第10話「ゾタクァのおくりもの」


 これは約一年前の話である。

 薄暗い室内。群青と濃い紫が溶け込んだ夜、青白い巨大な罌粟のような月明かりが、妖気と耽美のアラベスク模様が施されし天蓋に覆われた、格式ある大きな寝台を照らしだす。上品な絹のシーツのうえでは、濃密でかぐわしい蜜を含んだ花の香りが漂っていた。全裸の美しい娘がふたり、なまめかしい花弁の褥に身を添える妖精のように、なめらかで瑞々しい肌を交わらせていたのである。ひとりは、ウェーブのかかった、アッシュブロンドに近い薄灰色の髪を肩下まで伸ばした娘。ひとりは、黄金色の髪を腰までたらした娘。どちらも良家の淑女に違いなかった。熱く、いとおしく、激しく、眩惑を誘う芳香を発露する、蟲惑の紡ぎ手が織りなす深紅の色が綾なした夢の如き麗しき光景であった。

 事が終わると、ふたりの乙女は、シーツにくるまって身を寄せ合い、その余韻を残す温もりを感じながらほほえみあった。それから少しの間をおいて、金色の髪の娘が、申し訳なさそうに悲しげに睫をふるわせた。

「ごめんなさいね、メサイア。前にも言ったとおり、お父様の決めた縁談に逆らえなくて、一週間後には婚約者と婚姻をかわすことになるの」

 薄灰色の髪の娘は、いたわるように優しく手を添えた。

「気にしなくていいわ。あなたはこれまでにたっぷりと私との愛を享受してくれたもの。それに、あなたが男のものになったところで、あなたの魅力が損なわれるわけじゃないし。私には考えられないけれど、男の味を知って幸せの道を歩めるなら、私は別に構わないわ」

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいわ」

 そっと可憐な唇が重なり、とろけるような舌の交錯が一分ほど続く。

 つうと糸をひいて口が離れたとき、金髪の娘はどこか憂いを秘めた眼差しを逸らした。

「どうしたの、エミル」

「あ……こんなときに顔に出てしまうなんて……ちょっと憂鬱の種があって」

「そうなの? 婚約者は素敵な男性だって言ってなかったかしら?」

「ええ、あなたのまえで言うのもなんだけど、彼は異性として素敵な人よ。問題はそれじゃなくて……彼の先輩にあたる夫妻なの」

 エミルは一流企業の令嬢で、その婚約者は新人の下院議員だった。そして、その先輩にあたる上院議員は彼のことを嫌っているらしく、夫婦ともども何かにつけて嫌がらせをしてくるのだそうだ。

「彼は立場的に言い返せなくて、嫌がらせの矛先は私にもまわってくるの。今後はそれが活発になることを考えると、つい溜息が」

「そうなの……かわいそうなエミル。私がなんとかしてあげられればいいんだけど。パパにお願いしてみようかしら?」

「ううん、気にしないで。それにメサイアのお父様は誠実で真面目な中央官僚じゃない。そんな立派な方の手を煩わせるなんてこと、失礼すぎてできないわ」

「わかったわ。でも困ったことがあったら言ってね、相談に乗ってあげるから」

 そしてふたりの美しい娘は熱い抱擁を交わした。そのとき、メサイアの表情は、実に愉しげな歪んだ微笑を湛えていたのだが、彼女のことを官僚の一人娘としか認識していないエミルには、その笑みの意味を推し量ることなどできるはずもなかった。

 数日後、ある上院議員夫妻の生後一年になる双子が、夜のうちに何者かに誘拐されたらしく、朝になってみると影も形もなくなっていた。事件はそれだけに留まらず、夫妻による政治的な巨額横領の証拠が明るみにされ、一方的に見下していた新人の下院議員に嫌がらせをする状況ではなくなってしまったのだ。



 ひっそりとした地下室の床には、大きな五角形の板石が敷きつめられていた。魔術による仄かな明かりに照らされた室内は、さしたる装飾や調度もなく、遥かな太古に忘れ去られし神殿跡を思わせる、不気味で暗鬱とした重々しい空気に満ち溢れていた。魔術礼装を身に纏い、ハイパーボリアの偉大な魔道士エイボンの印を模った三本足の意匠が施された護符のペンダントを首から提げたメサイアは、眼前の闇にそびえる彫像を崇拝者の眼差しで凝視した。

 その巨大な彫像は、怠惰に坐りこみ、悍ましい蟇を思わせる頭部、大きな腹のせりだした、柔毛に覆われた蝙蝠とナマケモノを連想させる容貌をしていた。丸い眼になかばかぶさる眠たげなまぶた、閉じた口の端から突き出したふくよかな舌、そしてごくありふれた宝石の一個とて装飾されていない獣性みなぎるこの巨像こそ、彼女の崇拝する神、大いなるゾタクァ――ツァトゥグァの神像に他ならなかった。

