第六章 魔法の剣、異界の力と交わる


 ふたりの対戦者が坐って、永遠の時を紛らそうと<ゲーム>に興じていた。神々を<ゲーム>の駒に選び、穹蒼を隅から隅まで使って競技盤とし、その上に小さな塵を少し置いた。塵の一つ一つが盤面の上の「世界」だった。対戦者はふたりとも長衣を纏い、顔にはベールをかけていた。ふたりの長衣とベールはそっくりだった。ふたりの名は、<運命>と<偶然>といった。<ゲーム>をしながら、神々をここかしこへと盤上で動かすと埃が舞い上がり、ベールの背後で輝く対戦者の眼から発せられる光の中で煌めいた。すると、ふたりの絶対者は云った。「我らが掻き乱した埃の様子を視よ」

 こうして<ゲーム>を続けていたふたりは、不意に、少し飽いた。無限も真なる無限からすれば有限に過ぎない。ふたりは<ゲーム>に新鮮さをもたらすために、盤上の塵を増やすことに決めた。しかしペガーナを動くわけにはいかない。マーナ・ユード・スーシャーイは永き睡りについているし、スカールはその睡りを醒まさぬよう太鼓を叩き続けている。ましてや駒である神々を盤上から放すわけにはゆかぬ。そこで<運命>と<偶然>は、この世が始まらないまえのふかいふかい霧をひとつかみして存在の欠片を与えると、ペガーナの外――あらゆる次元の果てへと拡散させて放り出した。

 因果地平の果てすら越えた欠片のうちのひとつが、ペガーナに属さぬ幾多の次元の「世界」の一粒に辿り着いた。欠片は最初に辿り着いた世界の最初に視たものに影響を受ける。その欠片が落ちた場所は、パソコンゲームをプレイしていた大学生の部屋だった。欠片が意識したのはパソコンのモニターに映っていた黒髪の二次元少女。のちに小雪という名前に公式決定されるそのキャラクターにはまだ名前がなく、製作側やユーザーからは絵師のネームとゲームの季節をとって冬ハコネと呼ばれていた。かくして<始まり>よりもまえの霧の欠片のひとつは、その少女キャラクターを模した姿と名前を認識して存在を形成するのだった。



 十二月も半ばを過ぎて、クリスマスのイルミネーションが都市部のあちらこちらを彩る頃、リース・フレキシブルはロジャー・ベーコン邸の森を出てほどないところの、古色蒼然とした街並みを歩いていた。古き良きニューイングランドの景色を再現して町おこしを図った結果が、昼なお人気の途絶えた光景である。リースはこの寂れた廃墟のような区画から少し離れた街でクリスマス用の品をいくつか買った帰りだった。

「日本のユールも早くから祭りの雰囲気が漂っているのがいいかも」

 楽しげに微笑して、手に提げたトートバッグをちらと見やるリース。今では北欧諸国でしか使われなくなったユールという言葉を口にするあたりが彼女らしいといえるだろう。

 それからふと古雅な尖塔の林立する周囲を見渡し、物思いにふける。滅び去った驚異の都バブルクンド、狂気の死都アンデルスプラッツ、過ぎ去りし廃都ベスムーラ、幻影なるマリントン・ムーアの都――いずれも少女の幻想を湧き立たせることこのうえもない。ほかにも、決して辿り着けぬという輝ける都カルカソンヌや、遠き日のザッカラス、少年が予言の告げたごとくいたった<絶無の都>など、次々と伝説の空想に陶酔するリースであったが、ふいに名前を呼ばれたことで我に返った。リースの目線と同じ高さの窪んだ壁面の台座に乗り、真紅の目を光らせるものは、紅葉の季節に出会った魁偉な野うさぎ。

