第7話「The Flying Dutchman」


 その日、夜の帳が下りた御納戸町の一角で深い霧がたちこめた。

 濃霧に混じって漂う芳香は遥かな海よりの潮騒。

 内陸にあるこの町に海は存在しない。

 だが、まぎれもなく潮の香りを含んだそれは海霧であり、他ならぬ御納戸川一帯に発生しているのだった。

 突如として川面に大きな影が映り、たちまち暗くなった空の下、霧のたちこめる水面に血のような赤い帆と黒いマストの中世風オランダ船が現れる。

 見る間に土手に近づくと、すさまじい音を立てて錨が投げられた。周囲の人間は夢うつつの状態でその光景を眺めていた。誰一人として正常な意識を保っているものはいない。

 物音一つ立てず帆をたたんだオランダ船から、ひとりの男が土手に下り立つ。全身をスペインの貴族のような闇色の衣裳に包んだ彼はオランダ人だった。血の気の失せた青白い顔に黒いひげを生やした不気味な容貌だが、よくよくみれば精悍な顔つきをした海の男と呼ぶに相応しい雰囲気を醸しだしている。

 程なくして新たにひとりの女が下り立ち、オランダ人の横に立った。ブロンドの髪を腰までたらした、十代半ばから後半の美しい少女だ。

 遠い海の彼方より嵐とともにやってきたふたりだった。



 住宅街の外れにひっそりと建つゴシック様式の洋館。

 主であるフヴィエズダ・ウビジュラことヴィエは、二階の個室でのんびりとテレヴィを見ていた。居間にある最先端の百インチ有機ELディスプレイではない、古風なアンティークタイプの画面に映るのは、故郷チェコの代表的な文化のひとつといえる人形劇である。あやつり人形の織り成す芸術を鑑賞していると、玄関でインターフォンの音が鳴った。

 暫くして、応対に出ていたサイモンが部屋に入ってきた。

「ヴィエちゃん、お客さんだよ。不気味な顔した男とめちゃくちゃキレイな女の子」

「誰だろ。名前は?」

「女の子のほうは名乗らなかった。男のほうは、えーと……ヴァン・デル・ヴェッケンって言ったかな」

 その名前を耳にした途端、ヴィエの表情が茫然としたものに変わる。

「……さまよえるオランダ人」

「オランダ人?」

「世界のあらゆる海に訊くがいい。七つの大海原ならばあの船を知っている。敬虔な人々みなの恐怖の的であるあの船を。人は彼を呼んで『さまよえるオランダ人』と言う。――サイモンくん、ドイツ人なんだからワーグナーの名作くらい知っておこうよ。こうしちゃいられない、本物ならすぐ出迎えないと」

 あたふたとしながら個室を後にする彼女は、普段の落ち着いた態度にそぐわないわくわくした様子で胸をときめかせていた。

 階下へ出たときには海の香りが鼻腔をくすぐり、ヴィエは強い確信を得た。

 そして、玄関に辿り着いたとき、その確信は事実となった。

「伝説のオランダ人ヴァン・デル・ヴェッケン船長と、誠ある救済の乙女ですね?」

「いかにも。あなたはウビジュラ家の者か?」

「はい。チェコはウビジュラの現当主フヴィエズダです」

 優雅にスカートの裾をつまんで恭しく会釈するヴィエ。社交辞令の仮面をかぶった態度にあらず、心からの敬意を払った仕草であった。

「ではアレフガルドの孫娘ということか。もうそれだけの期間が過ぎたのだな」

「お爺様をご存知なのですか?」

「かつてプラハを訪れた際に何度か世話になったことがある。当時アレフガルドは二十代前半の若者だったな。まだあなたの祖国がチェコスロヴァキア共和国として独立したあとにナチス・ドイツに占領されていた頃だったか」

 ヴィエの祖父はかなり歳を経てから妻を娶ったので、息子のロンダルキアが成人する頃には故人となった。ゆえにヴィエは祖父と会ったこともなければその人どなりも話程度にしか聞いたことがない。知っているのは代々のウビジュラ家当主同様に優秀な魔道士だったということだけだ。

「今日訪れたのは当時の礼をするためだ。私の船蔵に収めてある諸所方々から集めた宝の一部を進ぜよう」

 オランダ人の言葉に合わせるように、傍らの少女がトランクを開けた。

 ヴィエはトランクの中身を吟味して驚きと感嘆を隠せない。

「魔術と神秘に満ちたこれほどの珍品をわたしにくださるのですか? これは、若いときのお爺様に感謝するほかないようです。つきましてはおもてなしがしたいので、是非とも晩餐を召し上がっていってください」



