のぞみ先生といっしょ 後編


 窓の外に広がる、蒼茫と暮れた世界。

 夕食を終えたふたりはなんとはなしに部屋でテレビを見ていた。

 チャンネルを変えていると、あるニュースでリモコンを押す指が止まる。

「へえ、楢崎町から虹が消えたのか」

「わ、ほんとだ……」

 それは、虹が一年中かかり続ける不思議な町・楢崎の空から、その虹が消えたことを伝えるニュースだった。

 楢崎町の空には七年前からひとつの虹が浮かび、そのまま消えることがなくなった。多くの学者が研究を重ねたが、その謎はいまだ解明されていない。

「そっか……消えたんだ」

「やっぱ虹スキーとしては残念か?」

「……うーん、別に残念とまでは思わないです」

「そうなのか? よく屋上で虹を見てたんじゃなかったっけ」

「だって――」

 のぞみは一旦言葉を切ってから、

「虹は雨上がりに浮かぶから綺麗なんですよ?」

 緩やかに、ひだまりのように、優しくはにかんだ。

 そんな彼女を見て、和也は頷かずにはいられなかった。不思議な気持ちに背中を押されるようにして、のぞみと深く知り合う出会いを果たした屋上、――天を駆ける七色のスロープは今でも記憶に鮮明だ。

 テレビ画面では、虹と同時にGiftも消失したらしいことが伝えられていた。

「ギフト現象も無くなったみたいだな」

 Giftとは、楢崎町の住人だけにそなわった不思議な力で、一生に一度だけ、他の誰かに望むものを贈る事ができるという謎の現象である。発生するようになったのは十七年前かららしいが、虹と違って明確な物理的証明がないので、現象自体を否定する者も多い。

 和也もその辺は眉唾だと思っていたが、今は何故か妙な感傷を胸に感じていた。

 一生に一度だけ――願いを叶える。

 どうしてだか、記憶の残照を掠めるようなおかしな感覚が胸に広がった。例えるなら、ゲームをアンインストールしてセーブデータだけが残っているような。

 ふと横に眼をやると、のぞみも気持ちを忖度しかねる表情で眉を寄せていた。

 しばらく、なんともいえない空気が部屋に充満。

「あ、あの、お風呂借りていいですか?」

 沈黙を打ち破るように、突然に切り出すのぞみ。

「あ、ああ……いいけど、足は大丈夫なのか」

「へいきですよー。ちゃんとお医者さんに聞きましたから」

「そうか。じゃあ風呂場までついてってやるよ」

「ありがとうございます」

 柔らかなムードに戻った二人は、部屋を出て一階に下りていった。



「火曜の深夜にたまたま目が覚めてテレビつけたら、なんかアニメやってたんだよ。ぼーっと眺めてたら、心霊ホラーものらしくてな。主人公たちがでっかい屋敷の中を調査してるんだけど、どうやら行方不明になった仲間を探してるみたいなんだ」

「……はい?」

「で、主役の女の子が地下室の奥で仲間を見つけたとき、そばにあった血溜まりの浴槽から、ざばぁーっと悪霊が現れて――」

「な……な……」

 バスタブ前の脱衣所で、のぞみは茫然と口をぱくぱくさせた。

「なんでいきなりそんな怖い話するんですかーっ」

「いや……なんとなく思い出したから、つい」

「ついって……わ、わたし、これからお風呂入るんですよ!?」

「安心しろ。悪霊が出てきたら、のぞみを背負ってスーパー俺ダッシュで逃げ出すから」

「退治じゃなくてっ?」

「悪鬼や化物の類だから除霊は不可能らしい。でも家からは出られないから外に出てしまえば安全――って、そんなことどうでもいいからさっさと風呂入ってくれよ」

「そ、そっちが変な話したのに〜」

「……そういやそうだな、すまん。じゃあ俺は部屋に戻ってるから」

 そう言って踵を返す和也だったが、ドアに手をかけたところでシャツの裾を掴まれた。

 なんだかよくわからない懐かしい感覚に振り向くと、和也のシャツ裾を両手で掴んだのぞみが、いまにも泣きそうなへちょい顔を向けていた。

「う、じゃあドアを出たところで待っとく」

 しかし、それでものぞみはふるふると首を左右に振って、掴んだ服を離さない。普段ならここまではならないだろうが、やはり今は心細さが強いのだろう。

「わ、わかった。ここで待っとくから、何かあったら言ってくれ」

 恥ずかしさと怖さの入り混じった視線で見つめられ、さすがに観念した。

 程なくして背後で衣擦れ音が聞こえ、和也は妙にどきどきしてきた。付き合い始めてから何度か肌を重ねてはいるし、裸や下着姿も見ているのだが、これがシチュエーションの新鮮さというものだろうか。

