第十章 リース・フレキシブルが恋のお守りに勇気づけられること


 エルフランド――人間の世界の野原の上だけに空想をとどめておこうとする賢い人たちに、リースたちがやってきたこの土地について物語るのは難しい。その景色、その色彩、その光景を描写するのは絶望的であるといえる。さりとてそれでは読者に申し訳が立たないので、つたない表現で描写するのは心苦しい限りだが、引用を頼りに一応の説明を試みようと思う。まばらに木が生えた野原、蒼白い山々は厳しく輝き、峰々の頂からは金色の光がリズミカルにこぼれ落ちる。遠くには銀色に光るエルフランドの宮殿が眺め、その尖塔が空にそびえている。エルフランドの色は人間の世界のそれよりも深みがあり、大気さえも透明に光っていて、何もかもが人間の世界で六月の木々や花々の水に映る影のような感じなのである。その色彩は、夏の夜の深い蒼さ、夜に光を投げかける金星の蒼白い色、黄昏の湖の深み――それらはみな蒼穹のエルフランドと称される所以なのだ。

 私はこのエルフランドについて語りたいことがまだまだたくさんある。時間のたたないエルフランドにおける時の概念のことや、その他諸々、人間の夢と希求が焦がれる世界の様々なものを伝えたい。しかしここでそれらを物語るのは、リース・フレキシブルという少女の話の筋道から無駄にそれていくだけであり、かかるがゆえに最低限の解説だけにとどめておくことにする。すなわちエルフランドとは、エルフ王の想いがつくり出したものであり、その心の産物なのだ。エルフランドの静穏はエルフ王の心の平静に依ってまどろんでいるのである。

 リースは、野原に点在する古い家並みと、そこで暮らす住人たちを見渡した。彼らは、かつてはわれわれの知る野原の側の人間であった。遠い日にアールの郷と呼ばれていた谷間の国は、エルフ王の最後の大いなる呪文によってエルフランドと融合し、人々の記憶から忘れ去られていった。その物語については『エルフランドの王女』という書物に詳しく記されているので、興味がおありならば一読をおすすめしたい。アールの郷の王アルヴェリックとエルフランドの王女リラゼル、そしてふたりの子供であるオリオンは、アールの郷の人々とともに、現在も昔日のままの姿で<時>の影響を受けることなく穏やかに過ごしているのだ。

「それでは私はこれからエルフ王に謁見して情報を伝えにいきます。もどってくるまでのあいだ、自由にしていてください。ただし、エルフランドの外には出ないように」

 そう言い残してロジャー・ベーコンは、エルフランドに住む旧友の魔女ジルーンデレルに伴われ、エルフ王の宮殿へと進んでいった。リースたち一行のなかで、エルフ王にお目通りが可能なのは、偉大なる魔法使いである彼のみなのだ。そういうわけで、残された少女たちはそれぞれの自由時間を過ごすことになった。



 トロールたちと遊びまわっていたゲボ子は、途中で別れて、のんびりと静穏にまどろむ世界を歩いていた。すると彼女の眼前に虹があらわれた。エルフランドの事象はエルフ王か、あるいは王女リラゼルの心の旋律により揺らめく。人間の世界のそれを超えた美しい虹はその現象なのかもしれないが、ゲボ子は懐かしい記憶の彼方を垣間見た。子供の頃、母親がこんな話をしてくれた。虹の先端の立っているところに行けば、黄金(きん)の鍵が見つけられる、と。

『それはなんの鍵? どこのなにを開ける鍵なの?』

『それは誰にもわからないの。見つけた人がそれを見つけなければいけないの』

『黄金ならたぶん、売ったらおかねがたくさんはいってくるねー』

『売るのなら、絶対に見つけないほうがましよ。もっとも、ふさわしい人にのみ見つけられる鍵みたいだけれども』

 そんなやりとりを思い出したゲボ子は、我知らず大きな輝く虹の先端へ向かって走っていた。太陽にたよらないエルフランドの虹は、近づくにつれてますます大きくなり、ますます明るく輝いた。弓形の虹の端に辿り着くと、きらりと光る小さなものが地に落ちているのを見つけた。ゲボ子はさっとそれを拾った。

「黄金の鍵、ゲットだぜー♪」

 まさしく黄金の鍵であった。鍵の柄は純金製で、鍵の手は類稀なつくりでサファイアが嵌めこまれていた。この美しいものを手に入れたゲボ子は、とりあえず服のポケットにしまった。現状では何に使えばいいのかわからないためだ。そのうちきっと見合う鍵穴とめぐり合えるときがくるだろう、そう思って楽しげに鼻歌をうたう少女は、ほどなく鍵を使用する事態が訪れることなど考えもつかなかった。



