青き空の下へ」


 地球最後の大陸ゾシーク。

 日輪は既にして原初の光輝を失い、あたかも血霞かかりたるように、ほの暗く色うつろう世界。

 空低く燃え尽きんとする陽のもとにひろがる陰鬱な日没の世界。

 すなわち太陽が幾多の歳月と幾万もの伝説の彼方に年老いて、今では灼熱した巨大な球となり光を失いつつある世界。

 地球が繁栄の極みにあった時代に伝承された、幾多の光輝充てる伝説も早や忘却の彼方に消え、小暗い老いらくの世紀を迎えんとする世界。

 ――そんな死にかけた地球における人類最後の大陸たるゾシーク。

 大陸西部にあるミロウアンの町に、ジラフという年老いた魔術師が居を構えていた。善良にして名高い魔術師である彼は、まだあどけない一人の少女とともに暮らしていた。

 背の中ほどまで伸びたさらさらした黄金色の髪と、澄んだ緑青色の瞳をしたその少女は、名前をアマランスといい、アニーの愛称で呼ばれている。とても穏やかで純朴な、優しい雰囲気が全身からあふれている少女だった。

 彼女は赤ん坊の頃に街角に捨てられていた孤児であり、たまたま通りかかったジラフが拾い受け、養うことにしたのだ。以来ふたりは生活をともにしてきた。アマランスという名前はジラフがつけたもので、遙かな悠久の太古の神話に語られた不凋花を意味するという。

 少女――アニーは、両親がいないことで寂しい思いをすることはまったくなかった。それだけ育て親である魔術師との生活が満ち足りたものであったのだ。ジラフは善き魔術師にして思慮深く慎ましく穏やかで、アニーは常にあたたかな愛情を感受してきた。その純粋培養ともいえる優しい日々と年月が、少女の穢れなき清涼さを育んだのである。



 アニーが十二歳になったとき、ジラフは彼女の両親のことを話に持ち出した。

「おまえももう物事の心構えができる歳だ。ゆえにおまえの両親がいまどこにいるかをわが魔術で判然とさせよう」

「そんな必要ありません。私はおじいさまと一緒にいます。それで幸せなんです」

「血の繋がりというものは決して軽んじてはならぬものなのだ」

 厳かに諭され、少女はうなずくほかなかった。かくて彼女は全身がおさまる魔法の鏡の前に立った。魔術師が呪文を唱える。求む相手の姿と場所を映すには、当人がそれを受け容れる心構えが必要なのだ。そして少女はそれが可能な年齢になっていた。

 やがて鏡面に大都市が映った。だが一見して様子がおかしいことに魔術師と少女は気づいた。カーニバルの最中らしき都市を行き交う人々はみなすべて、立像のごとく不自然な格好で静止していたのだ。そして鏡は、街路で踊っている姿勢で凝り固まった一組の男女を捉えた。それがアニーの両親であるのは間違いなかった。

 そこはゾシーク南部のヨウロス。つい数週間ほどまえに銀死病に襲われ、静かな滅びを迎えたばかりの地であり、大都市はその首都ファラードだった。

 南ゾシークの空にきらめく凶星アケルナルの星々より襲来したとされる恐るべき未知の疫病は、ほの暗いエーテルの流れによって一陣の風のごとくヨウロスの都市全土に広がり、幾万もの民人を瞬く間に蒼白な銀色の輝きで包み込んだ。この病に罹患した者は瞬時に身も凍るほどの悪寒に襲われ、全身が異常なまでに蒼白となり、かすかな光沢を帯びてわずか数分で硬直しきってしまう。その病原体と治療法を知る者は誰一人としていなかった。

 一夜にして二度と動かぬ彫像と化した人々の死都と成り果てたヨウロスの全都市だが、王座を継いで間もないヨウロスの年若き王フルブラの姿だけはどこにもなかったという。ヨウロスの南東に浮かぶ、拷問島の異名で知られるウカストログ島が、突如発生した銀死病に覆われて永遠の静寂に包まれたのはそれから何日も経った後のことである。

