第九章 エルフランドへ

 
 ――世界の彼岸で、私は一つの秤を手にして、世界を量っていた



 傍から見ればかしましい一行が、イギリスの自然たゆたう谷間の領域へ向かっていた。奇矯な容姿の老人以外は、かぐわしい花々の馥郁たる香り立ちこめる、うら若き年頃の少女たち。別行動をとっていた二組が落ち合い、互いに得た情報を整理した結果、次のような結論が出た。

 フィナの故郷――エルフランドへ行き、リースの得た知識を、大いなるエルフ王に伝える。そうすればこの世界を覆う脅威の正体が判明するはずである。

 現在ではエルフランドは伝説の彼方に霞んだ幻想郷であり、たやすく辿り着ける場所ではなくなっている。その境を見つけることができるのは限られた存在だけになってしまって久しいのだ。そしてその存在のひとりが、元エルフランドのフェアリーであるフィナに他ならず、彼女の導きに従って、一同は一路エルフランドへと歩を進めていた。

 温和な涼気の支配する高原の丘陵、雪に埋もれた荒涼とした地域のすぐかたわらに拡がっている高原で、一行はピクニック気分の昼食をとった。フィナの目算によると、目的地までは一泊二日で到着できるらしい。事前に数日分の食糧を買い込んでロジャーの飛行艇に保存しておいた。食事の際はフィナがアポーツで取り寄せることが可能で、他のかさばる用具もそれゆえ飛行艇に置いてきてあるため、旅の荷物は必要最小限ですんでいる。

 食後、荒々しい風の戯れが吹きぬけてゆく空を眺めていたリースは、思わず眼をみはった。鷲と蛇が、天空高く、互いに絡まり合いながら大きな円を描いて悠然と飛翔していた。広大な円を幾重にも描きながら大空羽ばたく一羽の鷲、そしてこの鷲に、一匹の蛇がぶら下がっていたのだ。その姿は、鷲の獲物のようではなく、女友達のようであった。蛇は鷲の首の周りにまとわりついていたからである。それはツァラトゥストラの友である動物に違いなかった。太陽の下で最も誇り高い動物と、太陽の下で最も賢い動物――鷲と蛇。気がついているのはリースだけだった。

「すみません、ちょっと用を足しにいってきますね」

「ひとりで大丈夫かー? よかったらあたしもついていくけど」

「い、いえっ、平気です! 何かあれば携帯の緊急連絡で知らせますからっ」

 まったり同行を申し出るゲボ子の気持ちだけ受け取り、リースはそそくさと小走りでその場を離れた。鷲と蛇が飛んでいった森の木陰のなかに足を踏み入れると、少し進んだところに岩塊があった。リースを待ち受けていたように岩の上に坐す、一匹の魔法うさぎ。

「ツァラトゥストラさん、どうしてここに?」

「神は死んだ。だから今やわれわれは欲する、――超人が生きることを」

「……はい?」

「超人こそは大地の意義である。人間は超人の誕生をこそ望まねばならず、そのために没落しなければならない。わたしがあなたのまえに今日あらわれたのは、最後の忠告をするためだ。……仏陀が死んだのちにもなお何世紀間も仏陀の影が、或る洞穴に見られた――途方もない恐ろしい影が、である。さて、神は死んだ。しかしわれわれは、神の影をもなお征服しなければならない! この世界はこの世界のみなのだ。世界の涯の彼方などを、果ての果ての遊戯を認めてはならない、神々の名誉のために、などあってはならない! まことに、わたしはあなたに言う。神の影との決戦に打ち克ち、大地に忠実であらんことを――超人の橋とならんことを!」

 ツァラトゥストラはこう語った。



 夜が訪れ、高原に三つのテントが張られた。フィナの能力で飛行艇から取り寄せたものだ。食事を終えた後、夜の闇を照らす太古の知恵、人がまだ原初の自然とともにあった時代に生まれた光――赤く燃え立つ焚き火を囲んで、レナは例の調子で愉快かつ奇想天外な冒険話を披露し、静寂に沈まんとしていた旅の一夜を盛り上げた。また、ホラを抜きにした彼女の狩猟話に及ぶと、それは、文明や科学の進歩にのみ没頭する現代人からは遠のいてしまった、星々に規律を与えている経緯のより近くにいるあの感覚を、人が最も感受すべきである世界の本来性を呼び覚まさせるかのようであった。

 やがてめいめいがテントに入っていったあと、リースはひとり野原に座って星空を眺め、ツァラトゥストラがこんなことを語ったのを思い出した。

 ――おお、人間よ! 注意してよく聞け!
 深い真夜中は何を語るのか。
 「私は眠った、私は眠った、そして――
 「深い夢から今私はめざめた。――
 「世界は深い、
 「昼が考えたよりももっと深い。
 「世界の苦痛は深い、しかし――、
 「悦びは、――胸痛む苦痛よりももっと深いのだ。
 「苦痛は言う、『過ぎ去っておくれ!』と。
 「しかし、すべての悦びは、永遠を欲する――、
 「――そうだ、深い、深い永遠を欲するのだ!」

