第四章 レナスフィール、ロジャー邸を訪れて物語ること


 その日、赤黒く染まり異様なフォルムを誇示する夕暮れのロジャー・ベーコン邸を一人の娘が訪れた。レモンイエローに近い淡い金髪を頭の両端でさげ、瑠璃色の瞳をたたえた気品漂う少女。鉄黒色の上着と薄青く澄んだ水色のミニスカートを上品に着こなした容姿はまさしく貴族の風貌でしかない。応対に出たロジャーに伴われて客室に案内された彼女は、リースとゲボ子の前で優雅に一礼してみせた。

「はじめまして。妾――わたくし――はレナスフィール・ロック・ミュンヒハウゼン・コンセプシオン・エンリケ・マリア。どうぞ気兼ねなくレナと呼んで下さい」

 その麗らかで厭味の欠片もない魅力的な会釈に見惚れていたリース・フレキシブルは、ふと彼女の名前に思い当たり、たちまち仰天の態度をあらわにした。

「まさか……<影の谷>の公爵令嬢――!?」

「三女ですけどね」

 そうつけ加え、くすりと気さくな微笑を浮かべるレナに、リースは泡を食って驚くばかり。<影の谷>――それはスペインの一角に存在する広大な森とその周辺の地を指す名称で、スペイン内において唯一の独自権利を有する超法的な国内領土であった。<黄金世紀>のさなか、スペイン王との間に結ばれた協約は現在も続いており、未だ<影の谷>の領主はスペイン第一等の大貴族なのである。そして<影の谷>の現公爵は、初代公爵であるドン・ロドリゲスから数えて十三代目にあたり、レナはその三女というのだから、同じスペイン人たるリースの驚嘆はいかほどのものか想像に難くないであろう。

 ただしリースは彼女のことを知ってはいても、顔までは知らなかった。何故ならテレビなどでも表に出るのは常に長女と次女だけで、三女が一般に姿を見せることは殆ど皆無と言っていいくらいだからである。というのも、実のところ彼女は十六歳にして大の冒険好きで、約二年ほど前から、ちょくちょく家を留守にしては世界中の名所や秘所を旅してまわっているのだった。

「レナ、よろしくー」

「ゲボ子さん、そんないきなり遠慮なく!?」

 いつもどおりのフリーダムな態度で<影の谷>公爵令嬢の手を取って握手するゲボ子。呆気にとられるリースだが、当のレナは満足げに応じるばかり。それから彼女に徐に握手を求められ、リースは暖炉で燃える薪のように胸を焦がしておずおずと手を差し出した。レナスフィールの手肌から白百合の純潔さ、整った微笑からは穹窿を舞う大鷲のごとき気高さが伝わってくる。

「かの名高いドクトル・ミラヴィリスと会話を交わしたくてやってきたのですけれど、明日の昼以降に持ち越しになってしまうようですので、ご好意に甘えさせていただき今夜はここに泊まらせてもらいますね」

「いやはや、すみませんねえ。今日はこれから外せない用事がありまして、帰ってくるのはどうしても明日の昼になってしまうものでね」

 ロジャーは私用で一晩家を空けることになり、ボディガードとしてゲボ子も同行するため、今日はリース一人で夜を過ごすことになるはずだった。それがまさか<影の谷>公爵の三女が泊まることになるとは。

「ねえレナ、挨拶も済んだんだから、アタシもう出てもいいでしょ?」

 突然、室内に加わる新たな声。鈴の鳴るようなはりのある娘のものだ。リースとゲボ子がきょろきょろと見まわすが誰の姿もない。レナが一言いいですよと口にすると、彼女の肩あたりに、すきとおった光筋の輪が蛍火をともす夜露のようにきらきら浮かび、ひとりの小妖精が姿をあらわした。腰まで届く穏やかなコバルトグリーンのストレートロングヘアに、鮮やかなコバルトブルーの瞳。水色の上着と青のミニスカートにニーソックス、ひときわ対照的な赤い靴。放射状に伸びた透明な四枚の翅で中空を漂う身長二十数センチほどの少女は、まぎれもなくフェアリーだった。

