第11話「ふたりの距離」


「なにィ、好きな女ができたあー?」

「わ、声が大きいってばアニキ!」

「ハッ、実りのないナンパに精を出してたお前が、マジになった相手を見つけたってンだから、驚くのは当たり前だろーが」

 チェコはプラハの新市街にあるヴァーツラフ広場の一角で二人の男が話し合っていた。一人は赤いとんがり帽子をかぶった十代前半の少年で、一人はやぼったい風貌をした二十代後半の青年だ。

 少年はカシュパーレク、青年はロンメルという。

「これは誰にも内緒にしてよ? アニキだから教えたんだからさ」

 カシュパーレクはロンメルのことをアニキと呼んで信頼の情を寄せていた。数年前、カシュパーレクは重い病気にかかって命を落としかけた。そこへ、たまたま知り合ったロンメルが東洋の薬を試してみてくれたところ、なんと病症がおさまったのである。ロンメルはチェコで東洋医学の薬屋を営んでいる男だった。

 重病を治してくれたにもかかわらず、ロンメルは薬代を請求してこなかった。以来カシュパーレクは、彼のことを命の恩人としてだけでなく、人間としても敬意を表するようになったわけだ。

 ロンメルにしてみれば、単に極秘ルートで入手した秘薬の効果を試したかっただけに過ぎないのだが、出来の悪い兄弟みたいな関係というのも悪くない気分になり、カシュパーレクと友好を深めることになった。

 カシュパーレクから見たロンメルは、調子も気前もいい垢抜けてない青年であり、彼が実は『星の智慧派』という邪教宗派の一員であるなどとは知る由もない。

「それで、どんな女なんだ? 面食いのお前の眼にかなったのは」

「実は間接的にぼくが知っている人だったんだよ。たぶん年齢はぼくとあまり変わらないと思う。その……すごく可愛いんだ」

「かぁー、ガキが一丁前に頬を赤らめやがって。ヤローの照れ顔なんか見たかねーよ。で、そいつの名前は? どこに住んでる?」

「そ、それはいくらアニキでも教えられないよ、恥ずかしいから。あと、どこに住んでるかなんて知るわけないじゃないか」

 真っ赤になって首を振る純情少年に、ロンメルは苦笑しつつ、そりゃしょうがねえなと折れた。その気になればカシュパーレクの好きな相手の素性を調べることなど造作もないのだが、そんなことをするつもりはさらさらない。

「それならアニキのほうはどうなのさ。好きな人がいるんでしょ?」

 今度は青年がたじろぐ番だった。

「お、おれのことはいーんだよ。だいいち、おれの場合は愛だの恋だのといったものじゃなくて……憧れっていうか、とにかくやましい感情じゃねーんだ」

 十歳の少女のファンだなどとは到底口に出せないロンメルである。

 ロリコンで何が悪い。美少女スキーは男の浪漫だ。胸を張って心の中で居丈高に叫ぶが、同時に表面的な男の尊厳は護らねばならないだろう。

「カシュパーレク、ひとつありがたいアドバイスしてやるよ。好きな女には星座のひとつでも教えとけ」

「星座? なんでさ」

「星ってのはどこからでも見えるからな。他人同士になった後でも、女はそれを見るたび男のことを思い出さずにはいられねえってわけよ。ざまぁみやがれだろ」

「ちょ、ぼくが振られること前提のアドバイスなんかしないでよ!」

「お前がおれに余計なチャチャいれるからだろーが。それともなにか、うまくいくって自信でもあるのか?」

 にやにやしながら見おろすロンメルだったが、少年の口もとが不敵に綻ぶのを眼にして、おっと口を動かした。

 カシュパーレクは少し自信をもっていた。実はライヒと初めて会ったとき以来、暇を見てはオーストリアのメンヒスベルク丘陵へ足を運ぶようになり、ナンパに精を出すフリをしては、彼女が現れることを期待していたのだ。

 すると最近、ある雨の日にライヒと再会したのである。

 何か悲しいことでもあったのか泣きじゃくるばかりの彼女にうまく対応することはできなかったものの、おかげで自分の存在を強く焼きつけることにはなったと思う。これは大きな進展といえるのではないだろうか。