「あなたは……ツァラトゥストラさん?」

「いかにも! このわたしはツァラトゥストラだ。神を無みする者だ! わたしは神を無みするツァラトゥストラだ、『わたし以上に神を無みする者があろうか? あればよろこんでその教えを受ける』と言う者だ。少女よ、わたしはあなたに警告しよう。いま、この世界は大いなる危機に覆われつつある。それは世間が信じていた古い牧神のような死んだ神のことではない。あなたが惑わされそうになった、そんなお粗末なものとは比べものにならない脅威だ! まことにわたしはあなたに警告する、あなたこそが来るべき超人の橋と成る者であるがために」

「い、いきなり世界の危機とか言われても、よくわかりませんけど……どうして私が牧神に惑わされそうになったことを知っているんですか?」

「おおリース・フレキシブルよ、それはわたしたちがその一部始終を見ていたからです」

 そう答えたのは、突然に現れた一羽の鷲と一匹の蛇だった。彼らはツァラトゥストラの両脇にやってきて、厳かな空気を運ぶ風の眼差しでリースを見つめた。ほとんど気圧されるかのごとき少女へ、ツァラトゥストラは優しい声音で語りかけた。

「この者らはわたしの動物たちだ。あなたが怯える必要はなにもない。今日のところは、あなたがいまの警告を心に留めておいてくれさえすればそれでいいのだ」

 リースは困惑しながらも、言われたとおりにうなずいた。本当のところ、疑問だらけだったが、とりあえずおとなしく返事しておいたほうがいいだろうと思ったからだ。かわりにひとつ質問してみることにした。

「ほんとうの幸せについて、意見があれば聞かせてくれますか?」

「幸せだと。そんなことについてあなたは何を知ろうというのだ。だがよかろう、それが人間意志の超克のためになるのならば教えよう。――人間の幸福とは「われは欲する」である。それこそまさにおのれを克服して自由をわがものにせんとする獅子の精神である。だが気をつけるがいい。獅子の精神の行く手には、精神の最大の支配者である巨大な竜が立ちふさがる。その竜の名は「汝なすべし」である。この竜は言う、「物事のいっさいの価値、――それはわたしの身にかがやいている」と。「いっさいの価値はすでに創られてしまっている、――いっさいの価値――それはこのわたしなのだ。まことに、もはや『われは欲す』などはあってはならない!」こう竜は言う。少女よ、獅子の精神はこの竜と戦い、勝利せねばならない。人間は克服されなければならない或るものだ。超人の橋と成り没落すべきものであるゆえに」

 ツァラトゥストラはこう言った。



 超人の告知者との会話を終えたリースは、帰りの森の中で、ほんとうの幸せのことを考えて立ち止まった。ロジャーも、ゲボ子も、ツァラトゥストラも、みな難しい喩えを口にする。だから正直なところリースには理解しかねるのだ。夢想家ではあっても哲学者ではない彼女である、物事を多方面から捉えることはできない。やがて考えることに疲れたリースは、師匠がこうも言っていたのを反芻した。「難しく考える必要はありません、人間何が幸せかわからないものです」――そう、ゆっくり見つければいいのだと。

 気分をすっきりさせてふたたび足を動かすと、正面の木陰から小柄な人影がそっとリースのまえに現れた。黒いベレー帽をかぶり、同色のセーターとミニスカートを着たその子供は、どう見ても十歳前後といった風貌の幼い少女であった。闇を象徴する純黒の瞳が暗い神秘性を佩び、太陽光に含まれるあらゆる波長の色を吸収する黒髪が首の後ろで括られ、しなやかな細い足のふくらはぎまで垂れている。対照的に、瑞々しい肌は雪のように白く、不滅の黒と永遠の白を思わせる幻想的なコントラストに満ちており、雪の精かとみまごうほどだった。

「え、と……どうしたのかな、こんなところで」

 一般人の近づかない森の中に小さな女の子がひとり。迷子にでもなったのだろうか、そう思案しつつ、できるだけ穏やかに話しかけると、少女は無言で片手を上げて、手のひらで何かの印を結んだ。きょとんとするリース。それがムングの御印であることなどこの世界の誰が知ることか。しかし何も起こる気配はなく、教会のミサのようにささやかに、少女はそっと無表情に、「やっぱり」と唇を開いた。その声音は感情のこもらない、透き通った淡々とした韻律だが、生粋の日本人なのは間違いなかった。

