第二章 リース・フレキシブルが読者の知る言語を教わること


「じゃあリース、案内するから」

「え、あ……はいっ」

 円形の空間をそよぐ風にさわさわとなびく太めの三つ編みが視界で明瞭となり、つり目ではあるが、どこか怠惰な紺碧の瞳を知覚し、リースはあわててこくこくと返事した。エルフランドの黄昏の光のなかをケンタウロスが駆け、ミス・カビッジとロマンスの国のドラゴンが戯れ、遙かな自然の郷愁を牧神が唄い踊る、そんな夢のきらめきに酔いしれるがあまり、眼前の少女のことをいっときのあいだ、すっかり忘却してしまっていたのだ。

 ゲボ子がロジャー・ベーコンの奇妙奇天烈な景観を誇示する住処の入口に立ち、ドアを開いて中に足を踏み入れる。リース・フレキシブルは、少し緊張した面持ちで、興奮を抑えた声音でしっかりとした言葉を、故郷スペインの言語で紡いだ。

「ともに来たれ、現代の文明社会に倦怠を感じている私の心よ。ともに来たれ。夢を失った世界の何もかもにうんざりしている私の体よ。ここに数々の新たな世界があるのだから」

 そうして、リース・フレキシブルは、かつて人間の野原の涯に、幾千の日々が終わる黄昏の薄明りでできたエルフランドの境壁を越えるかのごとく、現実と幻想を右手と左手に掴んでいるともいえる驚異博士の家の門戸を通り抜けたのである。

 ロジャー邸の中に入ったリースは、薄ぼんやりとした明かりに照らされて三色菫の色合いを濃くする瞳を上下左右させ、ほっとした息を吐いた。胡桃色を基調とした邸内は近未来的な外観に反して、まさに魔法使いの住処にふさわしい古色を帯びた内装と調度品に彩られたゴシック調の様式だったのだ。玄関ホールの中央にある螺旋階段から各階の部屋へ通じているらしい。

 ゲボ子に先導され、リースはクルミに似た薄茶色の石造りの螺旋階段をのぼりながら邸内を案内されたが、部屋数はそれほど多くはなかった。長年使われた形跡のないジョージ王朝様式風の寝室に立ち入ったとき、そこがこれからリースの寝起きすることになる個室だと説明された。人の住居に対する愛情というのは、その者の想いによって悠久の空を流れる白い雲のように移り変わる。いまは森閑とした無機質なこの部屋も、そのうちにやわらかな魅力をくすぶる香りをたたえた空間になればいいなと、そう思うのだった。

「それで、この隣があたしの部屋。あとはロジャーのとこだけだから、なにかききたいことがあるならイマノウチ」

 弓形の窓を背にしたゲボ子がのんびりとコバルトブルーのまなこをリースに向けてくる。人と目を合わせるのが苦手なリースはそそくさと視線をそらすが、なんとしたことか、ゲボ子は一歩踏み出して視線を重ねるではないか。どぎまぎして眼をさまよわせるリース。そろそろと確実に追うゲボ子。するうち観念したように、リース・フレキシブルはおずおずと目を合わせた。

「あの……気にさわったらごめんなさい、ゲボ子さんというのは本名ですか?」

「んーん、それはあだ名。本名はヴィータ・エヌオー。年齢は十七歳、国籍はアメリカ」

「そ、そうですか。私は十五歳、国籍はスペインです。……えっと、じゃあ、ヴィータさん、と呼んだほうがいいんでしょうか?」

「どっちでもー。リースの好きに呼べばいい」

「それでは――ゲボ子さんのままで」

 一考した末、あだ名で呼ぶことにした。知り合ったばかりなのに本名で呼ぶのは憚られたのであり、変わったあだ名で通しているのには深い事情があると察したからだ。往々にして人は深読みすることが少なくなく、リースもその一人だった。たとえば、名作と称される作品では、一見して意味のないようなシーンでもなにがしかの暗示がこめられていると勝手に思い込んでしまうようなものである。この場合も、ゲボ子は単に子供の頃からそう呼ばれているだけにすぎないわけだが、そんなことをリースは知る由もないのだから。