「……永遠」

 リースはその一言だけを口にした。ツァラトゥストラの言葉の意味はよくわからないが、永遠という単語だけは強い印象の木霊となって反響する。彼の云いたいこととは受け取り方が違っているのはたぶん間違いない。しかしそんなことはリースにとって問題ではなかった。なぜ、永遠という言葉に、心が深い形象を仄めかしたかなのだ。

「あなたは永遠を求めているのですか?」

「師匠――」

 振り返ると、ロジャー・ベーコンが立っていた。夜闇のなかで見るその姿は奇怪な亡霊そのものだが、ここ二ヶ月ほどで魔法の側にすっかり馴染んだリースは驚くそぶりも見せない。たとえ本物の亡霊と出くわしても害がない限り恐れることはないだろう。

「わかりません。ただ……永遠という言葉の響きが、妙に感慨深くて」

「ふうむ。リース、あなたは<月出ずる彼方の土地>を知っていますか?」

「えっと……むかし祖母から聞いたことがあります。邪悪な魔法使いや魔女の住む恐ろしい場所だと。救済の届かないところにあって、<最後の審判日>の運命も届かないから、魔法とかかわりをもった黒い技を知る者たちは、そこを堂々と歩きまわり、罰も受けずに生きていけると――そこからやってくる者は災いをもたらすって」

 それを聞くと師匠は苦笑した。その返事を予想していたかのように。

「まあ真実を知っているのは術の達人たちだけですから、一般の人々が民間伝承の誤謬に陥るのも無理はありませんね。リース、あなたには本当のことを話しておきましょう。<月出ずる彼方の土地>は、時間との交易を行いながらしばし地上に住み、神秘を伝え、人の知らぬ方法で墓のうしろを徘徊し、ついに魔の道を究めた師匠たちの集う、魔法使いの理想郷なのです」

「魔法使いの――理想郷」

「かの地での永遠を望むならそれもよいでしょう。すべてはあなたが決めることです」

「……師匠は其処へ行かないのですか?」

「私は魔道の徒であると同時に、科学の徒でもあるのです。<月出ずる彼方の土地>は科学や機械の道に手を染めた者を受けいれません。そして私は科学と実験を愛しています」

 それは彼の誇り。ロジャー・ベーコンという、偉大な驚異博士の。八百年の時を生き、それでもなお人生は後悔の連続であると語る、そんな師匠を、リースは崇敬の眼差しで見つめた。そして、すべては自分が決めることなのだ。だから彼女はまず、自分のほんとうの幸せを見つけなければいけない。それを確信したのだった。



「懐かしい境界の雰囲気が近くなってくる……エルフランドはもうすぐだわ」

 フィナが故郷の空気を感受したのは、翌日の午後の昼下がりである。山奥の谷間の丘陵に差し掛かっており、そこを越えれば現実世界とエルフランドの境は間近だという。一行の中でただひとり山道を歩きなれておらず体力もないリースは、相当に肉体の疲労が蓄積していたが、あと少しということを聞いて気力が湧いてきた。

 そのとき――何処かで小さな手が印を結んだ。それがキブの御印であることを誰が知ろう?

 異常はすぐに現実の形をとった。眼に剣呑な光を湛えた狼の群れが、突如として周囲の木陰から飛び出してきて、リースたちを取り囲んだのである。それはただの狼ではなかった。なんとなれば、その体はまともな動物のものではなく、山の土で構成されていたからだ。フィナとロジャーが即座に尋常ならざる異質さを感知する。

「気をつけて! こいつら、魔法生物でもなければ魔物でもない……この世界のいきものじゃないわ」

「どうやら異界の生命のようですな。ふむ、すると、昨年の暮れにリースを襲ったという魔性の樹木の同類とみて間違いないでしょう」

「フィナ、妾のライフルを」

 ただちにフィナがアポーツで狩猟用ライフルを取り寄せる。相手が魔性だけに普通の銃器では効果がなさそうなので、フィナがその場で魔力を付与した。優雅にライフルを構えるレナの反対側では、ゲボ子が黒い装飾品を取り出して魔法の剣を手にしたところだ。

 狼の姿をした獣が数匹、唸りを発して跳びかかった。ライフルの弾丸が一匹を撃ち落とし、魔法の剣が二匹を切り裂いた。ところが、弾は額に命中し、剣は首や胴体を真っ二つにしたはずなのに、地に転がった肉体はすぐに再生し、狼の姿を取り戻したのである。これにはゲボ子も動揺した。以前の樹木相手のときは、魔法の剣で一太刀浴びせただけで異界の生命を消滅できたというのに。隙を窺っていた一匹が、不意をついて、注意を他へ注いでいるレナのほうへ跳躍した。しまったと思うゲボ子だが対応が間に合わない。しかし獣はそのままレナを無視して跳び越すと、リースに襲いかかった。そばにいたゲボ子は余裕で対応できた。魔法の剣で裂いて、その場で再生されないよう蹴り飛ばして距離を開ける。

