、カーターは二人の少女へ淡々とした顔を向けた。

「アクア君の世界へ連なるゲートを開く際の、いまの周期における揺り戻しの防止は――」

 みるみるうちに開花するかのごときヴィエの表情よ。きょとんとするほかないアクアにとって、しかし吉と出たようではないか。

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