第五章 アルカディアの旋律


 ――パンは死んだ、と人から聞いた、
  でもぼくは、灰色のニワトコが茂る
 緑の谷間を、悲しげに歌い歩いていくのはだれだろう、
  と思うことが 何度かあった

 ――そのとき、薄闇にまぎれて森をそっと抜け出し、影のように忍びやかに丘を駆けてくると、パンが墓碑を眺めて高らかに笑った



 冬の足音がきこえてきた、秋の終わりの日のこと。リースはロジャーの部屋で、師匠の生まれ育ったイギリスとアイルランドについて話をしていた。魔法使いの弟子となったリースだが、それは彼女が常に魔法の領域に在りたいとの願望ゆえのことで、なにかしら魔法を教えてもらうというつもりはとくになかった。その辺はおいおいロジャーの判断に任せることであり、いまはなにげない有意義なおしゃべりに興じているのである。

「イギリスとアイルランドって素敵だと思います。妖精伝承とケルトの幻想美に包まれているから」

 W・B・イエイツの小説にみられるような、ケルティックな妖精譚を思い浮かべ、うっとりと浪漫に浸るリース。その耽溺をほほえましく眺めながら、ロジャー・ベーコンは眼窩の窪んだ眼差しをふっとゆるませた。

「ですがリース、物の一面だけを見てはいけません。美しい伝承の地にも血塗られた歴史があるのです」

「血塗られた歴史……ですか?」

「ちょうど私がこの世に生を受ける時代の前後、アイルランドはイギリスに支配されました。土着のアイルランド人は次第に土地を奪われていき、イギリス人地主の所有となっていったのです。アイルランドに侵攻して入植してきたのが英国国教会のイギリス人、すなわち英国系アイルランド人に他なりません。そして1800年代に起きたアイルランドの<大飢饉>は酷いものでした。わかりますか、イギリスとアイルランド特有の美しさの影には、イギリスの支配の下で土地も自由も信仰も言語も奪われ僻地へ追いやられ、<大飢饉>の際にはイギリスの植民地政策によって悲惨な地獄を味わわされたアイルランドの農民や漁民たちの怨嗟と慟哭があることを心に留めておいてください」

 それはとても凄惨を極めた過酷なものであったらしい。霧の海に囲まれた豊かな神話、伝承は、イギリスの度重なる苛烈な植民政策に抗したアイルランドの民の苦悩と悲哀の上に存在するのだ。師匠の語りには、その歴史を実際に目の当たりにしてきた重みがあり、リースはまじめな顔でこくりとうなずいた。

「そういえば、あなたを弟子にした理由を話していませんでしたね」

「え、あ、はい、そうでしたね。……話していただけるのですか?」

 現状に満足を感じているリースは一瞬面食らったが、師匠が自分を弟子にすることを認めてくれたわけには興味があったので、おずおずと返してみた。ロジャーは遠い日を懐かしむように淡々と話しはじめた。

「かれこれ四百年近く前になりますか、私には一人の弟子がいました。世界を思う心の強い熱心な若者でね……だがそれゆえに当時の教会や周囲と対立して世間から剥離されることとなったのです。彼の思想は先見の明がありすぎたのですよ。そうして世に絶望した彼は私から離れ、道を違えてゆきました。私にはそれを止めることはできませんでした。何故なら私も昔、同じようなことで当時の腐敗した社会を批判し、伝統的教会と対立して十四年間もパリで幽閉された経験があるからです」

 ロジャー・ベーコンのいくつかの著作は当時の教会の禁止書に指定された。かつては黒色火薬を発明したのはベーコンだという伝承もあるくらいだ。

「以来、弟子をとることはやめたのですが、――ですがリース、あなたの熱意を見、感じたとき、私はあなたに彼と同じ性質をおぼえました。同時に相違点も。だから弟子にしたのですよ、今度は大丈夫だという確信めいた情を感じましたから」

 リース・フレキシブルはロジャー・ベーコンの希望の光となり得るのだろうか。それは誰にもわからない。仮にリースがいた期間のこの話の様々な出来事がロジャーの今後に大きな影響を与えることとなったにしても、それはまた別の物語。いつかまた、別のときに話すこととしよう。

