第七章 <見過ごし通り>のとある店にて


 一月半ばのことであった。リース・フレキシブル、ゲボ子、ロジャー・ベーコン、そしてレナスフィールとフィナがイギリスはロンドンの地へ降り立ったのは。その経緯は一週間ほど前、まったりだらだらと過ごした正月が明けて数日後のことである。ロジャーから重要な話があると促され、リースとゲボ子が彼の部屋に入ると、そこには<影の谷>公爵の三女と親友の小妖精が招かれていた。そして彼女の口から事の次第、昨年の暮れに来訪したときにロジャーと話したことの内容を語ったのだ。

「周知のとおり、妾は、太陽が東から昇って西に沈むほどの確かさで冒険好きです。世界の様々な名所や秘境などを旅してきました。ところが、半年くらいまえからでしょうか、旅先の各地で得体の知れない不穏な空気が漂い始めているのを感じたのです。それは現実の境にゆらめく、こちらで例えるなら魔法と幻想の領域に面する場所においてのみ、おぼろげながら感知できる、そんな類のものらしいのです」

「そのへんはアタシが保証するわ。何がどうとはわからないけど、確実におかしな雰囲気が世界に影響を及ぼしてきてる……そうとしか考えられないの」

「それが、ふたりから聞かされたことです。私もつてを頼って色々と調べてみたのですが、そこへクリスマス前にリースが魔性の樹木に襲われた一件ときたわけで、確信を得るに至ったのです。そこでリース、ゲボ子、あなたたちに伝えることがあります。私はこれから事の真相を探りにイギリスへ渡ることにしました。私たちと同行するか、ここに残るか、好きなほうを選びなさい」

 決断が早かったのはゲボ子である。

「あたしはロジャーのボディガードだから、着いていくよー」

 ほとんど即答に近いこの発言がリースの心に及ぼした影響は強かった。

「わ、私は師匠の弟子ですから、もちろん着いていきます!」

 かくして一行はイギリスへ向かうに至ったのだ。

 その際、通常の渡航は行われず、ロジャー邸の地下に整備されていた飛行艇を利用することになった。それはロジャーが二百年ほど前に完成させた飛行艇に改良を重ねた最新のもので、偉大な魔術師にして驚異博士の魔導と科学の結晶である。常人の眼には映らず、レーダーにも探知されない機能が備わっており、さらに、僅かな燃料で数日間の航行が可能なうえ、現代のいかなる飛行機をも上回る航空速度を誇るという、現実離れした優れものであった。

 一同を乗せた驚異の飛行艇は、地下の発射路を通り抜けて地上に出ると、陽光きらめく蒼穹へと突き抜けた。信じがたい速度にもかかわらず、艇内の人間に負荷がかかることはない。飛行機が上昇するときの快感を味わえないのが残念だとゲボ子が愚痴をこぼした。この飛行艇の速度は地球の反対側だろうと三時間以内に到達できる。日本からイギリスへは普通なら空路で十時間と少しを要するが、リースたちがロンドン郊外に着陸するのに二時間もかからなかった。

「ここがイギリス、妖精伝承の国……そして、霧のロンドン」

 リースがうっとりと街並みを見渡し、空想をふくらませた甘美な吐息を漏らす。少女の夢想の中では、ロンドンはいまだ霧深き魔術と幻想の都市であった。ゲボ子はのんびりと遠くを眺め、携帯のカメラでロンドン塔を写真に撮っている。そんな少女二人の様子をほほえましそうに一瞥して、ロジャーは祖国の空気を味わいながら、<影の谷>公爵令嬢のほうを振り返った。

「私はこれからゲボ子とリースを連れて、われわれの知る野原の彼方へ向かいますが、あなたはどうします?」

「妾はフィナと一緒に別の場所をあたってみるつもりです。何か有益な情報を手に入れたら、連絡を取り合うことにしましょう」

 そうしたわけで一同は二組に分かれて別行動を取ることになった。



 リースとゲボ子がロジャーの後をついていくと、ロンドンの中心地であるシティ内の堤防にさしかかった。そこからさほど遠くないところに、われわれの知る野原の縁に通ずる店があるのだという。見た目は即身仏そのものとしか思えない奇矯な老人が、うら若い少女二人を連れて軽快に歩く様に、通り過ぎる人々がちらちらと視線を投げかける。ひょこひょこと市中を注意深く歩き回るロジャーは、やがて、ひどく狭く見過ごしてしまいそうな通りで立ち止まった。

