第四幕 クォ・ヴァディス


  初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
  『ヨハネによる福音書』一.一〜五

  愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
  『ヨハネの手紙 一』四.七〜十二

  愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
  『ヨハネの手紙 二』六

 「私はあなたがたの許を離れてゆくが、キリストは永遠にあなたがたと共におられる。もしあなたがたが汚れなき愛をもって彼を愛するならば、あなたがたは失われることのない交わりを彼からいただくことになるであろう。キリストは愛されるにも愛する者たちに先んじられるからである」。
  『ヨハネ行伝』五八



 キリストの十二使徒の中で、イエスから最も信頼されたのが天国の鍵を託されたペテロならば、イエスから最も愛されたのは母マリアを託されたヨハネである。彼は使徒の中で一番若いといわれ、ただひとり殉教を免れ天寿を全うしたという。

 ゼベダイの子ヨハネ。彼は漁師である父親の家業を手伝っていたところをイエスに見いだされ、兄ヤコブとともに弟子入りして同行することになった。イエスが十字架にかけられてから、復活して使徒たちのまえにふたたび姿を現し、天へ昇っていった後、使徒たちは伝道のため各地へ散っていった。

 ヨハネは聖母マリアの昇天を見届けてから旅立ち、小アジア(現トルコ)のエフェソへ赴いたとされる。そこを拠点に小アジア各地で宣教活動をするヨハネは、時の皇帝ドミティアヌスの命を受けたエフェソの総督により捕らえられた。キリスト教の破棄に応じないヨハネは、沸騰する油を満たした桶に投げ込まれて釜揚げの刑に処せられたが、しかし彼は火傷ひとつ負わずに平然と出てきたという。恐れをなした総督は流刑地であるパトモス島へヨハネを島流しにした。ヨハネはこの島に滞在中に天からの啓示を受け、『ヨハネの黙示録』を記したとされている。

 ドミティアヌス帝が死んで、追放処分が打ち切りとなったヨハネはエフェソへ帰ってきた。そこでドルシアネという婦人を生き返らせた彼は、数名の同行者を得て様々な奇跡をおこなっていく。哲学者のまえで、こなごなになった宝石を元通りにした。異教徒に蛇の毒を飲まされてもびくともしなかった。アルテミス神殿を倒壊させ、多くの者をキリスト教に回心させた。

 ヨハネは最期の時が訪れると、主の栄光とキリストの教えを説き、そして喜びのうちに天に召されたという。



 さて、復活祭の当日、夜初音は自然に溢れた古街道で、教会で配られたイースターエッグを手にしながら、天を仰いで祈りを捧げていた。

 すると心が神の愛で満たされ、激しい愛の炎に熱せられ、その甘美と喜びと畏れにたえられなくなったとき、まばゆい光が射した。

 彼女の目の前に、赤いローブを身につけた聖人が立っていた。

「ヨハネ……?」

 夜初音は、こみあげる感動に涙をにじませ、聖人のもとに駆け寄ると、足元にひれ伏して縋りついた。差し出された聖人の手にキスをして夜初音はうやうやしく顔を上げた。

「おまえはカモシカのような目をしている」

 聖人は日本語でそう言った。聖霊に満たされた者は、「霊」が語らせるままに、あらゆる国々の言葉で話すことができるのだ。

「あなたは、使徒聖ヨハネなのですね?」

「主の御名において、アーメン」

「ああ……私にはあなたが、若々しい青年の姿にも、思慮に富んだ年配者の姿にも、聖なる慈愛にみちた老人の姿にも見えます」

 夜初音の瞳には聖人の姿が定まったものに映らなかった。彼はほほえんだ。

「それはおまえが正しい目でわたしを見ているからだ。わたしの肉の形姿ではなく、わたしたちの魂の形も姿も状態も輪郭もご存知のイエスがわたしを通しておまえにお与えになられたものである。神への信仰、知識、畏敬、友愛、交わり、柔和、親切、兄弟愛、清潔、誠実、静謐、大胆、快活、威厳、これらの完全なる調和、おまえの魂がわたしを正しく映しているからだ」