 ひとつ明かしておくと、幼少時から魔法や幻想のロマンスに夢中になっていたリースは、そういった書物に耽るあまり、友達らしい友達はできなかった。それゆえ他人と話すときは相手の顔色を窺うようになったのはごく自然なことなのだ。趣味嗜好以外のことで自分を主張することは殆どなく、おとなしく人見知りする性格はそのためである。

 何故ここでこのようなことをお話しするかというと、リース・フレキシブルという少女を理解する一端になるからであり、また、これからの彼女をみていっていただくためにも、これを伏せたままにしておくのはよろしくないと思い至り、僭越ながら伝えることとした次第にほかならない。

「その、ゲボ子さんはどうしてロジャーさんと生活をともにしているんですか?」

「数年前に家族が事故で死んじゃって、路頭に迷ったときロジャーと出会った。それから、ボディガードと雑用を担う条件を受けて一緒に暮らしてる」

 リースはたちまち後悔した。たいしたことない事には深読みして気を遣り、逆の場合はそれと気づかず配慮をなくしてしまうのは彼女のような人間にはよくあることだ。そしてゲボ子は、そんなリースの様子を見やって気にする必要なしと述べた。だからリースは心の中で安心を得ると同時に――そこから生じるすまない気持ちになったから――反対に自分のことを話した。過去と経緯と、ただひとつの希望を胸にここへやってきたことを。

「じゃあ、あたしたちはおなじだな。あらためて、これからよろしくー」

 両手でぎゅっと手を握られたとき、リースは胸がどくんとなるのを感じた。先刻の握手とは違う。青春という黄金の光が、繋がった手肌を通して全身にいきわたり、少女の心にまばゆい朝焼けが差し込んだのだ。

「こちらこそ……よろしくおねがいします!」

 はにかみながら笑顔を見せるリースの頬が、ほんのりと赤みを含んだ淡い紅色に染まった。まるで花の裏側がうっすらと赤くなるイチリンソウのように。

「そういえばロジャーさんのボディガードを担っているって、ゲボ子さんも魔法を使えるんですか?」

「んーん。あたしは魔法を使えないし、剣術が得意だから剣士かな。ロジャーはすごい魔法使いだけど戦闘系じゃないし、もしものときはあたしが剣を振るうってこと」

「そうなんですか。するといまは剣をどこかに置いてあるんですね」

 ゲボ子はふるふると首を左右に振って、ハーフパンツのポケットから二つのアクセサリーを取り出した。それは手のひらにおさまる二種の剣で、一方は白、もう一方は黒に彩色されている。リースがきょとんとする暇もあればこそ、ゲボ子がすっと念じると、瞬く間に彼女の両手に真剣が現出した。

「装飾品が……本物の剣に」

「ロジャーの魔法だよ。強く念じればこんなふうに元通りの大きさになるんだ。この白い剣は普通の剣で、こっちの黒いほうは特別製」

「特別?」

「あたしもよく知らないけど、ロジャーが知り合いの魔女からもらった地球外の落雷に魔術を施してつくったものらしい。この世界のほとんどの魔的なものに対抗できる魔法の剣なんだって」

 そうしてゲボ子がもう一度念じると、剣はアクセサリーに戻ってポケットにしまわれた。

 自室にトランクを置いたあと、リースは邸内の中央を占めるロジャー・ベーコンの部屋に案内された。ゲボ子はすぐに退出し、リースひとりで部屋の中に入った。まず薄闇と角灯の淡い明かりが視界を覆った。周囲に眼をやると、広い室内はそれぞれのスペースに区切られて様々な調度品で溢れかえっており、古き歳月を閲した空気を充満させている。ざっと見回した限りでは、ルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』が真ん中に配置され、その他たくさんの絵画が壁に飾られ床にも並べ立てられかけた画廊、魔術に使用するものと思しき道具が積まれた実験場、稀覯書からそうでないものまで多種多様なジャンルの書物で埋め尽くされた書棚、古風な趣の寝台具と生活用品一式、等々……あらゆる用途がこの部屋におさまっていた。