 銀色にきらめく宮殿のなか、歌にだけ語り伝えられている伝説の玉座――霧と氷の玉座に、空色のマントの上に白貂のケープをはおったエルフランドの王が、重々しく静かに、顎鬚に手を触れながら坐っていた。月光、夢、楽の音、蜃気楼でできた大広間の中で、ロジャー・ベーコンはエルフ王の玉座の前のきらめく床にひざまずいていた。ロジャーにとっては久しぶりの謁見であった。彼は、物質世界の恐れる呪文を失い伝説の中へ歩んでいったエルフランドを現在も訪れ、エルフ王の御前に出ることを許された数少ない人間であるため、快く再会を迎えることができた。

「いまでは、わしのもとに来る人間はおまえを含めて非常に少なくなった。おまえがまだ死すべき宿命の理に従わずにいることに賛辞を呈しよう」

「謹んでお受けいたします。王よ、このたび私が訪れたのは世界全体につらなる深刻な事態が差し迫ろうとしているゆえ、そのことについて王からの答えをいただきたいのです」

 そうしてロジャーはこれまでの経緯と、リースがわれわれの知る野原の縁の田舎家に住む老魔女から聞いた知識をエルフランドの王に話した。彼がそれを話し終えたとき、エルフランドに、およそ滅多に起こることはない現象が生じた。エルフ王が厳かな眼を見開き、大きく躯を動かして身じろいだのだ。その情動はエルフランド全体に波紋を広げ、これまでにないほどの強い影響を与えた。すべての夜明け、日没、黄昏、そして蒼白い星の光などは、エルフランドの永遠の輝きの中に混ぜあわされていたが、王の動揺がその光のすべてを揺らした。それどころか、王が平静を取り戻すまでの僅かな間、エルフランドのあらゆるものが異常な震撼に覆われたのである。やがてエルフ王は疲れたようにしわがれた声を発した。

「世界が――ペガーナの盤上に取り込まれようとしている」

「――!」

 ロジャーの老骨を戦慄が這い登った。エルフ王が深い深い吐息を漏らし、いま一度エルフランドが震えた。

「残念だがわしにはどうすることもできん。三つの大いなる呪文を使い果たしてしまったエルフランドには、かの侵食を抑える力は残されていないのだ」

 かつてエルフランドには、世界中のどんな魔法よりも強い、三つの偉大なる魔法が存在した。それを行使できるエルフ王は、エルフランドのためにその力をずっととっておいた。しかし、あるとき――それは『エルフランドの王女』に記されていることなのだが――その三つの偉大なる魔法を、王は愛しい娘リラゼルのために、すべて使い果たしてしまったのだ。それにより、われわれの住む物質世界の脅威に対抗する手段を失ったエルフランドは人々より忘れられ、伝説のものとなったのである。

「わかりました。後は私たちのほうでなんとか手を尽くしてみます。王はどうぞエルフランドの静穏に身をおいてくださいませ」

 ロジャー・ベーコンは深々と低頭した。



「おさまった……」

 突然のエルフランドの震動で地に転んでしまったリースは、ようやく静穏な空気が戻ったことに一息ついた。

「きっとロジャー老がエルフ王に話したことの影響がそれだけ強かったのでしょう」

 銀鈴のような声に振り向くと、親友の小妖精を肩に乗せたレナスフィールが佇んでいた。エルフランドがこれだけ震撼するなんて余程の事実に違いないと、フィナが険しい顔で言い添える。ロジャーが戻ってきて説明してくれるのを待つしかないが、緊張は隠せない。

「あら、落し物ですよ、リースさん」

 足もとに落ちていた楕円形の時計をレナが拾って見せた。どうやら転んだときにスカートのポケットからこぼれたらしい。ゲボ子からプレゼントされたダイスも落としてはいないだろうかと案じるリースだが、手探りでポケットに残っていることを確認した。レナはクリスタル・ガラスの下の文字盤まわりに彫りこまれていた銘文を眼にとめた。