「ここが先ほどお話した店への道、<見過ごし通り>です。さあ行きましょう」

 通常なら決まって見過ごし、ひょっとすると現に歩いていても眼に入らないかもしれない通りを折れて進んだところに、その店は存在した。三人が足を踏み入れると、古風な店内のカウンターに老人が一人、ロッキングチェアーに腰をかけてパイプをくゆらせていた。それを目の当たりにしたロジャーは、おや、という顔つきで立ち止まる。リースとゲボ子は物珍しげに雑貨屋とも骨董屋ともつかない店の品揃えを眺めるのだった。ロジャーは確認するように、カウンターへ声をかけた。

「あなたが店主ですか」

「いかにも。最近になって正式なこの店の経営者になったばかりの夢想家で」

「なるほど。そうなると、流儀も以前のものを継いでいると」

 店主が頷くと、ロジャーは納得して連れの少女らを招いた。

「かつてある夢想家が経営していたこの店には決まりごとがありました。用件を単刀直入に切り出すかわりに、なにかを売ってほしいと頼みます。もし店主が用意できるものであれば、彼はその品を客に渡してお早うございますと挨拶するのです。その流儀によって多くの者があしらわれてきました」

 しかし時の経過とともに、いつの間にかその夢想家は店から姿を消した。その後は何も知らない代理店主が入れかわり立ちかわるようになり、われわれの知る野原の彼方へはフリーパス状態となっていたのだが、どうやら正式な店主として相応しい夢想家が新たに落ち着いたらしい。

「厄介なことですが流儀には従わないといけません。私たちは三人ですから、チャンスは三回です」

 そうして、まずはロジャーがカウンターの老人に話しかけた。

「上海天国の激レア秘蔵版を所望します」

 億劫そうに揺り椅子から腰を上げた店主は、書棚の辺りにざっと眼をやり、一冊のハードカバー製の、成年向けの本を取り出しロジャーに手渡して言った。「お早うございます」。

 受け取ったロジャーは、半分残念、半分喜々とした顔つきでカウンターを離れた。あっけにとられるリース。次にゲボ子がカウンターへ近づく。

「大阪の玉造商店街を出たところに昔あったアジアコーヒ日の出通り店の名物飲料、ネーポンを二瓶と、ネーポンの入ったミス・パレード二瓶をくださいな」

 店主はワインセラー風の貯蔵庫へ移動し、オレンジ色の液体の詰まった四本の瓶を持ってきた。戻ってきたゲボ子は、両手に二本ずつ受け取った瓶を掲げ、「ねんがんの ネーポンをてにいれたぞ!」と感涙ご満悦の勇姿を見せた。リースの頭にジト汗が浮かんだ。

「あの……ゲボ子さん」

「大丈夫、リースの分も貰ってきたから。ホットネーポンもつくれるぞー」

「あ……ありがとう……ございます」

 もはや突っ込む気力もなく、言葉途切れにお礼を口にするのみである。これでラストチャンスが自分の双肩にかかることになったリースは、ゆっくりとカウンターの前に立った。

「ハインリヒ・フォン・オフターディンゲンが夢に見た青い花の花びらをいただけますか」

「いかほどでしょう?」

 リースはまじめな表情で思案を重ねる。本来ありえない量をふっかけるのは流儀に反することになるだろうから、適量で答えなければいけない。

「五枚おねがいします」

「そりゃあえらい難儀ですな。えらく難儀です。それだけの量は在庫しておりませぬ」

「それならあるだけいただきましょう」

 店主はむずかしい顔で植物コーナーへ向かった。その背中を眺めている間のリースの気持ちは、ゲボ子の部屋のテレビで見たお宝鑑定番組で、鑑定中の時間を待つ依頼人のそれに等しい。もしかしたら在庫があるのではないかと不安がたれこめてきた頃、パイプをくゆらせながら店主が戻ってきた――手ぶらで。

「あいにく切らしております」

 少女の顔があかるくなった。紫水晶の瞳が期待にかがやく。

「それなら、われわれの知らない野原を見晴らす、小さな田舎家への道を教えてください」

 それを聞くと新しい夢想家の老人は、億劫そうに肩で息をしながら、店の奥へと向かった。意を決したリースは店内で待つ師匠とゲボ子へ手を振ってから、店主の後をついて行った。偶像がところ狭しと置かれた、薄汚れた木造の部屋に入ると、老人は壁についた小さな黒ずんだ扉を開けた。

「裏口から出て、右へ曲がりなさい」

 リースが扉を抜けると、店主はあえぎながら扉を閉めた。店の裏側に出た途端、少女は魔法使いの弟子としての感覚により、ここはもう現実の境にあることがわかった。ロジャー邸のある異空間と似たようなものを感じるのだ。言われたとおり、右へ折れて<見過ごし通り>の裏手を歩いていくと、やがて広々とした野原と、田舎家の庭の数々に行きあたった。――われわれの知る野原の縁。

