第三章 ツァラトゥストラとの出会い


 ――きけ、われなんじらに超人を教う!
 超人は大地の意義である。なんじらの意志はよろしく言うべきである、――超人こそ大地の意義なれよ! と

 ――みよ、われこそは紫電の告知者である。密雲より落ち来たる重き滴である。しかして、この紫電こそ――超人である!



 弓形の窓から差し込む燦々とした朝の光、そのぬくもりを受けて、リース・フレキシブルはゆっくりと目を覚ました。窓の外では、青い空に流れる、天使の羽根のような形をした白い巻雲が広がり、刷毛目を覗かせていた。ロジャー・ベーコンのつくりだした異空間においても朝と夜は訪れ、日本の四季に応じて気候や天候も変化するのだ。

 はじめてこの邸宅にやってきたときから七日が経過した。その間リースは一度も外に出ることはなかったが、毎日かかさず師匠の授業を受け、ついに日本語で日常会話をこなせるようになったのは立派な成果である。さらには簡単な漢字くらいなら読み書きもできるのだから、これこそ魔法使いの教授と云わずとしてなんとたとえようか。

 リースはベッドから起きがけに、壁に飾られた一枚の絵画を見やって微笑した。それは緩やかなだだっ広い原野で長閑に佇む三頭の雌牛を描いたもので、バロック期のオランダの画家であるパウルス・ポッテルの傑作の一つ、「牧草地の三頭の雌牛」だった。ポッテルはオランダの田園風景の中に克明に配した牛や馬といった牧場の動物たちを多く描いたことで知られる。日本語の講義をほぼ受け終えたリースは、祝福代わりに師匠から画廊の絵画をどれでも一つだけ持っていっていいと言われ、壁に立てかけられたものの中からこれを選んだのであった。

 黒を基調としたいつもの服に着替えると、リースは隣室へ赴き、この一週間のうちにすっかり打ち解けた金髪碧眼の少女と朝食をともにした。ふたりは可能な限り食事を一緒にとるようになった。リースがその少女、ゲボ子に心を開いたからであり、また、友達になれたらいいなというささやかな願望が芽吹いているがゆえに。それを口に出して伝える勇気はまだないのだけれども。

「リースは料理うまいなー。あたしがつくるよりずっとおいしく感じる」

「そ、そうですか? ありがとうございます。祖母と暮らすことになったとき、一生懸命おぼえたんですけど、舌に合うようでよかった」

 褒められたことがうれしくて照れ顔で口もとを綻ばせるリース。邸内での食事は自分で調理するのが基本で、食材はゲボ子が町まで出かけて調達してくる。ロジャーの部屋にある料理生成の魔術機械セレベスの象は賓客をもてなす際にしか使わないのだ。ちなみに生活費と少しの余分なお金はロジャーが毎月出してくれるらしい。錬金術で精製した金塊を換金して捻出するのだが、彼にとっては科学や魔術の研究に必要な費用を得る手段に過ぎず、錬金術の奥義などは魔道の精髄からみれば下の下でしかないのであった。

 リースは今日、一週間ぶりに外へ出ることになる。日本語で日常会話ができるようになったからだが、これで食材の購入も自分で行えるわけで、ゲボ子の負担が少なくなることにも繋がるのが何よりよろこばしい。そんな思いを抱きながらゲボ子の部屋の壁に眼をやると、飾られているのはジォルジオ・デ・キリコの『通りの神秘と憂愁』。少女が輪を転がしながら閑散とした通りを駆けている絵で、深い沈黙と不気味な兆しが風景を支配している。けれどリースの脳裏をよぎったのはキリコがのこしたという次の言葉だった。「芸術作品には、理性も論理もあってはならない。そうであってはじめて夢や子供の心に近づけるのだ」。



 リースが外出するまえに、彼女の師匠はひとつの講釈あるいは助言を呈した。

「リース、あなたがこのままこちら側の人間として生きていくのなら、あなたのほんとうの幸せを見つけなさい」

「私の、ほんとうの幸せ?」

「今から話すのは、ある類稀なる美観を誇る見事な庭園を造り上げた青年の思想――幸福の不変の法則、或いは基本原則ともいうべき四つのものです。第一に、戸外でのびのび運動すること。第二に、女性に対する愛。……これは大切な誰かに対すると改めてもいいでしょう。第三は野心を軽蔑すること、そして第四は絶えず何かの目的を追求することです。彼の見解によれば、他の条件が同等であれば、その目的が精神的なものであればあるだけ、獲得される幸福は大きくなる、ということです」

「……なんだか、難しいですね」

「難しく考える必要はありません、人間何が幸せかわからないものです。本当にどんなつらいことでも、それが正しい道を進む途中の出来事ならば、峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一歩ですから。あなたはあなたなりに、ゆっくり探せばいいのですよ」