 そしてその前には金属製の祭壇があり、中央に幼児がふたり寝かされていた。上院議員の子供である双子に違いなく、ツァトゥグァへ捧げる生贄として攫ってきたのだ。熱心な帰依者たるメサイアは、数ヶ月に一度、ツァトゥグァへの生贄の儀式を行っていた。

「万人が御身を讃えん、ゾタクァ、暗黒の支配者よ。御身の偶像の御前にて、われ汝への忠誠を誓わん。汝の授けし魔道の業に、赤く脈打つ心臓の供物もて幾度とて報わん。血塗られし御身の祭壇にて感謝を捧げん」

 メサイアが両手を広げると、双子の幼児が宙に浮かび、やがて突然、暗闇に消失した。程なくして、何処とも知れぬ深淵の彼方より、肉を噛んでむしゃぶる音が聴こえてきた。大いなるツァトゥグァが、幼き生贄を貪り喰らっているのだ。このときのみ、崇拝せし神との僅かな接点を感じ受け、メサイアは恍惚とした歓喜に心身を満たすのである。

「イア! イア! ゾタクァ! 聖なる怠惰にまどろむ大いなるものよ、暗黒のンカイと輝けるヨスを統べるものよ。おお、クン・ヤンの王よ、ロマールの主よ、汝の真の下僕メサイアの貢物を受け取り給え。イア! イア! ゾタクァ!」

 そうしてメサイアが祈祷を終える頃には、しんとした静寂が周囲を包んでいた。ここに生贄の儀式は終了し、ゆっくりとこうべを垂れた彼女は、いつものように慎ましく退室するはずであった。

 そのときである、くすんだ石の嵌められた神像の眼が光り、深いうなるような音が脳裏に直接ひびいてきたのは。そしてその音は、異様にも、形をとって音節と言葉をつくりだした。稀に発生するツァトゥグァの御言葉であり、ただちにメサイアはその場に跪き、床に額がつくほどに低頭して全身全霊をもって耳を傾けた。

『メサイアよ、此度のおまえの貢物に感謝をなそう。おまえの熱心な奉仕は現在のこの世界における余の信奉者のなかでもそうはおらぬ。かかるがゆえにその献身に対する見返りとして、余からひとつの贈物を授けよう。顔を上げるがよい』

 少女が恭しく面を上げると、祭壇の中央に、目玉の形をした血の色の小球が空間よりしたたり落ちた。途端、この世のものにあらぬ尋常ではない冷気が放出し、メサイアはぞくぞくと身体をふるわせたが、赤い小球を何らかのエネルギーが包み込むと、言い知れぬ寒気はおさまった。

『それはかつて余が腰を下ろしていたハイパーボリアの地を氷河で満たさんとしたルリム=シャイコースの眼窩よりこぼれしものだ。余の計らいにより、最初に手を触れし者に、それを精製する知識が与えられる。その技術を扱えば、かの白蛆の力の欠片を凝縮した冷気を武器とすることができるゆえ、おまえの身に差し迫った危機を払う切り札にするとよかろう。但し、それを携帯することが可能なのは一度に二つまで。それ以上を持とうとすれば、かの青白き光に包まれたものの運命に見舞われることとなる。そうなれば余の加護を纏ったとしても白き死から逃れることあたわずため、このことは決して忘れるでないぞ。よいな』

 メサイアはふたたび畏まって低頭した。

「私のごとき物の数にも入らぬ身に、勿体なき賜物と丁重な御説明畏れいります」

『これからも変わらぬ奉仕の程、期待しておるぞ。――余の忠実なる僕、メサイアよ』

 やがて声が聴こえなくなってからもしばらく低頭していたメサイアだが、ゆっくりと顔を上げると、彫像の眼の輝きは消えていた。そして、祭壇の中央には、血のように紅い目玉の形をした小球がひとつ。立ち上がったメサイアは、おそるおそる祭壇に近づき、ごくりと唾を飲んで手を伸ばした。

 次の瞬間、少女の口から、ぞっとするほどの哄笑があがった。



 一週間後の夜、メサイアの邸宅をエミルが訪ねて来た。

「どうしたのエミル、まだ何か悩み事があるの?」

 エミルはどこか恥ずかしげに、しかし嘆息交じりにほほえんだ。

「昨日、初夜を迎えたんだけれど……彼、とても下手で」

「あらあら」

「気持ちよくなるどころか痛いだけだったけど、なんとか心地いいフリをしたの」

「かわいそうに。それで、どうしてほしいのかしら?」

「その……火照った体を……慰めてもらいたくて。処女じゃなくなった私でよければ、だけど」

 幾分か不安そうな既婚者を、メサイアはじいと眺めた。彼女にとって相手が処女か非処女かは関係ない。重要なのは魅力があるかどうかだが、その観点からすると今のエミルは、初夜を終えたばかりの若人妻という付加価値がついており、さらに美味しくいただけることになる。

 メサイアは優しく彼女の手を取り、にんまりとした笑みを浮かべた。

「もちろん、よろこんで」

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