「詩的というか――ロマンチックでセンチメンタルな言葉ですね」

「レナさん、読めるんですか?」

「公爵令嬢たるもの最低数ヶ国語はマスターしていなくては。……といっても、おぼえている言語の中にたまたまドイツ語があっただけですけど」

 読んでくれませんかとリースがお願いした。レナは、上品かつ気さくな微笑を浮かべながら、ドイツ語の銘文を英語に訳してくれた。

 人生の語るのは時のみである
 だが、これを持つ者には
 愛と死の永遠が語られるであろう

「どういう意味なんでしょう」

「さて、そこまではわかりかねますけど、恋に関する格言ではないでしょうか?」

「恋……ですか」

 この時計をくれた魔女がこれは「恋のお守り」だと言っていたのを思い出すリース。

「レナさん、恋って、どういうものなのか知ってますか?」

 それを聞いたレナは、水を得た魚のようにいきいきと空色の瞳をかがやかせた。

「教えてあげましょう。恋は大切なもの……永遠です。人生はあっという間に過ぎるのに、リースさん、考えてごらんなさい。流れる水が教えてくれるのもそのことなのですよ」

「恋は――永遠」

 リースは眼をしばたたいた。永遠――それだけが脳裏に沁みこんだ。もう少しで何かが鮮明になりそうなもどかしい感じ。眼前にフィナがふわりと浮いた。

「もう、レナの言うことは抽象的なのよっ。いい、リース、アタシがわかりやすく教えてあげるから。たとえば、誰か気になる人がいて、その人に対する自分の気持ちがよくわからない。その人と一緒にいると楽しい。その人のちょっとした仕草や言葉で、笑ったり泣いたり、怒ったりしてしまう。そういった気持ちが、ズバリ、恋よ!」

「フィナ……それはちょっと、格調がなさすぎです」

 溜息を吐くレナをよそに、バラバラだったパズルのピースが全部埋まった感覚がリースの頭を支配した。点と線が繋がった、と形容すればいいだろうか。彼女はそれまで靄がかかっていた自分の気持ちを理解し、はっきりと自覚したのである。

「ありがとうございます!」

 ぺこりと頭を下げて楕円形の時計をポケットにしまうリース。意気揚々と駆け出した少女の背中を、レナスフィールとフィナはきょとんと見送ったのだった。



「ゲボ子さん! 私、ゲボ子さんに伝えたいことがあります!」

 そう言ってリースはゲボ子の手をぎゅっと握った。リースの手は熱をおびていて、彼女らしからぬ積極的な態度に、ゲボ子はわけがわからぬまま首をこくこくさせた。

「おー、なんだー?」

「私は――ゲボ子さんのことが好きです!」

「? 大丈夫、あたしもリースのこと好きだから」

「ち、ちがいますっ! 私の言う好きは、恋の愛です。友愛のそれじゃなくて恋愛なんです。私はあなたを愛しています!」

 リースは、自分でも驚くほどの激しい語調で、先刻気づいたばかりの想いをぶつける。その恋焦がれ思いつめた恍惚の顔を、ゲボ子はいくばくかの驚きの気持ちで見つめた。

「んー……よくわからない。いったいどうしたんだー? なんだか……魔法にかかったような眼をしてるぞ?」

「恋の魔法です。恋は永遠なんです、私の永遠はあなたが作ってくれたんです。ゲボ子さん、不滅とはどういうものか、私はいまはじめて感じています。ああ、あなたが、私の眼を通して私の心を見ることができればいいのに。私をあなたに惹きつけて離さないもの、私の心のなかに永遠の願いを目覚めさせたもの、それはこの世の時間の外にあるんです」

 息もつけないほど胸をどきどきさせて熱弁を振るうリース。その手がますます熱をおびてきたが、ゲボ子はそのままにさせておき、そして、困惑を打ち明けた。

「たぶん、あたしとずっといっしょにいたいってことなんだろうけど……いきなりそんなこと言われても、その、なんだ……困る」

 それで手は離れた。リースの全身をどっと疲労が襲い、熱が急速にひいていき寒さが身にしみた。ふとポケットに手をやると、あの時計はきれいさっぱりなくなっていた。「恋のお守り」は、あくまで持つ者に恋の勇気を与えるだけで、その結果までは保証しないのだ。役目を終えた楕円形の時計は、新たにそれを手にする者のために消え去ったのだろう。

「二人とも、こんなところにいたのですか」

 間がいいのかわるいのか、宮殿から戻ってきたロジャーがやってきた。途中で合流したらしく、レナとフィナも一緒だ。リースとゲボ子に流れる微妙な空気に気づいたレナは首をかしげたが、重要な報せを携えてきたロジャーはその場の雰囲気など感じ取ることはできなかった。窪んだ眼窩に揺れる瞳をぎらつかせ、世界を覆う脅威はペガーナによる侵食だということを告げたのである。

「ペガーナ?」

「なんだそりゃ、食えるのかー?」

「食べ物じゃないから、無理……」

 こんなときでもマイペースなゲボ子の発言に答える、淡々とした声。一同がハッとして声のしたほうに眼を向けると、黒の服に白い肌のコントラストが際立つ、小さな少女が立っていた。あらゆる光の色を吸収する黒髪、そして、神秘的な闇の暗さを湛えた静謐なる瞳。

「冬箱根……?」

 リースの言葉に少女がこくりとうなずく。他の皆が、この娘が――という顔になる。

 無表情でリースたちを見渡し、少女は言った。

「わたしは冬箱根。<運命>によって創られた、<始まり>よりもまえの霧の欠片の一つにして……――ペガーナの使者」

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