 そういったわけで少年らしいふふんとした笑みを浮かべるカシュパーレクなのであるが、ロンメルはとりあえずの感心をこめて、弟分の肩をポンポンとたたいた。

「ま、せいぜいがんばりな。応援してやっからよ」



 オーストリアはザルツブルクに建つライヒの邸宅。

 シュヴェイクがライヒ・パステルツェの副官に任命されたのはつい先日のことだった。

『星の智慧派』の幹部である司祭たちは一人の副官をもつことを義務づけられている。それは司祭になってから一年以内に実行しなければならない。これまで先延ばしにしていたライヒだったが、ここにきてシュヴェイクを自分の副官とすることに決めたのだ。

 いかなる心境の変化か、彼を副官に決めた日のライヒはすこぶる機嫌がよく、それは本日に至るまで続いていた。

 どうやら今夜彼女の両親がオーストリアに帰国し、さらにはザルツブルクのこの家で一泊することになったらしい。

「まったく、年に数回しか帰ってこないうえにろくに一人娘の相手もしようとしないくせに、どういう風の吹き回しかしらね。私が一人暮らしを始めて一年半も経つものだから、慌ててご機嫌取りでもしようって魂胆が透けて見えるわ。普段は電話ひとつよこさないくせに」

 腕組みしてさも不愉快そうにまくしたてるライヒだが、その態度に冷めた様子は感じられず、むしろ何かと理由をつけて不満を装っているように見える。

「まあせっかくここへ泊まるっていうんだから、夕食の準備はしておくけど。立派に料理もできるようになっているってことを知らしめてやったら驚くでしょうね」

 夕食は両親の好物にすることに決めた。向こうは娘の好きな食べ物など忘れているだろうが、こちらは親の好物をちゃんと憶えているのだというあてつけのつもりだ。

「そういうわけだからシュヴェイク、あなたは今日、『星の智慧派』の本部で寝泊りしなさい。私の部屋を使っていいから、ここへ帰ってくるのは明日の昼以降にすること」

「ご命令によりまして、司祭殿」

 いつものごとく穏やかないかにも人のよさそうな顔で敬礼して、実直に立ち去ろうとするシュヴェイクを、

「ああ、ちょっと待って」

 と呼びとめ、ライヒは記憶の片隅においていたことを持ち出した。

「以前あなたが口にしようとしていた、あなたの能力、聞いてあげるから言いなさい」

「申しあげます、司祭殿、わたくしの能力は、わたくしの仲間を複数召喚できることなのであります」

「仲間の召喚……って、あの第十一中隊の面々?」

 ものすごく嫌そうな口調になる少女に、シュヴェイクは大真面目に頷いた。

「そのとおりであります。ただし将校クラスの召喚は無理なのであります」

「そ、そう……」

 仮に可能だったとしても、ルカーシ中尉はともかく、ドゥプ少尉やザーグネル大尉はいらない。

「まあ、とにかく、あの従卒バロウンや主計曹長ヴァニェクやらを現実に具現化させる能力ってことね?」

「そのとおりなのであります。司祭殿、司祭殿がもし手勢が必要なときはご命令いただければ召喚を披露するのであります」

「わかったわ。必要なときがきたら、ね」

 そんな日がくることはないだろうけど――心の中でそうつけ加えるライヒだった。



「ま、こんなところかしら」

 夕食の支度を終え、鼻歌交じりで手を休めるライヒ。腕によりをかけたとしか表現しようのないほど手が込んでいる。

 あとはゆっくりと両親が来るのを待つだけだ。なにしろ直に顔をあわせるのは一年ぶりなので、向こうには話したいことが山ほどあるに違いない。仕方ないからこちらもじっくりと付き合ってやろう。早く時間が過ぎないだろうか。

