第8話「なみだあめ」前編


 御納戸町の片隅に建つ小さな教会をひっそりと見つめ、ライヒは思いを馳せていた。

 トラペゾ教会。『星の智慧派』の至宝である<輝くトラペゾへドロン>から名をとったこの教会は、羽丘隆志という青年神父が一人で運営していた。彼はナイ神父より賜った<輝くトラペゾへドロン>を用いて、今年の一月上旬、この町を舞台に大規模な事象を発動させた。それは<夢の国>の未知なるカダスを現実に顕現させて何がしかを成すというものだったが、計画は失敗に終わり、隆志も消息不明のままだ。

 隆志は、有能だが特筆する能力は持たないメンバーだった。しかし神代の超戦士である「不死兵」を目覚めさせて従えることに成功したため司祭となり、一気にナイ神父の後継者候補筆頭にまでのぼりつめたのだ。ライヒから見た彼の人物像は、穏やかな微笑の裏で複雑な心境を抱えているといった感じなのだが、ヘルマイヤーなどと違って好印象が強かった。

 その彼がいなくなって数ヶ月、トラペゾ教会はいまだ誰の手にも渡らず無人の聖堂を欲しいままにしている。

「ライヒじゃない、しばらくぶり」

「ヴィエ」

 感慨にふけっていたところに声をかけてきたのはフヴィエズダ・ウビジュラだった。

 最後に会ったのが二月の末くらいなので、かれこれ一ヵ月半は経っている。

「すっかり静かになっちゃった教会なんか眺めてどうしたの」

「羽丘隆志のことを思い出していただけよ」

「タカくんのこと?」

「ええ。ヴィエ、彼はどうなったの?」

「タカくんなら次元の狭間に落ちていったけど」

 ライヒはぽかんと眼を丸くした。どうせ答えてはくれないだろうと、何気なく訊いてみたのだが、まさかあっさり返事がくるとは思わなかった。

「ミィエと一緒だったから、運が良かったら生きて別世界に流れ着いてるかもしれないわね。確かなのは、もうこの世界には存在しない――それだけのこと」

 さばさばと話すヴィエ。終わってしまえばどうでもいい彼女ならではの感想だ。

「ところでライヒ、せっかくだしホーエン館へお邪魔していい? まえに一緒に紅茶でも楽しもうって言ってたじゃない」

「え、ええ……まあ」

「タカくんがどうなったのか教えてあげたんだし、いいでしょ?」

 なんとも人懐っこい態度に、ライヒはつい頷いてしまった。



 ホーエン館は、御納戸町の片隅に位置する林の中に建つバロック様式の洋館で、ライヒの日本における住居である。オーストリア文化の精髄とも言われ、オーストリア芸術が開花したバロック時代の美術建築を用いたこの館は、ザルツブルクのコレギエン教会を髣髴とさせる外観が特徴的だ。