「察するに、狙いはリースさんですね」

 獣たちの行動と矛先を観察していたレナがそう断言した。

「で、でも、どうして私が……?」

「もしかしてリース、魔物フェロモン体質だったりとかー? あ、でもそれならフィナが影響受けてるはずだから違うか」

 まえに読んだことのあるライトノベルを思いだして言うゲボ子だったが、すぐに否定した。困惑するリースに狙いを定め、狼たちがじりじりと包囲の輪を狭めていく。一同に緊張が走るなか、ロジャーが魔法の詠唱をはじめた。両手を上げてゆらゆらと不思議なおどりを踊っているように見えるが、フィナとリースには、魔法の達人のみが発現せしえる綿密かつ深遠な魔術の力を感じとれた。

「ブラフマーのまなこよ、シャダイのひとみよ――!」

 詠唱が終わった瞬間、くるめくばかりの蒼い閃光が迸った。光がおさまると、獣たちに変化が生じていた。ある狼は右脚の一部分が、ある狼は尻尾の一箇所が、ある狼は背中の中央が、それぞれ様々な箇所に赤い斑点が浮かびあがったのだ。

「赤い部分が異界の生命の核です」

 ロジャーが言い終えると同時に数匹が跳んだ。ゲボ子が魔法の剣で赤い斑点を攻撃すると、狼は見る間に土くれと化してぼろぼろと散った。レナが撃ったライフルの弾丸は赤い斑点に命中しても先刻同様に再生し、効果がなかった。小妖精の魔力付与ではゲボ子の持つ魔法の剣の力には遠く及ばないのだ。それでも、獣をリースから遠ざけることはできる。

「妾は牽制につとめますから、敵の殲滅はゲボ子さんにお任せします」

「よーし、まかされたー!」

 反撃に転じるゲボ子だが、それ以上に威勢を奮ったのは、稲光にも似た彼女の黒剣である。この剣の金属自体がもともと非常な速度で凄まじい距離を駆けめぐることができるのであり、魔法の剣は意思あるもののごとくゲボ子の手を持ち上げさせると、獣たち目がけて残像軌跡が残るほどの攻撃を浴びせかけた。宇宙の彼方から地球を訪れてきた剣は、紫電のように異界の生命の核に打ちかかり、狼の数はあっという間に残り一匹となった。その一匹が死にもの狂いでリースに跳びかかる。ゲボ子がリースの身体を横抱きにして地を転がり、天に向けて突き上げた剣の刃は、見事に獣の赤い斑点を刺し貫いていた。

「あ……ありがとう……」

 声をふるわせて礼を口にするリースの脈拍は信じられないほど速く、胸の鼓動の高鳴りが間近のゲボ子に聴こえはしないかと心配したほどだ。なぜそんな気持ちになったのかはわからないのだけれども。

「でもこいつらいったいなんだったのかなー。それにリースだけを狙うわけも」

「きっとあそこへ行けば何かの答えが得られるわよ」

 フィナが夕暮れに染まる丘陵の向こうを指し示した。それをはじめて眼にするゲボ子とリースは、眼をゆらめかせて感嘆の声を発する。この世のものではない優しい不思議な輝きが地を照らしていた。それこそが、いまや伝説の彼方となったエルフランドの境界をなしている、黄昏の薄明かりでできた境壁であった。



 少女たちと老人が黄昏の境界の中へ入っていくのを、遠くから小柄な少女が眺めていた。――冬箱根という名の少女のもとに、一匹の魔法うさぎが近寄る。それを眼にした冬箱根は、艶のない黒曜石の双眸を僅かにひそめた。

「きみは……そう、そういうこと」

「そうだ! これが私とお前の、アルファにしてオメガの出会いだ!」

「でも、どうして……だってきみは」

「人間の本性の最高の諸力と最低の諸力、最も甘美なもの、最も軽率なもの、最も恐ろしいものが、ツァラトゥストラというこの一つの泉から、不滅の確かさをもって迸り出る。私は運命に対してすら辛辣ならざらん、――ツァラトゥストラは針鼠にあらざれば」

「そう……けれど、わたしは次で終わらせる。それでおしまい」

「否、否、三たび否! 私か、それともお前か、だ!」

 二者の間に沈黙が流れる。

 最後に、ツァラトゥストラはこう言った。

「私は光なのだ。むしろ夜であればよいのに。この身に光を帯びているということが、私の孤独なのだ」

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