 まだよくわからなかったが、それでも言葉のいくらかは伝わった。リースは清々しい表情でロジャーにうなずいてみせた。

 ロジャー邸を後にしたリースは、シュールな絵画のごとくぽつねんと異空間の縁に一体化している白木の戸口を抜け、七昼夜ぶりに外へ出た。その瞬間、清々しい衝撃が彼女を通り抜けた。そこはもう以前さまよった森の中ではなかった。ああ、これこそ魔法の領域に身をおいた者が感受する世界のささやきなのだ。まるで見違えるようではないか、ここは魔法使いの森に相違ない。普通の人間には鬱々とした不気味な森林そのものだが、いまのリースには、深い魔法の息吹と生命の鼓動が感じられた。

 耳をすませばホオジロやヤマガラのさえずり、眼を凝らせばセンブリの白い花に舞うルリタテハ、足もとを駆けていくシマリスと木々のさざめき。もはやこの森において道に迷う心配はなかった。どの方向へ歩けばどこへ出るのか、いまどの位置にいるのか、魔術で隠されている魔法使いの戸口はどこなのか、リース・フレキシブルにはすべてがわかるようになったのだ。人がほとんど立ち寄らぬ暗鬱とした自然の迷路も、いまや彼女には勝手知ったる庭にすぎなかった。

 散歩がてらに遠くへ足をのばそうと思い、一考して街ではなく里へ行くことにした。村落へ向かって樹海を歩いていると、ふいに獣が眼前に現れた。大きな尾をもった獣である。いまのリースには、一見してそれが普通の動物ではないことに気づいた。何メートルもの狐のような尻尾をもっていて、一度手につかんでみたい誘惑にかられるのだが、獣はいつも動いていて、尻尾をたえず打ち振っているため、どうしようもない。カンガルーのようなからだに楕円形の人間の顔そっくりな平坂な顔。無表情だが、牙を隠したり剥き出すときに表情があらわれるのを見てとれた。遭遇したのが普通の獣であったなら恐怖に立ちすくんだろうが、通常に属さない生き物にはよろこびと好奇心のほうがまさるリースである。そっと尻尾に手をのばすと、獣はやにわに引き上げたうえ、ふたたびダラッと下げて誘いかけ、ついでまたピンと打ち振るのだった。その理由はわからない。わからないが、何度かそれをくりかえしたのち、リースはあきらめたように笑顔を浮かべた。

「いいものを見せてくださってありがとうございます」

 感謝の気持ちをあらわにしてぺこりと頭を下げ、リースは獣の横を通り過ぎた。尻尾を打ち振る音を背にしばらく進むと、ようやく森を抜け、視界のきりかわりとして真昼の陽光がひろがった。青い絵の具をいっぱいに薄めたような空を、綿菓子、饅頭、カリフラワー、様々な形の白いもくもくした雲が流れていく。アカネズミが土から顔を覗かせ、トンビの鳴く声が聴こえる里道を歩いていった先に、村落が見えた。

 農家と畑が点在する簡素な村を進むうち、納屋の前で子供がむらがっているのが見えた。近づいてみると、半分は猫、半分は羊という変な雑種がミルクをがぶ飲みしている。その後ろで腰を下ろしている中年男が飼い主らしい。頭と爪は猫、胴と大きさは羊と、両方の特徴を受けついだ毛なみしなやかなこの動物は、その珍しさゆえ子供たちの人気者なのだという。

「あんた、見ない顔だね。外人さんかい?」

 近くの瓦屋根の家から出てきた恰幅のいい女に話しかけられ、リースは一瞬どきっとしたものの、すぐに相好を崩してこくりとうなずいた。他人に自分から話しかけるのは苦手だが、向こうから話しかけられれば普通に返すことができる。どうやら習得したばかりの日本語が役に立つときがきたようだ。

「最近スペインからきまして、森の――向こうにある町に滞在しはじめたばかりです」

「おやまあ、スペインかい。けっこうな日本語じゃないか。あの鬱蒼とした森を抜けてきたのかい? すごいねえ、あそこは大人でもめったに足を踏み入れないのにさ。さすが情熱の国のお嬢さんは度胸があるよ」

「いえ、そんな……ところで、この先はもう山だけですか?」

「いいや。山のふもとに、ここよりもっと小さな村があるんだけど……」

 そこで女が言葉を切り、口をつぐんだため、リースは興味を抑えられなかった。

「その村が、どうかしたんですか?」

「ここ最近になってからなんだけど、奇妙な葦笛の音が……とにかく、どこかおかしな感じだから近寄らないほうがいいよ」

 声をひそめてそう警告し、女はそそくさと家の中へ戻っていった。しかしそう言われると好奇はますますつのるもの。リースはほかの里人に山の麓への道をたずね、すぐに足を向けた。話によると途中に川があり、みなが利用している普通のコンクリート橋と、数年前からうち捨てられている、古びた木製の橋があるという。古雅なものを好むリースは当然後者を選んだ。