「初めましてー、アタシはフィナ。レナの親友で、もとエルフランドのフェアリーよ」

 両手を腰に当てて僅かに上体を傾けながら、明るくウインクする小妖精。リースはほんものの妖精を眼にして感動するとともに、合点がいった。少なくとも普通の人間に違いないレナが魔法に隠されたロジャー邸を発見できたのはこのフェアリーがいたからなのだ。

 同時にひどく好奇をそそられることがあり、訊いてみようかどうか喉まででかかった言葉は、隣の少女が片手を挙げたことによってさえぎられた。

「はい、フィナ、しつもーん」

「えーっと、ゲボ子だったっけ、なにかしら?」

「オーガの好物がフェアリーの串焼きだって聞いたんだけど本当ですかー?」

 それは一瞬の出来事だった。フィナがどこからか巨大なハリセンを取り出したとみるや、間髪いれずにスパーンとゲボ子の側頭部に一発お見舞いしたのである。金髪の三つ編みが派手に揺れて、不届きな質問を発した少女の目に星が散った。

「いきなりなんてこと言い出すのよアンタは!」

「フィナ――無作法ですよ」

「だってレナ、こいつがとんでもないふざけたことを口にするから……っ」

 あくまで上品にこほんと咳払いするレナに、怒り収まらぬといった調子で小妖精が眉をつりあげる。一部始終をぽかんと見つめていたリースは、もはや入れ替わりに質問する勇気など微塵もなかった。そのうちにロジャーは外出の準備を終え、まったりとフィナに謝っているゲボ子を促すと、さくさくっと支度を整えた彼女を連れて邸宅を後にした。

 かくして夜の帳が下りたロジャー邸。夕食はなんとレナがつくった。リースが用意しようとしたのだが、宿泊させていただくのに何もしないのは悪いからと、<影の谷>の令嬢はその麗しき料理の腕前を披露したのであり、感嘆すべきことにそれはとても美味であった。レナにしてみれば、淑女たるもの身のまわりのことは一人で何でもこなせなくてはということらしい。

 場所は来客用の寝室にうつり、招かれたリースはレナと一緒にワインの杯を傾けた。レナが自身の冒険譚を語って聞かせてくれるというので、胸をわくわくさせた。なにしろエルフランドのフェアリーを友として連れている彼女のこと、いったいどんな奇想天外な展開が待っているかしれないではないか。杯をテーブルに置くと、レナスフィール・ロック・ミュンヒハウゼン嬢は、恭しく前口上を述べた。

「新酒のワインも甘いもの。採りたて蜂蜜も嘗めるもの。味が変われば心機も一転。年じゅう同じはいただけませぬ、老先生方の偏屈同様。変化あっての愉快と有益。暇つぶしとこそ謗らば謗れ、心に身体に活力剤(カンフル)うって、軽い気持ちで物語ろう、それではともかく始まりとしよう」



 ――妾が家郷をば後にチェコはプラハの地に辿り着いたときのこと。城下町と旧市街とをつなぐ一つの美しい散歩道たるカレル橋にさしかかったとき、なにやら群衆のざわめきおびただしく、何事かと思い眼をやってみたらば、さあたいへん! なんとなんと、プラハ動物園から逃げ出してきたらしき一頭のライオンが暴れまわって駆けてくるではないですか。直線状にいた妾の双眸と百獣の王のまなこが運命よろしくピタリと重なり、たちどころにそのライオン、妾めがけて一目散。回れ右して駆け出すも、人の足ではすぐさま追いつかれること必至。そこで妾チェコの伝説にハッと思い至るや橋の南側の彫刻群にて立ち止まり、くるりと向き直るや、土産屋で購入したばかりのおもちゃの刀を掲げました。しからば効果覿面、目前まで迫っておりましたライオンただちにおとなしくなり平伏したのでございます。群衆からは拍手大喝采の雨嵐。かくあらん、ちょうど妾が停止した場所こそチェコの伝説の王ブルンツヴィーク像の位置であり、掲げた刀はブルンツヴィークの魔法の刀を模した玩具だったという次第であります。