 ライヒとヴィエはその客間にて、鮮やかな赤ワイン色のローズヒップティーを愉しんでいた。お菓子はライヒお手製の焼きたてアップルパイである。

「ふうん、このパイ結構いけるわね」

「ありがとう。ここ一週間ほど練習したから、何とか人に出せる程度にはなったわ」

「ライヒは努力家さんなのかしら?」

「さあ、自分ではわからないけど。それよりヴィエ、初めて会ったときお菓子作りの本を買っていたけど、結局バレンタインはどうだったの」

「うーん……わたし、料理は本当に不得意みたい」

 眼を伏せて苦笑するヴィエ。それだけで結果は察することができた。

 チョコレートなど、本格的に初期段階から作ろうとしなければ、用意されたものを使って簡単にできるはずなのだが、そこは口に出さないでおく。

「それにしても、意外」

「ん、なにが?」

「私とあなたがこんなふうにティータイムを愉しんでいること。だって私は一方的に二回も戦闘を仕掛けたのに……」

「そんなの気にしてなんかないよ。わたし、ライヒのことは嫌いじゃないから」

 くすくすとほほえむヴィエに、ライヒは少し照れくさそうに視線をさまよわせた。

 そこでドアの隙間に善良な兵士の顔を発見し、紅茶を噴きそうになった。

 あわててドアへ駆け寄ると、眉をつりあげて小さく怒鳴る。

「来客中だから客間には近づかないように言っておいたでしょ!」

 するとシュヴェイクは、なんの心配もなさそうな顔で穏やかに敬礼した。やさしい眼差しでじっと見つめられたライヒは、思わず少し眼を閉じた。

「申しあげます、司祭殿、先日訊かれましたわたくしの能力についてでありますが……」

「そんなのまた今度話してくれたらいいからっ」

 強引にシュヴェイクを押し出してバタンとドアを閉め、おもむろに振り向いたライヒの眼に映ったのは、いかにも興味津々といった表情を前面にあらわしている客人だった。

「ねえライヒ、いまのもしかして善良な兵士シュヴェイク? 似てるどころの話じゃないんだけど、いったいなに?」

 チェコの有名キャラクターであるシュヴェイクを、チェコ人のヴィエがひと目見てわからないはずはない。隠すと余計詮索してきそうなので、ライヒは仕方なく自らの失敗談を話すことにした。

 すなわち、召喚ミスにより架空の英霊であるシュヴェイクを呼び出してしまったことを。

「あら、面白いじゃない。話聞いてる限りだと楽しそうだし」

「当事者の私としては溜息のつきどおしよ……」

 言ったそばから溜息をつくライヒ。ヴィエのようなタイプであればシュヴェイクとうまく付き合って面白おかしく過ごせるのだろうが、自分には無理だ。

 げんなりとしながら、ルカーシ中尉も同じ気分だったのだろうかと、ふと考えるライヒだった。



 翌日、ライヒは御納戸町の住宅街外れの丘に建つゴシック様式の洋館を訪れていた。

 玄関に出てきた、人間の軽薄そうなサングラスの男に自己紹介を済ませると、ヴィエはまだ学校から帰ってきていないと言われた。表向きは小学六年生として学園生活を謳歌しているらしいのを思い出す。

「見目麗しいお嬢さん、君のヘテロクロミアにはチャームの魔法がかかっているかのように俺はメロメロさ!」

 なにやら頭のおかしなことを口走っているサングラスの男に視線を傾け、そういえばこいつは誰だろうという疑問に行き着いた。

「ところであなたは?」

「俺かい? フフフ……俺は」

「ハルト!」(ドイツ語で、止まれ)

 全身で格好いいと思うポーズをとろうとした男だったが、少女の一声にびくっとして直立姿勢になった。

 そのときライヒの頭の中では、ヴィエは恋人と二人で暮らしているということ、恋人はドイツ人だということ、眼前のサングラス男はドイツ訛りの日本語を話しているということが、みるみるうちに重なっていったのだ。

「……あなたいくつ?」

「俺は今年で二十六歳さっ」

「エス・イスト・エケルハフト」(ドイツ語で、いやらしい)

「えっ」

「エケルハフト、ヴィルクリヒ・エケルハフト!」(ドイツ語で、いやらしい、いやらしいったらありゃしない)

 いきなり憤然とした様子で怒鳴られ、サングラスの男はたじろいだ。

「ど、どうしたんだいライヒちゃん! 突然そんなことを言われても、男はいやらしい生き物なんだよと答えるほかないというか……」

「あなたヴィエの恋人よね? 年齢差に罪悪感をおぼえないの!?」

「そ、それはないこともないけど……だが俺はヴィエちゃんを愛している! 愛があれば歳の差なんて気にすることないのさっ」

「限度ってものがあるでしょ! お互いが二十歳を過ぎていればいくら歳が離れていても構わないけれど、二十代の男が十代前半の少女と恋仲になるなんて、恥ずかしいと思わないの? このロリコン!」