 入口からは見えない奥のスペースにロジャーはいた。そこは研究室的な一角で、一転して現代要素が強く、机の上に置かれた最新型のノートパソコンや区切りの縁に鎮座するプラズマテレビには少々落胆したが、どう考えても電波が届かないであろう異空間に存在する家の中で普通に機能しているということは魔法でしかありえなく、そう思うとリースは満足を感じて納得するのだった。

「ようこそ、私の部屋へ。ところでもう夕食はすませましたか? まだならご馳走してあげますが」

 そう言われてはじめて、リースは早めの昼食以降なにも口にしていないことに気がついた。

「まだです。ぜひお言葉に甘えさせてください」

「素直でよろしい。ではすぐに用意してあげましょう」

 老人がひょこひょこと食卓へ移動すると、そのそばには、丸みを帯びた大きな体と頑丈なホースのような突起物を持つ、象のように見える機械が膝で切れた二本足で立っていた。ロジャーのしわがれた指先がどこかのスイッチを押して何かのインプットを始めると、機械からなめらかな駆動音が発生し、フリル付きのカフスと角のある頭と牙が誇示するホースの先端部分が象の鼻のように食卓へ伸びた。驚くべきことに、先端がぱっくりと開いた途端、そこから完成された料理が次々と出てきたのだ。

 プラムソース添えの鵞鳥のロースト。ミルクをひたしたパンとスープ。ポテトサラダとキャベツ。アップルダンプリング。甘い葡萄酒。

「これは私が魔導と科学の力でつくりあげたセレベスの象。素材が判明している料理なら、エーテルを基にどんな食事でも生成することができます。さあ召し上がりなさい」

 眼を見開いて感嘆の吐息を漏らしたリースは、いただきますと口にすると、お腹がすいていたことも手伝って、むさぼるようにたいらげはじめた。一流のシェフが腕をふるったかのごとき美味に感動した。やがて食事が終わると、空になった皿とグラスをセレベスの象が鼻の先で吸い込んだ。テーブル上に何もなくなってから、ロジャーは窪んだ露草色の眼窩を対面の少女へ向けた。

「さて、あなたはどうして私の弟子になりたいのかな?」

 ここが正念場とばかり、まじめな顔になるリース。

「私は子供の頃からずっと魔法と幻想に焦がれてきました。その世界を傍に感じたい、直に触れてみたいんです」

 少女の思いを聞き、ふむとつぶやくロジャー。

「私の知り合いに物言う犬を連れた、アダムという名の青年魔法使いがいる。今から言うことは彼の自論です。――われわれのまわりには魔法がみちみちている。そのうちのひとつとして説明がつかず、誰ひとりこの秘密の真相を実際に知っている者はいない」

「私たちのまわりに魔法が?」

「そう、例えば、小さなドングリが大きな木に成長する。それは何故か? 始まりはいつか? どうやって始まったのか? ドングリが成長する原理は知っていても、それがどうしてなのかは誰も知らない。馬から子馬が生まれる。牛からミルクが出て、そのミルクからクリームやバターやチーズができて、人間がそれを食べたり飲んだりして大きくなる。鶏が卵を生み、その卵からオムレツやケーキやヌードルが作れる。蜜蜂が蜂蜜や蜂の巣を作る。蛹から蝶が誕生する。雲が雨を降らし、雷を発生させる。それらこそが種も仕掛けもない本物の魔法。自分たちの前にあるごく当たり前のあらゆるものが本当の魔法なのであると。――いかがです?」

「……納得はできます。でも、私は当たり前に眼にすることができない魔法の領域に入りたいんです」

「遙かな昔、あなたのいう魔法は当たり前に眼にすることができたといいます。それが現在では一般の世において夢と幻想の伝説となっている。なぜそうなったか。それは物質の世界が拡大して力を得たから。物質もまた、不思議な力を持っているからなのです。魔法の領域に身をおくということは、そちら側から外れることを意味するのですよ」