「永遠では短すぎる、一秒では長すぎる――って、こういうことを言うのかしら」

 我ながら考えが矛盾しているなと思ったときである、携帯が鳴ったのは。

 はやる気持ちを抑えて電話に出た。少し鼓動が早くなったかもしれない。

 しかし、通話時間は一分で事足りた。

 電話の相手は両親の秘書。『急な仕事で帰れなくなった。次は半年後くらいになる』という簡素きわまりない両親からの言付け。

 通話を終えた直後、携帯を壁に叩きつけそうになるのをライヒは必死に自制した。



 メンヒスベルク丘陵に立つカシュパーレクは、ぼんやりと夕暮れを見つめた。今日はもう来ないか。そろそろ帰ろうかなと夕陽に背を向けたとき、目当ての少女を見つけた。

「ライヒ!」

 あたりに人の姿はほとんどないので、大きな声で名前を呼ぶ。できるだけさわやかに。

 少女は神秘的なオッドアイで淡々と一瞥すると、眉根にしわを作った。

「なによ」

 冷水を含んだような声音に、とんがり帽子の少年は思わずたじろぐ。何だかわからないが、ものすごく腹の虫の居所が悪そうだということはわかった。

 しかしこのくらいで尻込みはしない。今の彼には自信があるのだから。

「どうかしたの、機嫌が悪そうだけど」

「見てわからない? 今はあなたの相手なんかする気分じゃないの」

「にべもないなあ。嫌なことがあったのなら話してごらんよ。誰かに聞いてもらったほうが気も晴れると思うな」

「それは時と場合によるわよ」

「ああ、このまえの雨の日みたいな?」

 何気なく口に出してみたカシュパーレクだったが、ライヒはたちまち頬を赤く染めた。

 あんな醜態をさらしてしまったのは一生の不覚としかいいようがない。

 ライヒは踵を返した。

「わ、とりつくしまもない。ちょっとまってよ」

 あわてて少女の前に回りこむと、少年は思考をフル回転させて彼女の足を繋ぎとめる話題を脳内検索し始める。やぼったいアニキのアドバイスが蘇った。

「星座!」

「は?」

「星座を教えてあげようか!」

 やや大仰な動作でそう言った。星座の本を読んでほんの少し覚えただけの付け焼き刃にすぎないものの、ここは勢いだ。

 暫く無言でいたライヒだったが、すっと落日の空を指差してみせる。

「この位置からだとあそこにアルタイルが見えるわ」

「えっ」

「あっちにはベガ、そして向こうにベネブ。綺麗だから、星座が好きなら夜になるまで待って見てみたら?」

「いや、あの、その……」

 呆気にとられて口をぱくぱくさせるしかないカシュパーレク。そういえばライヒは作家だから星座の知識くらいあって当然だろう。

 ライヒにしてみれば、魔道士にとって星の運行や天体の観測は重要な位置を占めるから天文知識は必須だということに他ならないのだが。

 もう話はすんだとばかりに、立ち尽くす少年の横を通り過ぎるライヒ。

 あせって呼び止めようとするカシュパーレク。

「あのね、いいかげんに――」

 ダークブラウンの髪を揺らし、少女が苛立ちながら身体ごと振り返った直後。

 情けない声をあげて足をもつれさせたカシュパーレクは、前のめりに倒れる瞬間、振り返ったライヒの白いスカートを両手で掴んだ。

 後は言うまでもない。

「こ、今回はわざとじゃ――」

 ないと言いかけて顔を上げた少年の眼に鮮烈な色彩が焼きつき、

「うわあ……今度は赤ですか」

 思わず敬語でそんな感想が漏れた。

「な……な……」

 ぽかんと眼をぱちぱちさせていたライヒは、やがて肩をふるわせ、少年の顔を蹴り飛ばしたい気持ちを必死に堪えて自分のスカートを元に戻した。

 それから、顔を真っ赤にしてカシュパーレクをにらみつける。

「このオタンチン!(お馬鹿) アプトレーテン、ドゥ・エレンダー!(下がりなさい、この哀れなやつめ)」

 日本の方言とドイツ語でありったけの罵声を浴びせ、ライヒはさらにまくしたてようとしたが、少年の表情の変化に眼をやって口をつぐんだ。

 すっかり自信喪失、意気消沈したカシュパーレクの顔からはそれまでの飄々とした厚かましさがすっかり影をひそめ、今にも泣きそうな子供のそれを示していたのである。