「わたし、冬箱根。――冬と箱根という字で、冬箱根」

「フユハコネ……っていうのね? 私はリース。リース・フレキシブル」

「リース。うん、おぼえた」

「それで、冬箱根はここでなにをしているのかな。道に迷ったのなら外まで案内してあげるけど」

 やさしく親切に切り出すリースを、しばらく無言で見つめる冬箱根。そして、あっと小さくかすれた声を漏らすと、闇の暗さを湛える瞳をおおきく開いて、ふるふるとリースの背後を指差した。いったいなんだろうと魔法使いの弟子が後ろを振り向く僅かな間に、幼い少女の手のひらがこっそりと何らかの印形を結んだ。それがキブの御印であるということを知る者はない。

 リースは眼を見開いて声を引きつらせた。一本の木が根元を足のように蠢かせて動き出したのだ。それだけなら別段驚きはしなかったろう。リースが戦慄を覚えたのは、その樹木から明確な敵意がにじみ出ていたからである。連なる枝が蠕動を始めたとき、リースは冬箱根に逃げるのを促した。指差した方向はロジャー邸のほう、トートバッグを放り出して距離を置きながら後に続く。少女らが先刻までいた場所を鋭利な枝が力強く凪いだ。魔性の木は後尾を走る獲物をなめらかな速さで追い上げ、障害物となる木々をすり抜けてくる。驚いたリースはミッドナイトブルーの携帯を取り出し、非常事態を伝える緊急連絡時のボタンを押した。通話をしなくても自分の現在位置をリアルタイムで知らせることができる。

 ロジャー邸の境までもう少しというところで、リースは息を切らして足をとめた。振り返った紫水晶の双眸に映る、異形と化した一本の木。幹がしなり、鋭く尖った枝の先端が槍のように突き出され、必死に避けたリースは足をつまづかせて転んだ。体力に自信もなければ運動神経もないのだ、彼女の身体能力ではどうしようもないだろう。狙いをつけて繰り出された枝槍――身を起こしたばかりの少女に反応するすべはなかった。

 白刃の一閃が木の枝を切り落とした。ゲボ子の振るった純白の剣は、間一髪でリースを襲う魔手に間に合ったのだ。普段はまったりしている金髪碧眼の三つ編み少女の凛々しい姿に、リースは思わず胸をときめかせた。

「リース、少し下がって」

「は、はいっ」

 素直に言葉に従うリース。彼女の盾となるよう前に出たゲボ子は、伸びてくる枝を次々と切り払っていく。しかし、地に落ちた枝先はするすると地面をすべって木の幹と融合して再生し、ふたたび襲ってきた。これではきりがなく、木本体を狙おうにも間断なく再生して伸びてくる枝に邪魔されて近づけない。そのとき、背後で悲鳴が上がった。リースの近くにあった木が動き出し、彼女に襲いかかったのだ。ゲボ子は眼前の木の枝を数本まとめて切り払うと、魔法の剣を使うことに決めた。

 そして彼女は白い剣をアクセサリーに戻すと、もうひとつの装飾品を取り出した。瞬時に漆黒の剣と化してゲボ子の手に握られる。足早にリースのそばへ駆け寄ると、彼女に躍りかかった枝を切り落とした。地に落ちた枝は瞬く間に普通の枝となって動かなくなった。ゲボ子は続けざまにその幹に太刀を浴びせた。すると如何なることか、真っ黒な刃が小さく木片を削っただけだというのに、木全体がおおきく身震いし、次の瞬間にはすべての力が抜け落ちたかのように普通の木となってその場に静止した。

 太陽の向こう側からやってきて漆黒の金属に入り込んだ魔力は、異形の生命を与えられた樹木の魔性よりも強かった。最初にリースを襲ったもう一方の木も、ゲボ子が魔法の剣で幹に一太刀浴びせただけでたちまち異界の命を失い、不気味な敵意に満ちた雰囲気が褪せて静寂を取り戻した。しばらく周囲を警戒し、危機は去ったと判断してから、ゲボ子は魔法の剣をアクセサリーに戻して収め、リースに話しかけた。