 さて次はロシアの山中にて狩りを楽しんでいたときのこと。凛々しい白馬を駆って林道を進み、馬上からライフル構えてズドンと一発、また一発、鳥や獣を仕留めていた妾でありますが、いまいましくも不逞のやからが仕掛けた罠に馬の脚がひっかかり、その激しいおののきに妾たまらず地面に投げ出され、したたかに体をうちつける有様。そこへくだんの罠を仕掛けた悪漢が銃を片手にやってきたものですから、さて貞操と命の危機が一度に押し寄せてくるこの状況、どう切り抜けたものか。肝心のライフルは投げ出されたときに遠くへ取り落としてしまっているゆえ頼りにならず、そこで妾ふと以前見に行った奇術師の手品を思い出し……



 そこまで話したとき、レナは聞き手のリース・フレキシブルがなにやら訝しいかんばせをしているのに気がついて、神妙な面持ちで語りを中断した。

「リースさん、妾の話がお気に召しませんでしたか? 異郷へ旅したものは往々、正確には真実とは申しがたい事まで、主張しがちなものです。したがって聴衆が、少々不信に傾きがちであっても、何ら不思議ではありません。貴女に妾の話の真実性を疑うむきがあるとすれば、妾の力不足以外の何者でもなく、かのヒエロニュムス・カール・フリードリヒ・フォン・ミュンヒハウゼン男爵やジョゼフ・ジョーキンズのようには人々を愉しませるに至らぬことを痛感し、さらなる磨きをかけるばかりで――」

「いえ、その……レナさんのお話はすごいと思いますけど、ただ、私は、ほら話ではなくてほんとうに不思議なことを聞かせてくださるとばかり期待していましたから……」

 途切れがちの口調、顔色を窺うふうなたどたどしさに、レナはふむと片手を口もとに沿え、それから青く輝く眼差しを対面の少女に向けた。青金石の瞳に魅惑されたように視線をそらせず、リースは紫水晶の眼をぱちぱちさせた。

「リースさんは魔法がお好きなようですけど、マジックはお嫌いですか?」

「え? いえ……べつに、嫌いというわけじゃないですけど、ただ、マジックはほら……トリックがありますし」

「そのとおり。でも、種も仕掛けもあるマジックも素敵だと妾は思いますよ」

「それは、どういうことで……?」

「まじめなリースさんの性分や嗜好は美徳ではあれど、諧謔のひとつも愉しめないのはお気の毒に感じます。たとえばマジックがあるからこそ、人は魔法という概念を思い出せると考えてはいかがです? また、種や仕掛けがあると知りながら、マジックショーを見に来る人々はそれを楽しみます。妾はマジシャンの披露するマジックを見て感銘を受けました。自分もこんなふうに人々を愉しませたい。そこでふと考えました。妾は簡単な手品しかできないのでマジックは無理ですが――」

「――ごめんなさい!」

 両手で話をさえぎって、心底申し訳なさそうに頭を下げるリース。レナの言わんとすることを理解し、恥ずかしくてたまらなかった。魔法と幻想のロマンスに浸るあまり、それを存在させるよすがを軽蔑して見向きもしないとは、そんな狭量さでよく魔法の側に在りたいと思ったことか。

 羞恥でうつむく少女に、レナは優しい声音をかけた。

「わかってくれて嬉しいわ。それと気にしないで、謝るのは妾のほうですから」

「そうよ、リースが謝る必要はないわよ。レナの言い方がずるいんだから」

 それまで黙っていた小妖精の遠慮ない発言に、レナが唇を尖らせる。それからリースのほうへ気さくに苦笑してみせた。

「フィナの言うとおりです。妾これまでに何度も今のようなお話をして紳士淑女の皆さんを愉しませてきましたから、リースさんの落胆ぶりに少々苦い思いをしまして、それでつい意地悪な指摘を」

「ほら、レナってこんなやつなのよ。人は見かけで判断しちゃいけない好例でしょー」

「もう――口が過ぎますよ、フィナ」

 拗ねたようにそっぽをむく<影の谷>の公爵令嬢。きょとんとしていたリースは、そんな両者のやりとりがおかしくて、みるみるうちに晴れやかな表情になってふたりを見つめた。

「いえ、レナさんのおっしゃることもごもっともですから。レナさんのおかげでひとつ気がつくことができました、ありがとうございます」

 そうして場が和やかなムードを取り戻したところで、フィナが思い出したようにリースの近くに身を漂わせた。ロマンスの生きものの代表ともいえる存在に近寄られ、思わずリースの胸が高鳴る。