 静かな川のせせらぎとアマガエルの鳴き声。手すりもない寂れた木の橋の前に立ち、靴でこつこつと足場の強度をたしかめる。どうも不安定な気がしたが、きっと顔をひきしめるや、ひょいと両足で跳びのった。ぐらりと揺れた――なんと、橋が寝返りを打つ! とたんに落下した。リースは頭から水中に転落し、水しぶきがあがる。泳げない、溺れてしまう。と、そのとき、棺台を乗せた小舟が音もなく、すべるようにやってきて停止すると、棺から髪も髯ものび放題の男が起き上がり、いまにも水没しそうな少女の手を掴んで舟の上にひきあげてくれた。舟は川岸に寄り、全身ずぶ濡れで橋の前に戻ったリースは、命の恩人にお礼を言った。すると男は次のように語りだした。

「おいらは狩人グラフス。ずいぶん昔、もうあきれるほどの昔に死んだ狩人だ。シュヴァルツヴァルト、ドイツの深い森でカモシカを追っかけていて、岩から転げ落ちて、そのとき死んだ。だが三途の川を渡りそこねた。渡し舟の船乗りが舵をとりまちがえたばかりに地上に舞い戻ってきた。それからというもの、おいらの舟はこの世の水辺をさまよっている。山に育った人間が、死んでからというもの、水界を流れあるいているわけさ。死にぞこなったのが運のつき、いつまでも小舟暮らしだ。今はここにいるが、ただそれだけのこと、それ以上のことはできやしない。小舟には舵がないのでね。生と死の狭間で風のまにまに漂っていくだけだ」

 それはドイツ語であったので、一言も伝わらなかった。リースは、相手の言葉がわからない人間がするように、無言で愛想笑いを浮かべるほかなかった。そのうちに男はふたたび棺台の中に横たわり、小舟はゆっくりと川の流れに身をまかせていく。リースは舟影が見えなくなるまでその光景を見送った。

 ふと見渡すと、すでに空は羽根飾りをまとったような乳房雲が茜色に染まっていた。銀製の懐中時計を開くと時計の針は夕刻を指しており、帰りの時間も考えるともうきりあげたほうがよさそうだ。リースはミッドナイトブルーの携帯電話を取り出し、ロジャーとゲボ子に帰りが遅くなることを伝えた。この携帯はロジャーから授けられた魔導科学の産物で、どんな場所ででも電波が通じ、完璧な耐水性も誇る優れものである。



 村まで戻ったときはとうに陽が落ち、群青の夜が頭上遙か高みを覆いつくしていた。人影ひとつない、しんと静寂に包まれた畑のくろい畦道で、晩秋の満月に照らされた一匹の野うさぎを見かけた。うさぎは、やわらかな耳をピンと立て、月のように明るい目をして草をかじっていたが、どうやら普通のうさぎではないようだ。それは年老いた魔法うさぎだった。リースがじっと眺めていると、不思議な野うさぎはたちまち少女に視線を合わせ、瞬時にして威厳あるオーラを発したのである。それがあまりに魁偉であったため、リースはびくりとたじろいだ。すると野うさぎは人間の言葉――日本語――でこう言った。

『愛らしき乙女よ、怯えるな! ここに在るわれは、邪まの眼尖して脅かす者ではない。乙女の敵ではない。われは、悪魔の前にあって、神に代って言う者だ。この悪魔とは重圧の霊である。われいかにして、なんじ高人なる者の敵でありえようぞ? また、超人へ至る橋の敵でありえようぞ?』

 ここまで述べたとき、眼前の娘が言葉の内容をよく理解していないように感じとった魔法うさぎは、彼女のためにわかりやすく言い直した。

『可愛らしい少女よ、怖がるな! わたしは少女の敵ではない。こわい目をして、驚かそうとここで待っていたのではない。わたしは悪魔に対しては神の味方だ。もっともわたしの言う悪魔とは、重力の魔のことだが。どうしてわたしが「ましな人間」であるあなたに敵意などを持つだろう? やがて来るべき超人の橋となる者に反感を持つだろう?』

 たしかにこれでリースも内容は理解できた。しかし意味となるとさっぱりである。

「わざわざ私にもわかるように言い直してくださってありがとうございます。でも、「ましな人間」とか、超人の橋とか、なんのことですか?」

『今はわからずともよい。今はまだ、「ましな人間」であるにすぎないのだから。まことに、わたしはあなたに言う。あなたこそが超人の橋と成って、没落するにふさわしい人間意志であると! いずれまた会おう』

「待ってください、あなたは……あなたはいったい?」

 くるりと背を向けた魔法うさぎは、少女の呼びかけに顔を振り向かせた。

『われはツァラトゥストラ。超人の告知者にして、――永劫回帰を超克させり者』

 最後にそう名乗ると、うさぎはぴょんと畑を走り越えていき、あっという間に夜の闇に溶け込んだ。

 あとに残ったのは月明かりのみ。

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