「それは……科学を奉ずる者としてのロジャーさんの意見ですか?」

 リースは不安げな顔になった。というのも、彼女は魔法とロマンスへの真摯な羨望を秘めてはいたが、形而上学というものを学んでいないため、ロジャーの言葉をよく理解できなかったのだ。難しい理屈をこねまわされて弟子になる望みを断られるのではないかと愚考したのである。だから、悲しい表情で魔法使いを見つめた。その目から涙がこぼれ落ちた。

 ロジャー・ベーコンは吐息をつき、これこそ魔法ではないか、と思った。そして暫しの沈黙のあとに言った。

「わかりました、あなたを弟子にしましょう。明日、朝食を終えたら私の部屋に来なさい」

 リースの涙は種も仕掛けもない魔術のように、かなしみからよろこびの雫へと変わった。

「ありがとうございます――師匠!」

 さっそく師匠と呼ばれ、偉大なドクトル・ミラヴィリスは苦笑した。

 リースは自室に戻るまえにゲボ子の部屋――鍵はかかっていない――を覗いた。眼についたのは布団にちゃぶ台、床こそフローリングだが現代日本風のまったりした内装。座布団に腰を下ろしてテレビゲームに熱中しているらしい金髪三つ編みの少女は、半開きのドアから覗いているリースに気がつくと、ほがらかに話しかけてきた。リースは魔法使いの弟子になった嬉しさを伝え、なごやかに会話を交わしてから自分の寝室に戻った。備え付けのバスルームで入浴をすませてベッドに横になった黒髪の少女に、弓形の窓に煌々ときらめく中秋最後の月明かりが薄いカーテン越しに幽けき光を投げかけた。

 翌朝、トランクに入れておいたパンとチーズを腹におさめると、小型冷蔵庫のミルクを飲んでパジャマから私服に着替える。隣の部屋でまだのんびり朝食を楽しんでいるゲボ子に挨拶をしてから、リースはうきうきとした気分でロジャーの部屋へ向かった。

「それではまず、日本語をおぼえてもらいましょう」

 師匠からいきなりそう言われたリースは困惑に首をかしげた。

「あなたもここに篭りっきりでまったく人里や町に出ないというわけにはいかない以上、日本語が話せないと不便でしかないですよ」

「それはそうですけど……」

 マスターするまでにどれだけかかるかわからない、そんな気持ちをあらわす弟子へ、ロジャー・ベーコンは心配無用とばかりに微笑を浮かべた。赤死病の仮面を連想させる慄然とした笑みにしか映らないのが難点だが。

「魔術を行使して教えますから、一週間もあれば普通に日常会話をこなせるようになります。それに、ゲボ子に日本語をおぼえさせたのも私です」

「ゲボ子さんも話せるんですか」

 それが決め手となった。リースは言った、「師匠、私に日本語をご教授ください」と。

 魔法使いは、普段の変な生きもの然とした動作とはかけ離れた、朗々とした声と堂々とした身ぶりで、日本語の文読みを少女に授けはじめた。薄暗いその部屋でおこなわれた授業については、とても大きな値打ちがある。しかしわたしはあえてそれを伝えることはしないでおく。なぜなら、ほとんどの読者は一般教養として日本語を身につけておられるだろうからだ。そういった理由により、魔法とロマンスの夢想を求める少女が学ぶ第一の素養を語るのは省かせてもらうことにする。

 ともかくも、ロジャー・ベーコンは驚異博士の異名にふさわしい尊厳の雰囲気をもって、講義をはじめ、聞き手のリース・フレキシブルは、魔術の効果により畏れと驚きを感じるほどに理解力を高められて、授業を受けた。ふたりのレクチャーが続くあいだ、邸内の一室では、ゲボ子がお茶請けの煎餅をかじりながらテレビ番組を眺めていた。

inserted by FC2 system