「そうだ、あんたゲボ子が腹立つ質問するまえ、アタシに何か言おうとしてたでしょ」

「は、はい……よくわかりましたね」

「ふっふーん、アタシ洞察力は結構あるから。で、なにか聞きたいことでもあったの」

「えっと、フィナさんはエルフランドの妖精なんですよね? それなのに、よく外の世界で暮らすことにしたなと思って……」

 伝説によるとエルフランドでは大いなるエルフ王の想いのもと、いつまでも同じ日がつづく。すべての夜明け、日没、黄昏、蒼白い星の光などは、エルフランドの永遠の輝きの中で混ぜ合わさり、世界はずっと<今日>のまま。エルフランドに在る生きものにとって<時>と<死>は縁遠いもので、<明日>の到来など夢物語に過ぎない。エルフランドを離れ外界に身をやつすということは、<時>の奔流を浴びてやがて来る<死>を迎えることになるのだから。

「ああ……アタシがレナと出会ったのはこの人間世界で一年半前――エルフランドでは年月という概念は存在しない――なの。エルフランドを訪れたレナとたまたま知り合ってね、そこでほら、さっきみたいな調子で外の世界のことを面白おかしく話すわけよ。それはもう、エルフランドの心地よい暮らし以上の好奇心を呼び起こさせるくらい。それでちょっとだけと思って、レナについていって外の世界に出たけど……自然の、生物の、建物の、あらゆるもののめまぐるしい移り変わりは、驚いたなんてもんじゃなかったわ! まあ結局、今もこうしてレナといるわけだけどね」

「それは、どうしてです? ずっと<今日>のままじゃない世界で生きていこうと思ったのは」

 フィナはそっと口もとを綻ばせた。

「レナと一緒にいるのが楽しいからよ。だから――もう静寂のエルフランドには戻れない。なにもかもが信じられないほど早く過ぎていくこの地上で、レナとともに過ごす歓びを知ってしまったから」

 レナは何も言わず、眼を伏せて耳を傾けている。ただ、その顔は嬉しそうだった。リースは心の温もりを感じてほほえんだ。うらやましく思えるほどまぶしかった。出会って一年半だというが、眼前のふたりからは、もっと長い歳月を一緒に培ってきたような絆の結びつきを感じたのである。

 しばらくたってから、リースは口を開いた。

「レナさん、冒険話の続きを聞かせてもらっていいですか」

 その言葉にレナはにこりと笑った。彼女は気分が乗らないときはどんなにせがまれても物語らない人間だったが、いまはそのかぎりでなく、<影の谷>公爵令嬢の晴朗なる笑顔が、リース・フレキシブルの期待が満たされるであろう、まごうかたなき前兆を示していた。かくてレナスフィール・ロック・ミュンヒハウゼンはワインを軽く一杯やってから語り始め、夜は深けていくのであった。

 翌日の昼下がり、レナがロジャーの部屋で会話を交わし始めた頃、リースは自室の隣室でゲボ子とくつろいでいた。

「レナさんとロジャーさん、どんな話をしているんでしょうね」

「んー……きっと重要な話なんじゃないかなー。ロジャーの部屋に入る直前のレナ、一瞬だけどすごく真剣な顔してたから」

「へえー、そうなんですか」

 怠惰なように見えて意外に鋭いところのあるゲボ子に感心する。

「あ、そうだ、リースにお土産」

 ポケットをごそごそしたゲボ子が握りこぶしを突き出す。リースの手のひらに、何の変哲もない六面体ダイスが落ちた。きょとんとするリースにゲボ子がのんびりと言った。

「なんとなくリースに似合うかなと思って」

 つまり明確な理由はない。暫しぽかんと手のひらの白いダイスを眺めていたリースは、やがてふつふつとある感情が湧いてきた。それは歓びだった。それは嬉しさだった。とめどなく溢れて胸がいっぱいいっぱいになった。ダイスをぎゅっと握りしめ、何度か口をぱくぱくさせてから、ゲボ子をしっかりと見据えて声を張り上げた。

「ありがとう!」

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