 さて、師匠から自分を弟子にしてくれることを認めてくれた理由を明かされたリースは、感傷に浸った様子で自室へと戻った。壁にかかった絵画をぼんやりと眺めながら物思いに耽っていると、ふと手がスカートのポケットにだいじにおさめてある四角形のダイスに触れる。我に返ったリースは部屋を出ると隣室のドアをノックした。

「ほんとうの幸せ?」

 携帯機ゲームをプレイしていたゲボ子が線目で首をかしげる。リースから幸せについて意見を求められ、反応に困っている様子がまざまざと見てとれた。なにやら思案してからぽんと手を叩く。

「幸せってなんだっけというなら――ポン酢醤油はキッコーマン」

「ポン酢……醤油?」

「あとは、そうだ、蠍の火の話かなー」

「なんですかそれ」

「昔々、バルドラの野原に一匹の蠍が小さな虫を殺して食べてひっそり暮らしてた。だけどある日、イタチに見つかって追われて逃げ出して、逃げている途中で井戸に落ちた。水に溺れながらもう助からないことを悟った蠍はこう思った。ああ、私は今までたくさんの虫の命を奪っておいて、自分の番になると一生懸命に逃げてこんなことになってしまった。どうして私は自分の身体をイタチにくれてやらなかったのだろう。そうすればイタチも一日生きのびただろうに――……神様、どうか、私の心をご覧ください。こんなにむなしく命を捨てず、どうか次はほんとうのみんなの幸せのために私の命をお使いください。すると蠍の身体は燃えて、真っ赤な美しい火になって夜の闇を照らす星になった。蠍の星が赤いのは、今でもまだ燃え続けてるからだって、パン屋のおやじが言ってた」

 ゲボ子が街のパン屋から聞いたこの話は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節なのだが、リースはただただ感銘を受けて深く聞き入った。そしてほんとうの幸せがなんなのか、考えれば考えるほどわからなくなってしまった。

 頭をすっきりさせようと、リースはこのまえ訪れた里村に足をのばした。しんとした静寂の空気が霧雨のように村全体を覆っていた。それは不気味なほどにピンと張りつめた静けさだった。見渡す限り人の気配はない、みな家の中に身を潜めているのだ、何かから逃れるように。そのとき、遠くからかすかな音色が聞こえた。どこか懐かしいその音は、山の麓のほうから流れていた。リースは、好奇心だけではない、心の奥底から湧きあがる情感にほだされて、ふらふらと歩みはじめ、コンクリート製の橋を渡った。

 黄昏に暮れる、閑散とした小さな村。すっかりと耳に浸透する楽の音は、遙かな悠久の太古から響く郷愁の笛の調べ。不思議な不思議なその音色の素晴らしさといったら、はじめは妙な不安を抱かせるが、そのうちに現代文明の煩わしさや日常のいとまさえ忘れ、さらなる自然の郷へ導かれていくかのようなのだ。実際リースは笛の音を聞いている間、魔法へのロマンスすら忘れてしまったのだから。



 ――あれは パンの声だよ、
  暗く つめたい たそがれどきに
   かん高い声で はっきりと、魔法をかけてるのさ

 ――遠くからこだましてくる
    かれの歌は、どういう歌なの、
   あかるくなる星の下
   さえずり声を空にひびかせながら、
    かわいいツバメが翼をたたむ頃に?



 一日の最後の光が落ちて、昼間をしめだす黒い闇が空をぬりつぶす時刻になってもリースは帰ってこなかった。心配したゲボ子が携帯で連絡をとろうとするが一向に出る気配がないので、やむなくロジャーの部屋で姿見の鏡を見せてもらうことにした。それは対象と周囲を映す魔法の鏡である。ゲボ子が事情を説明するとロジャーはテレビ番組を見るのをやめ、魔術詠唱を開始した。するうち鏡面に目的の少女が映り、やがて二人はハッとなった。

 月明かりの下、多数の人々が山道をぞろぞろと進んでいた。老若男女問わない人々は、山の麓にある小さな村の里人全員である。そしてその行列の最後尾にリースが加わっていた。夢遊病者のようでいてそうでないのは、表情に確たる意志があらわれているからだ。先頭に立っているのは一人の年若い少年だった。何かを口にあてながら、ハメルーンの笛吹き男さながらの様子で人々を後ろに引き連れていた。少年が絶えず口もとにあてているのは、葦を幾つかの長さに切り分けて括った葦笛。偉大なる驚異博士の顔に戦慄の相が浮かんだ。