 夜初音は充溢した気持ちで瞑想し、それから、自分の名前の由来となった聖人を見つめた。

 彼女は真剣な眼差しで次のようにたずねた。

「ひとつお聞きしたいことがあります。私は自分の理想に叶う敬虔な異性との愛を望んでいますが、本来のキリスト教において肉の交わりある愛は不敬なものとされています。もし私の望みが叶った場合、貞節のままでいたほうがよいかどうか、使徒聖ヨハネさまからお言葉をいただきたいのです」

 ヨハネが最期のとき、キリストについて語ったことの中には次のようなものがある。



  今、このときに到るまで、この私をあなた御自身に対して、また、女との交わりから潔くお守り下さいました方よ、若い頃、結婚しようと思った私に顕れて、『ヨハネよ、私にはおまえが必要なのだ!』と云われ、私の思いを変えるため、私に身体の病弱をさえ備えられた方よ、私が結婚したいと願った三度目には、急いで私を押し止め、そのあと、昼間の三時頃でしたが、私に海の上でこう云われた方よ、『ヨハネよ、おまえがもし私のものでないのなら、私はおまえが結婚するがままにさせたことであろう』と。悲しませ、そこからあなたを求めさせるため、私を二年もの間盲目にされた方よ、三年目に私の心の視力を開らき、同時に、明るく澄んだ両の瞳をお恵み下さいました方よ、私が再び見えるようになったとき、女をその気で眺めることさえ嫌わしいこととされ、はかない気の迷いから私を解き放ち、持続する生命へとお導き下さいました方よ――
  『ヨハネ行伝』一一三

 また、パウロは信徒への手紙でこう伝えている。

  未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
  『コリントの信徒への手紙 一』七.八〜九



 ヨハネは厳かに答えた。

「色恋を愛と勘違いしてはいけない。綺麗にすべきなのは不浄な手ではなく不浄な心なのだ。結果が全てに優先するわけではない。重要なのは心がどちらを向いているかなのだ。それを違え、つまずくことがなければ、神は節制ある交わりを祝福されるだろう」

 夜初音は深々と頭を下げた。

「あなたと相見え、言葉を交わせたことに、父と子と聖霊への感謝を」

「アーメン。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」

 ヨハネの頭上に光輪が浮かび、全身が光輝につつまれていく。

 薄れはじめる聖人へ少女は呼びかけた。

「Quo Vadis, Johannes?(ヨハネよ、何処へ?)」

「わたしのいる所に、おまえは今来ることはできないが、後で来ることになるだろう」

 くるめく光がおさまったとき、使徒聖ヨハネの姿はすでになかった。

 夜初音のリボンや衣服はもとの色に戻り、背後では、鷲が人間の姿を取り戻した。

 最後に、「兄弟姉妹たちよ、あなたがたに平安があるように」という言葉が降り注いだ。



 三年後。

 森野陽性は駆け出しのお笑い芸人になっていた。芸名は遺作といい、用務員風のジャージと、黄色のタオルを首に巻いた格好が彼のキャラクターである。

 高校三年の夏休み、聖夜初音は単身ギリシャへ渡り、パトモス島へ巡礼に来ていた。島内には、使徒聖ヨハネが天から啓示を受けたとされる洞窟が残っており、丘の上の神学者聖ヨハネ修道院やそれを囲む旧市街ホーラとともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 その洞窟をまえにした夜初音が祈りを捧げ、グレゴリオ聖歌を唄っていると、ふいに後ろからラテン語で話しかけられた。現在ではバチカン市国でしか公用語として使われていない言語で呼びかけられたのに関心をもって振り向くと、二十歳前後といった風貌の青年が立っていた。イタリア人であろうか。

「邪魔をしてしまいすみません。主の恵みがあらんことを」

「主の恵みを。……クリスチャンですか?」

「はい、カトリックです。もしかしてあなたも?」

「ええ。私は夜初音、聖夜初音です」

 青年は軽く目をぱちくりとさせた。それは奇遇だというふうに微笑した。

「ぼくの名前は、――ジョバンニ」

 夜初音も、きょとんとして笑った。ジョバンニはヨハネのイタリア語形である。

 自然と心が触れ合うように、エーゲ海の美しいさざなみと紺碧の空を眺める二人。

 夜初音は満足げに十字を切った。

 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように、アーメン。

 (了)

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