 オランダ人と少女が食卓に着いて料理を待つあいだ、ヴィエは厨房でナイトゴーントが食材を調理する様子を眺めていた。

 そこへサイモンがやってきて、オランダ人のことを訊いてくる。

「ヴィエちゃん、彼はいったい何者なんだい?」

「さっきも言ったでしょ。さまよえるオランダ人――ハイネの散文集やワーグナーの歌劇の基となった幽霊船伝説の船長だよ」

 数百年の昔、あるオランダ人船長は自らの航海技術を誇るあまり、嵐の中で至難と思われる航海に挑戦した。愚かな血気にはやった彼は、「たとえこの世の終わりまでかかろうとも、やりとげてみせる」と神をののしり誓った。

 そして、その言葉どおり、彼は永遠に海上を彷徨する事になってしまう。

 神罰を受けたオランダ人船長は不老不死となり、陸に上がることを許されず、永劫に船上で七つの海をさまよう運命を背負うことになった。彼の船は如何なる災害や海難に遭おうとも決して沈むことはなく、彼自身も自殺すら出来ぬ完全な不死と相成る。

 彼にはただ一つ、救済の希望が用意されていた。彼は七年に一度だけ上陸することを許される。そのとき彼に永遠の愛を捧げる女性に出会えれば、救われるのだという。

 以降、彼は限りなく実のない微かな希望にすがり、永劫の彷徨を続けることになった。

「まあ神罰を受けてこの世をさまよい続ける人間の伝説からすると、永遠のユダヤ人アハスヴェロスみたいなものかな。わたしがさまよえるオランダ人に敬意を表するのは、あのふたりの関係が、わたしたちに近いものがあるからなの」

「俺とヴィエちゃんに?」

「そう。だってオランダ人の救済条件は言ってみれば他力本願なわけでしょ? 女性から愛されないといけないってことは、自力じゃどうすることもできない。自力で女の子の愛を得ることができないサイモンくんと同じ」

「同じって……」

「あれ、どうしたのサイモンくん、そんな落ち込む必要ないのに。――えーと、話を続けるけど、そうはいっても永遠の愛を捧げてくれる女性なんているはずがない。なぜなら有限の人間の命から永遠の愛が生まれるわけはないから。それを可能とするのは、ある意味において欠けた心の埋め合わせ、結合を求める奇矯な女性のみ。つまりそれがわたし」

 にっこりとほほえむヴィエ。

 言葉の意味はよく理解できなかったが、サイモンはなんとなく照れた。つまるところヴィエは、オランダ人と救済の少女が自分たちの別ケースなのだと言いたかったのだ。

「ところでヴィエちゃん、そのオランダ人は結局どうなったんだ?」

「ハイネは救済を否定した皮肉たっぷりな結びに、ワーグナーはそれらを一切取り除いた真なる救済の結末に、物語ではそれぞれそうなっているけど……」

 いまここを訪れている本物のふたりは、さてどうなのだろう。誠ある乙女が一緒ということを考えると絶望からは解放されているようだ。共に分け与えることができるなら、それはもはや苦しみではないのだから。

 もっとも恐れるものは絆が離れること。愛せないこと。

 ヴィエはそれをよく知っていた。



 食卓に並ぶ料理の数々。前菜にシュンカ・ス・クシェネム(西洋ワサビ添えハム)。スープはグラーショヴァー・ポレーフカ(グラーシュのスープ)。メインディッシュにヴェプショ・クネドロ・ゼロ(豚肉のローストにダンプリングとザワークラウトの付け合せ)。デザートはパラチンキ(チェコ風クレープ)、リーヴァンツェ(チェコ風ホットケーキ)など、代表的なチェコ料理ばかりである。

 穏やかな楽しさに包まれて晩餐が進むなか、ヴィエは先刻の疑問、ふたりのことについて質問してみた。

 すると少女が答えた。

「女の最高の美徳である永遠の誠、神聖な義務、私は自身の誠によってこのひとに救いを与えました。そして、それは成されたのです」

 彼女の言葉をオランダ人が継いだ。

「神罰から私を救うのは女だけにできること、死に至るまでの誠を私に尽くす女だけが。この女の気高き誠により私の苦しみは終わりを告げた。だが永遠からは解放されず、女は私の彷徨の伴侶となった。私たちはいま、神罰を与えたものとは別の神に見出され、ゆるやかに仕えているのだ」

 スタロプラメン・ダーク(プラハの黒ビール)を一口含みながら、ヴィエは眼をしばたたかせた。後半の答えは予想外である。

「その神とは?」

「フヴィエズダ、あなたにならこう言えばわかるかな? いまの私たちの拠点は、南緯四七度九分、西経一二六度四三分――と」

「あぁ〜」

 ヴィエは心底納得したように深く息を吐いた。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」

 それすなわち、

 ――ルルイエの館にて死せるクトゥルー夢見るままに待ちいたり

 なればこそ。

 そして、ただひとりわかっていない顔のサイモンを見やり、苦笑して眼を伏せた。

「そは永久に横たわる死者にあらねど。測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの」

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