「本物の牧神の葦笛――」

「ロジャー、もしかしてリースやばい状況?」

「今から山へ向かっても間に合いません。ゲボ子、緊急手段につきアレを使いますから協力お願いします」

「らじゃー!」

 二人は邸内の最上部にある一室へ移動した。そこには妙にサイケなデザインの機械が設置されており、ロジャーは近くのコンソールで手早くプログラムを入力すると、中央の球体ガラスケースの中に入った。直後、ゲボ子がハムスターの回し車を人間サイズにしたようなホイールに移動し、ロジャーの合図と同時に走りはじめた。金髪三つ編みを揺らしながら全力で走り続けるうちに高速回転するホイールから生じる特殊なエネルギーが中央の球体へ流れ込み、たちまちガラスケースが白光を放つ。これこそロジャーの発明した物質転送装置で、どんな遠いところへでも一瞬にして転移することが可能なのだ。往復設定も有効で、過去の実験では月へ行って帰還してきたこともある。エネルギーが充分に溜まったのか、一瞬、まばゆいばかりのフラッシュが室内を白一色に染めた。光がおさまったとき、室内中央の球体ガラスケース内にロジャー邸の主の姿はなかった。



 山の森林を進むリースのまえには万華鏡の如ききらめきが広がっていた。それはアルカディアのかがやき。牧歌的な夢幻郷にあふれる永久不変の大自然のささやきだ。葦笛の調べにうっとりとしながら人々の後をついていく少女の後方、突如として現れた老人――ロジャー・ベーコンは大声で叫んだ。

「とまれ、おまえはいかにも美しい!」

 その一言でリースの足が止まった。月明かりに照らされてぼんやりと前を見ると、山奥深くへと進行する行列の最後の姿が見えなくなったところだ。ぽかんとして振り向いた先に、馴染み深い師匠がかすかに口を綻ばせていた。それから彼は眼を伏せて溜息を吐いた。

「あの少年はパンの洗礼を受けた申し子だったのです」

 パンとは、山羊に近い半人半獣の姿をした牧神で、人間の中の野生の躍動、生命の豊饒な活力を体現した大いなる自然の神とされる。リースは牧神の起こした自然回帰に引き寄せられる寸前であったのだ。

 木々の物陰から一部始終を見ていたものがいた。それは一羽の鷲と一匹の蛇だった。少女と魔法使いが山道を下っていくのを見届けると、鷲は蛇を背に乗せて煌々と星のまたたく月明かりの夜闇へと飛び立ち、いずこかへ飛び去っていった。

 頬杖をつき、自室の弓形の窓から夜空を眺めるリース。彼女は師匠から説明されたことを思い返していた。牧神は人の心の奥底に眠る太古の自然への夢を呼び起こす。それは山の麓の素朴な生活さえ捨てさせるほどの強力な夢なのだ。それだけ向こうのほうがいい夢を持っているわけであり、リースの魔法とロマンスの夢も太刀打ちできなかった。ロジャーはかのドクトル・ファウストの万感の名言を用いて、その夢を呼び覚ましたのだ。リースは魔法や幻想に対する自分の夢想が敗北したということを悔しがったが、ロジャーは微笑を浮かべてこう言った。「いいえ、あなたの夢はとても強いのです。そうでなければ、あなたを止めるために放った私の言葉が、あなたの心に届くことはなかったでしょう」と。

 その後、山の麓の里村に住んでいた人々は、村を放棄して山中で自然と融和した生活を送りはじめた。それは一時ニュースで騒がれたが、行政や市町村は黙認することとなった。というのも、一度調査に訪れた人間がみな不可思議な感情を抱き、夕暮れになると響く葦笛の音色を聴いた何人かは、都会を捨てて山村生活の仲間に加わる結果に終始したからだ。以降、彼らはとうに終わりを告げたはずの原始時代への道を一歩一歩戻っていくことになる。牧神の祝福を受けた山村の人々は、人間が文明の進歩とともに手に入れた目覚ましい変化を失いはしたものの、それに充分見合うものを、自然回帰の中に見出したのだ。

 こういった事例は世界各地の山間や谷間で稀に起こっているらしい。それが着々と進歩する文明社会に対する警鐘なのかどうかはわからない。ただ、彼らにとっては、その自然融和したささやかな暮らしこそが幸せなのだという考えにいたると、リースは深い感慨に身を委ねずにはいられなかった。

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