「あの……み、みないでくださいね」

「あ――ああ、まかせとけ」

 何がまかせとけなのかは自分でも不明だが、のぞみの上擦った声を聞くと振り向きたい衝動に駆られてたまらない。ああなんてこったい、インテリジェンスジェントルマンとなって我慢するのがこんなに辛いものだとは、それだけのぞみのことを愛している証拠じゃないか。そうか、それなら今すぐ据え膳食わねばなんとやら――って、まてこら、無理矢理はよくない。心を静めろ。

「バージニアスリム、メンソールライト……」

「???」

 突然謎の呪文をぶつぶつ唱えだす和也に面食らうのぞみ。

 非常に気になったが、ここで声をかけて振り向かれでもしたら自分が大変なことになってしまう。仕方なく衣服を脱衣カゴに入れると、とてとてと風呂場に足を踏み入れた。

 ――のぞみが浴室に消え、ようやくホッと一息つく和也だったが、

「あのぅ、シャンプーとリンスとボディソープはどこにあるんですか?」

「そんな軟弱なもんあるかっ!」

 バスタブから聞こえてくる情けない声に一喝。

 和也は固形石鹸一つで全身を洗っているのである。

「はうぅ……前にきたときまでは置いてあったのに」

「全部使い切った。諦めろ」

「はうん」

 どうやらおとなしく石鹸を使う気になったらしく、シャワーが流れ出す。

 だが、確かにこの前までシャンプー一式があったのは事実だ。いつ買ったのか覚えていない、偶然のぞみが使っているのと同じものが。

 慣れない石鹸と悪戦苦闘しているっぽい呟きを耳にしながら、和也は心の奥をモヤモヤさせていた。



 窓の外には、群青色の月夜。

「あの……このシャツ、とてもカッコ悪いんですけど……」

「ばっ、お前なに言ってんだよ、めちゃ格好いいだろっ」

 なんとも困ったような顔をするのぞみは、胸に『闘魂』の文字がプリントされた新日限定シャツを着ていた。パジャマ代わりにと和也が部屋の押入れから出したもので、背面には某先生のサインプリント入りという逸品だ。

「のぞみさん、よくお聞きなさい。それを手に入れるのに俺がどれだけ苦労したことか。本当なら俺が着たいのにサイズが小さいからやむなく秘蔵していたものを、あなたのためにお蔵出ししたのですよ。もう少しモノの価値というものを……って」

 くどくど並べ立てる和也だったが、新日限定シャツを着たのぞみを見ていると不思議な感慨が胸にこみ上げてきた。

 思わずじぃ〜っと眺めてしまう。

「えと、どうかしたんですか?」

「いや……お前のその格好を見てたら、なんだか変な気持ちになってきて……」

「え……っ」

「ああ、まてまて、別にヘンなこと考えてるわけじゃないんだぞ? ホントだよ?」

「わたしもです」

「えっ?」

 急に同意されて、一瞬どっちの意味なのか判別しかねた。

「わたしも、おかしな気持ちなんです……このシャツを着るのは初めてのはずなのに、なんだかとても懐かしい感じがして」

 眼を伏せ、思い出の海に浸るように吐息を漏らすのぞみ。だけど、それは遠くで微かに聴こえる漣のごとく、決して掬い取れぬ残滴のようで。

「そういえば、前にもこんなことあったな」

 休み時間のとき校舎一階の廊下で、次が体育の授業だというのぞみと会ったのだが、ジャージとブルマ姿に強烈な衝撃を受けた。それこそ全国に三万人は存在するといわれるブルマ愛好家、通称ブルーマーの血が目覚めてしまったのかとも思うショックが全身を襲った。

 放課後、ブルマ作戦・通称プロジェクトBを発動。自宅に呼んだのぞみを、あの手この手で制服から体操服に着替えさせたのだが、まるでデジャヴのような感覚が脳髄を直撃した。そして、のぞみも似たような感情を抱いていることがわかった。