「ち、違う、俺を好きになってくれた女の子が、俺が好きになった女の子が、当時たまたま十一歳だっただけなんだっ」

「言い訳になってないわよ!」

「はいはーい、ライヒもサイモンくんも、そこまで」

 不毛な言い争いに終止符を打ったのは、御納戸学園初等部の制服を着たヴィエだった。

 黒のランドセルを背負ったその姿は歳相応の幼さが際立ち、恋人との年齢差がより犯罪的な香りを助長させる。

「ヴィエ……」

「わたしとサイモンくんは相思相愛なんだから問題ないでしょー?」

「問題あるわよ!」

「くすくす、ライヒもリアさんみたいに潔癖なんだね。そんなに気に入らないならまた勝負する? 戦ってひと暴れすれば気も晴れるだろうし」

「私は戦闘狂じゃないわよ。でも、まあ、勝負というのは悪くないわね……ふむ、勝負、勝負、と……」

 ライヒは思案の仕草で玄関の辺りを行ったり来たりしていたが、やがて妙案が浮かんだらしくピタリと足を止めてヴィエのほうを向いた。

「いいわ、勝負しましょう。私たちは魔道士だから魔術で勝負を。但し、人にとってプラスになるやり方で」

「へえ……してその内容は?」

「超常的脅威に遭遇、または体験をして発狂した人間を数名ほど用意するわ。どれも通常では治療不可能とされている患者ばかりを」

「成程。それをわたしたちが魔術で治療を試みて、その成否を競うわけね」

「そういうこと。もちろん公平を期すよう、独立魔術機関の魔道士たちに判定役をかってもらうから」

「うふふ、精神異常者を相手にあれこれ魔術を試せるなんて面白そう」

「ちょっとヴィエ、不謹慎な言い方しないで」

「あら、発狂患者を勝負の媒体にするのは不謹慎じゃないの?」

「普通なら治る見込みのない哀れな犠牲者達よ? 私たちの魔術で正気に戻ることができるなら、感謝されこそすれ非難されることはないでしょ」

 澄ました顔で悠然と言葉を交わすライヒとヴィエ。

 二人の会話内容そのものがすでに不謹慎なのだが、それを指摘する勇気などサイモンにはなかった。

「それでどうなのヴィエ、受けるの、受けないの」

「オーケー、とりあえず異存はないわ。勝負の日取りは?」

「一週間後の午後三時で。場所は追って連絡するわ」

 こうして『星の智慧派』最年少の司祭とチェコ第五の魔道士による、尋常ならざる魔術治療対決が行われることが、今ここに決まったのである。



 深夜、ザルツブルクの自宅で眠りについたライヒは、<夢の国>のある都を訪れていた。

 その都市の名はセレファイス。

 オオス=ナルガイの谷にある、千の塔が建ち並ぶ壮麗なる光明の都。

<夢の国>のなかでも多くの旅人や行商人が集まる華麗で豊かな場所であり、ここでは時間がものを曇らせたり破壊したりする力をもっていないため、この都に存在するものすべてが磨耗も破損もしないのだ。

 いついかなるときも不断の新しさを保つセレファイスを訪れたライヒは、円柱通りを歩いて、ナス=ホルタースを崇拝するトルコ石の神殿に行き、蘭の花冠をいただく大神官と話を交わして、ある人物の現在の居場所を訊いた。そして大神官に礼を述べた後、ライヒは神殿をあとにして、都の東の城門を出て雛菊の原を横切り、海の断崖にむかってなだらかに登る庭園の樫の葉越しに見える、とがった破風に向かった。

 小さな番小屋のある大きな生垣と門の前に達し、鈴を鳴らすと、野良着姿のずんぐりした老人がびっこをひきながらあらわれた。ライヒの姿を認めた老人は、遥かなコーンウォールの古雅な訛りを精一杯使って話し、彼女をなかに通した。

 そしてライヒはイングランドの木々に限りなく近い木々に挟まれた木陰の道を進み、アン女王時代の様式でもって配置された庭園にある柱廊に登り、両側を石の猫がかためる玄関で頬髯をたくわえる執事に迎えられ、丁重に書斎へと通されたのである。

 そこには、ロンドンの仕立て屋が好んだ類の部屋着を身につけた三十代から五十代にも見える男が、ささやかな海辺の村を見晴るかす窓辺の椅子に坐っていた。

「ご無沙汰しております、クラネス王」

 ライヒがスカートの裾をつまんでうやうやしく会釈すると、男は愁いに沈んだ面持ちを来客用の微笑に切り替え、いそいそと立ち上がって少女を迎えた。

 彼こそは、かのランドルフ・カーターに匹敵する熟練した「夢見る人」にして、セレファイスとオオス=ナルガイ近隣の領域を支配する王、クラネスであった。

「覚醒世界の時間で半年ぶりかな。ライヒ、元気にしているかい?」

「はい。ここ数ヶ月の間に少し憂いを感じることも増えましたが、それもクラネス王の幽愁にくらべれば微々たるもの」

「ふふ、ぼくのことを気にかける必要はないさ。それで何の用かね? 久しぶりにたずねてきた小さな友人の頼みとあれば、大抵のことは聞いてあげるつもりだけど」

「ご配慮感謝します!」

 敬愛の仕草で顔を綻ばせたライヒは、ややまじめな表情で用件を切り出した。

「フォマルハウトやアルデバランの伴星に存在する<夢の国>のことを聞かせていただきたいんです」

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