「だいじょうぶ?」

「あ、はい、怪我はありません。ゲボ子さんのおかげで助かりました、――ありがとう」

 無事でよかったと一息ついたゲボ子は、事情を聞いて首をかしげた。そしてもったいぶったオーバーな仕草で言った。

「わかった! きっとその冬箱根って子のしわざなんだよ!」

「え、でも、べつにおかしな感じもしなかったし、普通の女の子だったと思うんですけど」

「そうなの? まあカンで言っただけだから気にしないでほしいなー」

「カンって……あっ、そういえばあの子はどこに?」

 冬箱根の姿が見えないことに気がついたリースは辺りを見回して名前を呼んでみたが、反応はなく、人の気配もまったく感じられなかった。ゲボ子と一緒に周辺を探してみるが見つからない。出会った場所に戻ってみると、地面に落ちたトートバッグがあるだけだった。散乱したクリスマスグッズを拾い集めてバッグに入れ直したリースは、ひとまずロジャー邸に帰ることにした。幼い少女の安否は気になったが、無事に逃げおおせて森から出たであろうことを祈るしかない。

 帰路につく二人の後方の木陰からひっそりと姿を見せる小柄な人影。木洩れ日の光さえ吸収する黒髪が草木を吹く風に揺れ、神秘の闇を宿した純黒の瞳は一切の感情のこもらぬ眼差しを、遠のく少女ふたりへそっとかすかに投げかける。木々の枝にとまったシロハラの鳴き声。どこからともなく漂いはじめた白い霧が、冬箱根という娘を薄靄のヴェールのなかに覆い隠していった。



「うーむ……そうですか、そんなことが」

 リースとゲボ子から話を聞かされたロジャー・ベーコンは、愛嬌のある髑髏のような顔をしかめ、腕を組んで考えこみはじめた。ロダンの考える即身仏という形容がふさわしい状態でしばらく押し黙っていたが、やがて真面目な顔つきで二人のほうを向いた。

「近いうちにお話しすることがあります。そのときあなたがたがどうするかは自由です」

 偉大な魔法使いである驚異博士はそれだけを言い残して自室へ戻っていった。リースはふとツァラトゥストラの警告を思い出した。何かとんでもないことが起ころうとしているのだろうか。しかし謎の魔法うさぎの存在をロジャーやゲボ子に話すことはできなかった。それはまるでこの世を縛る理の戒めのごとく、楔であるかのように。

 世界を廻すふたりの存在。超人の告知者とペガーナの使者――ツァラトゥストラと冬箱根。そしてその軸となるのは――リース・フレキシブル。

 近づきつつある大いなる正午など露とも知らぬリースは、いつものように隣室へ足を運んだ。ゲボ子はネットで動画でも見ていたらしい。パソコンの電源はオンになったままで、なにやら名状しがたい壁紙がデスクトップを飾っている。

「ゲボ子さん、今日は本当にありがとう。命を助けられたからだけじゃなくて、私、あなたと出会えて心からよかったと思ってます。その、うまく言えないんですけど……」

「おっとリース。そういうセリフは死亡フラグに繋がるかもしれないから、気持ちだけ受け取っとくよー」

「わ、わかりました。それじゃ、ひとつだけ――」

 このときリースは、「私と友達になってくれませんか?」とゲボ子に言うつもりであったが、その瞬間に星を一周するほどの逡巡がめぐり、思いを口にするのをやめた。やっぱりなんでもないですと手をぱたぱたさせるリースであったが、なぜそうしたのかは彼女自身よくわからない。ひとつだけ、たしかなことがある。それは一瞬の逡巡のうちに脳裏に浮かんだ情景――ゲボ子に助けられたときに感じた、魔法のような胸のきらめきだった。

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