 立ち上がったカシュパーレクはうつむき加減でとてもバツが悪そうに視線を傾けた。

「ごめん……」

 心底落ち込んでいる少年を見ているうちに、ライヒは急速に激情がひいていくのを感じた。

「はあ……もういいわよ。私も言い過ぎたわ」

 気が立っていたとはいえ、大人気ないことこのうえない。八つ当たりなど子供のすることではないか。そう反省する十歳のライヒである。

 そうして少年に背を向けると、次の言葉を口にした。

「よかったら、うちで夕餉をすませていかない?」

「……え」

 きょとんと眼を丸くするカシュパーレク。

 ライヒはほんのりと頬を桜色に染め、いかにも仕方ないからといったふうな声を出した。

「今日、親と夕食をともにするつもりだったんだけど、反故にされちゃってね。それで、せっかく準備したのに独りで食べるのも味気ないから……あなたも一緒にどうかなって」

「え、いや、でも、そんな、急に」

「嫌なら構わないけど」

「い――いやいやいや、嫌だなんてとんでもない! 是非にでもご馳走させてもらうよ!」

 ぶんぶんと首を振って喜びをあらわにするカシュパーレクに、ライヒはふっとした微笑を浮かべ、群青へと移り変わる空の下、鮮やかな影の映える丘陵を下りだした。

 少年と少女の足音がゆるやかに重なった。



 夜の帳が下りて深夜をまわった日本の御納戸町。

 住宅街外れに建つゴシック様式の洋館の一室、天蓋つきの豪奢なベッドで眠る美少女。

「フヴィエズダ、フヴィエズダ・ウビジュラ、フヴィエズダ、フヴィエズダ・ウビジュラ」

 誰かが少女の名前を呼んだ。男の声だった。どこともつかぬ遙かな彼方、夢と現の区別も判然としない感覚をおぼえ、ヴィエは眠りから目覚めた。

 上体を起こしてベッドに腰をかけると、室内の情景が変化した。

 眼前に、暗いレンズの丸眼鏡をかけた老人が映った。横から覗いても目が隠れるだろう奇妙な黒眼鏡をかけた老人は、長くて真っ白な髪、口鬚も顎鬚もなく、がっしりとした顎を備え、猛々しい鷲鼻をした人物だった。

 老人のまわりには靄のようなものが漂い、背後になにやら巨大な建造物らしきものがぼんやりと見えた。その異界的な巨石建造物には見覚えがあり、昨年の夏に訪れたセラエノの大図書館に間違いなかった。

「もしかして貴方は……ラバン・シュリュズベリイ博士ですか?」

 幾分かの敬意と確信をこめた声で訊くと、重々しい首肯が返ってきた。

「聡明で助かるよ、ウビジュラ君、無駄な会話をしなくてもすむからね。わしが見込んだだけのことはある」

「シュリュズベリイ博士にそう言っていただけるとは光栄です」

 黒のキャミソール一枚という格好ながら、慇懃な態度で眼を伏せるヴィエ。

 ラバン・シュリュズベリイとは、かつてミスカトニック大学で教鞭を執っていたこともある神秘思想の研究家にして哲学教授で、1938年から1947年にかけて数名の同士を集め、ハスターの庇護を受けて世界各地のクトゥルー信者達に立ち向かい、最終的にはアメリカ海軍と共同でポナペ作戦を実行し、海底都市ルルイエに核攻撃を加えるまでに至った、クトゥルー復活を阻止するため奔走した不思議な老学者である。

 それ以降は消息をくらませており、一部の噂ではクトゥルー側の逆襲を受けて行方不明になったといわれているが、やはり無事に現代まで生きながらえていたのだ。

「こうしてきみに接触を図ったのは、ひとつ頼みを聞いてほしいからだ」

「わたしに? それはいったいどんな頼みですか?」

「少し危険は伴うが、きみの実力を持ってすれば可能なことだよ。きみにとってはいい退屈しのぎになると思う」

 ヴィエはうっすらと愉しげな笑みを浮かべた。シュリュズベリイ博士ともあろう人物がヴィエという少女の性格を把握していないはずはなく、なれば彼女が食指を動かすような内容を示してくるだろう。

 そんな期待にこたえるように、歴戦の老学者は歯を見せて笑った。

「正義の味方の真似事をしてみる気はないかな?」

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