「おおそうだ、あのブルマはちゃんとえちぃ専用として取ってあるか?」

「ヘンなこと考えてるわけじゃないって言ったそばから、そんな方向に話を切り替えないでくださいよ〜っ」

「安心しろ。いくら俺でも、神聖な闘魂シャツを着たのぞみ先生とねんごろになりたいなんて思わないから。それは燃えであって萌えじゃないからな」

「えと、よくわからないんですけど……はぅん、雰囲気台無し」

「それよりさっきの質問に答えてくれよ」

「ううぅ……ちゃんと保存してありますよぉ」

 半泣き状態の投げやりな返事。どうやら遺憾のご様子だ。

「悪かった。でもすげー嬉しい。よし、来週にでもまた使おう」

「わわ、ほんとにまたやるつもりなんですかっ」

「当たり前だろ? 俺はのぞみが大好きだからな。誇張でもなんでもなく、俺にとってお前は世界で一番の自慢の彼女だと思ってる」

「あぅぅ……」

 たちまち顔を真っ赤にするのぞみ。少なからず歓喜も滲み出ているのは明らかだった。

 のぞみは甘い言葉に弱い。シンプルで率直なものであればなお効果は抜群だ。それは和也がのぞみと付き合っていくうちに学んだことである。

 だからといって、和也の彼女に対する愛情発言はでまかせなどでは決してない。歯が浮きそうなセリフでも、本心から口に出したものに他ならないのだ。

「わかったらそろそろ寝ようぜ。毛布はそこにあるから、その辺で適当に横になってくれ」

「あ、はい……――って、わたし、床で寝るんですかっ!?」

 喜び一転、またビックリ。泊めてもらう立場とはいえ、女の子を床に寝かせるなんて。

「ん、なんだ、我が家の『プリンス床ホテル』はご不満か?」

「うう……明日の朝、ベッドから落ちた和也さんにわたしが潰されてたって知りませんから」

「だって逆にしたら俺のほうが潰されそうだしなあ、むぎゅうって」

「わ、わたしそんな寝相悪くないですよーっ」

「嘘つけ。あのときなんか――……ん?」

「……あれ?」

 またしても、既視感。



 午前零時を廻った深夜。電気の消えた室内に声が燈る。

「あの、まだ起きてますか?」

「ん……ああ」

 寝付けないのは自分だけではなかったらしい。和也は、のそりと身体を起こしてベッドに腰をかけた。

 窓から差し込む僅かな月明かり、枕を胸元で抱いたのぞみがちょこんと座っていた。

 ぼんやりと見つめ合うふたり。

 やっぱり、前にもこんなこと、あったような気がする。

 ふっと、のぞみの瞳が揺れた。

「もし……もしもですよ。わたしたちが過去に出会っていて、深い仲になっていたとして、それを忘れているのだとしたら……わたしとあなたが惹かれ合ったのは――」

 ふたりの出逢いは不可思議な偶然に満ちていて。

 付き合うようになってからも、どこか懐かしいと感じる出来事がたまにあって。

 それでも――

「あ……っ」

 ベッドから下りてきた和也に抱きしめられ、のぞみは小さく声を漏らした。

「仮にそうだったとしても、それは、只のきっかけにすぎない。俺とお前が出会って、互いを好きになっていったのは――ゼロからの純粋な気持ちによるものだろ?」

 のぞみは、ふるふると眼を震わせた。

 月明かりに照らされ、胸に抱いた枕を挟んで、ぎゅっと抱き合う。

「そんな現実にありえないことを口走るようなら仕方ない。少し狭いが、俺も一緒に『プリンス床ホテル』で寝てやるよ」

「あ……あの、わたし、わたしっ」

「なんだ、夜這いか?」

「ち、違いますよっ!!」

 こんなときでも、このひとはこのひとだった。

「わたしも、和也さんが、せ、せせ……世界でいちばんの彼氏ですからっ」

 驚くほどガサツで、アバウトで、女の子に対する気遣いがいい加減で、ちょっといじわるなところもあるけれど、でも、ちゃんとわたしを見てくれて、考えてないようで考えてくれていて、――そんな和也を、椎名希未は大好きなのだ。



 翌朝。

 スズメの鳴く声が響き、朝日が差し込む部屋の中。

 のぞみ先生のとんでもない寝相に巻き込まれて大変なことになっている和也の姿があったのだった。

(了)

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