 そこには巨大な紫色の花が天をめざしてのびており、風変わりな歌を静かに歌っていた。ほかの花もそのかたわらで花を開かせて歌っている。リースが陶然とか細い旋律に耳をすましていると、田舎家の裏口から、ひどく年老いた魔女が出てきて、リースの立っている庭へやって来た。彼女が口もとに人差し指を添えるジェスチャーを示すと、リースはこくりとうなずいてみせた。すると魔女は無言でついてくるよう促した。

「あの花は詩人たちの夢なのさ」

 田舎家の二階の部屋で、テーブルの向かいに座った老魔女が静かにそう言った。

「昔にくらべて最近じゃ質がすっかり落ちてしまったがね。死後のあらゆる時代の詩人たちが集う『詩人クラブ』のメンバーに名を連ねるだけの詩人はとんと少なくなったもんさ」

 科学や機械文明の栄える現代における詩的芸術の美しさの衰退を語る魔女の言葉に耳を傾けながら、リースは両側の窓を視界におさめた。片方の窓からは、われわれの知る野原が望め、もう片方の窓に眼を映すと、妖精の山並み、菫色の山脈、エメラルド色の氷の峰、青灰色の山々、アメジストの絶壁を見下ろす古い山峡の隘路から夢幻の世界が望めるのだ。そちらへ行ってみたい感情を抑え、リースはここへ来た目的を切り出した。

「この世界全体を不穏な何かが覆い始めているらしいんですけど、心当たりはありませんか?」

「おまえはそのことについてどれくらい知っているんだね?」

「なんにも知らないさ、こいつは」

 と返事したのは、暖炉脇で身をごろつかせている、老いた黒猫だった。魔女の飼い猫か使い魔だろうか、妙にふてぶてしい面構えだ。

「はい、知りません。ですから何かご存知ではないかと訪ねてきたんです」

 すると魔女も猫もゲラゲラと笑い出した。ひとしきり笑ってから魔女が言った。

「世界はひとつじゃないって知っているかい?」

「知っています。実際に確認したことはありませんけど」

「それじゃあ何も知らないのと同じさ」

 そう言って黒猫が笑った。魔女もにやにや笑んでいる。馬鹿にされているのかもしれないと思い、リースはどうしようかと困惑した。魔女が口を開いた。

「世界の涯の、彼方の異境の神話は知っているかい?」

「いいえ、知りません」

「じゃあどちらもおまえはいま知った。このことを然るべき者に伝えるといい。誰に伝えればいいかは教えられないがね」

「……あ、ありがとうございます!」

 質問のようであり情報だったのだ。リースは頭を下げた。

「ところで、夢は幻だと知っているかい?」

「はい、知っています」

「それなら、命は幻だと知っているかい?」

「私たちの命は幻ではありません。でも、夢となればいいなと、そう思っています」

 それを聞くと魔女と猫は再三ゲラゲラ笑い出した。さすがのリースも憮然とした面持ちになったが、一向に笑いがやみそうにないので、ぺこりと頭を下げて席を立った。すると老魔女はピタリと口を閉ざし、木机の抽斗から取り出したものをリースに手渡した。それはデリケートな楕円形の時計だった。白金に近いやまぶき色で、厚味のあるクリスタル・ガラスの下の文字盤には数字ひとつとてなく、ただ一本の細長い針が時間も分も秒もない時を刻んでいた。文字盤のまわりには格言とおぼしき字が彫りこまれていたが、ドイツ語であったためリースには読めなかった。

「これは?」

「恋のお守りさ。面白い答えを返してくれたおまえに餞別としてくれてやるよ」

「あの、私……まだ恋なんてしてないんですけど」

「おまえは<恋>についてなにを知っている?」

 と老魔女。

「なにも知らない」

 と、話しかけられたわけでもないのに、老いた黒猫が答えた。

「さっさとお行き」

 と老魔女。

 そういったわけで、リース・フレキシブルは釈然としないまま、情報と手土産を得て<見過ごし通り>の店に戻ってきた。偶像の置かれた木造の部屋を抜けて店内に帰ってくると、激レア秘蔵版の本にじっくりと眼を通している師匠とゲボ子が眼に入り、ようやくリースは喜びを感じて馴染み深い二人へ駆け寄ったのである。

 その様子を店の外から眺めていた一羽の鷲が、力強く夕暮れの空へ飛び去った。

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