 とにもかくにも、ジラフとアニーは、ただ、小さく長い息を吐くのみだった。



 一年後のある日、老魔術師は黒檀の長椅子に腰を深めたまま穏やかに言った。

「わしは今日死ぬ」

 少女はついに来るべき時がきたと眼を伏せた。

 ジラフはササイドンと魂の契約を交わしていた。ササイドンとは、ゾシークの地の下に存在するといわれる冥府七界を総べる地獄の君主にして暗黒の魔神の王。数多くの魔術師や妖術師から崇拝され、かつて魔術師の中でも彼の者より偉大な術者はないとまで語り継がれた悪名高き魔術師ナミラハは、悪魔の帝王ササイドンの厚き庇護を受けていたという。

 ジラフが高名な魔術師になったのは、ササイドンと契約して秘められた魔導の知識を授かったからなのだ。彼は多くの者を救える善き魔術師となりたかったが、それだけの資質はなかった。ゆえにササイドンと契約を結んだ。善作を成すがため、古き悪徳の力を頼ったのだ。その代価こそ、さだめられた時期に到来する魂の譲与なのである。

 そしてジラフが続けて口にした内容に、アニーは目を丸くして驚きの表情を浮かべた。死期と同時に、一度しか使えない大魔術を行い、彼女を若かりし時代の地球へと時間遡行させるというのだ。それはジラフがこの十数年をともにした少女に送る最後の心遣いだった。朽ちかけた赤暗い世界ではなく、遙かな時を遡った青い世界で生きさせてやりたかったのだ。

 アニーはかつてジラフの魔法の鏡で、一度だけ悠久の時の彼方を見せてもらったことがある。そこには信じられない光景が映っていた。まばゆく広がる青い空、見たこともない建造物の数々、変わった衣服を身につけた人々の姿。それらこそ、遙かな時の流れのうちに忘却の彼方へ消え去った、失われし『科学』が存在する若き地球の世であった。その澄み渡る青空が、少女の心に瑞々しい願望をそよがせたことを、老魔術師は知っていた。

 夜が来て、少女は魔方陣の中央に立った。彼女はジラフが作って用意した衣服に着替えていた。かつて魔法の鏡に映った若き世界の人々が身につけていた類のものである。それからジラフはアニーに魔法をかけた。彼女の衣服の胸元にさげられた淡い緑柱石色の飾り――悠久の彼方の時代にてネクタイと呼ばれた装飾物に。

 襟元に刻まれた「I」という文字には、時間遡行先で一般的に認知されている言語能力を、そして、その下に連なる「0」と「1」という数字には、人の悪意に反応して明滅する効果を。もし誰かが悪意を持って彼女を騙そうとしたり、貶めようとしたら、数字が明滅して注意と警告を伝える魔法。それは、純粋なアニーにとってはときに哀しみをもたらすかもしれないが、いつの世界も、人間も、彼女が望んでいるほど優しくはないゆえに。

「最後に、おまえの歌がききたい」

 老魔術師の静謐な優しい言葉に、少女は万感の思いを込めてうなずいた。彼女は歌をうたうのが好きで、その歌声はあまねく生物の心に染み透る清廉な響きを紡ぐのであった。

 アニーの歌が静かな夜の部屋に流れはじめる。自分を今まで育ててくれた人への、苦楽をともにしてきた、あたたかさを与えてくれた大切な人への、感謝の祈りが、旋律にのってジラフの心に潤っていく。少女のほほえみと、頬を伝う透明な涙。老魔術師の貌に充足を得た満足げな微笑が浮かび、ゆっくりとその双眸が閉じられた。

 魔方陣が発光し、室内が純白の閃光に覆われ、白皙の粒子に溶けていく。光がおさまったあと、ササイドンのもとへ旅立った魂の抜け殻のみが部屋に残されていた。



 意識がはっきりしたとき、アニーは見知らぬ場所に立っていた。見まわすと、まばゆい陽光に照らされた異質な建物の数々と、雑多な人々の交差とざわめき。

 驚きにひたる間もなく、空を見上げた緑青の瞳は、たちまち大きく見開かれた。

 くるめくほどに一片のくもりもない青空が一面に広がっていた。

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