「もし美坂栞がクトゥルー神話スキーだったら」


『美坂栞による暗黒神話体系的関連の考察記録』

 これは、私、美坂栞が、現在地球上で一般的に知られている神話や歴史が、無限に広がる海の只中、無知という名の平穏な島に住んでいて遙かな航海に乗り出すべくいわれもない我々人間の平安を保つためのものにすぎない、それらの裏側に存在する、慄然たる宇宙的恐怖の光差し込まぬ深淵の影響に、私と私を含む一部の人物について照らし合わせて考察してみた記録である。

 ……なんて書くと、らしい感じがして、ちょっと格好いいですよね?
 それではさっそく考察に移ってみたいと思います。



【相沢祐一】

 私のすてきな恋人。少しいじわるなところもあるけれど、誰よりも大切な人。
 お姉ちゃんとどっちが大切と聞かれると困りますが……恋愛と家族愛は別ということで。
 脱線しかけたので本題に。
 祐一さんは、幼い頃に住んでいたというこの町へ、七年ぶりに帰ってきました。しかも、いとこの家に厄介になることに。もうこれだけで物語の主人公である資格は充分。久しぶりに故郷へ帰ってきた主人公がそこで驚愕の真実と怪事件に遭遇するのは暗黒神話体系におけるストーリィの定番パターンですから。とくにダーレス作品においては。
 いとこの家で暮らし始めてから、忘れていた昔の夢をたびたびに見るそうです。これもまたお決まりのパターン。悪夢じゃないのは破滅ラスト回避フラグともとれますね。
 彼は七年前の記憶を一部失っているという。重要。イスの偉大なる種族に精神交換を受けていたのかもしれない。


【水瀬秋子】

 祐一さんの居住先の家主にして、いとこである名雪さんの母親。優しくて聡明。
 旦那さん――名雪さんのお父さんは基本的に不在。どうやら何年も家を空けるような仕事についているらしい。
 そうなるとマグロ漁なんかの長期滞在業が浮かんでくる。もしかすると海外の交易、それもマーシュ海運で働いているのかもしれない。水瀬という名字は思いっきり水に関する名前だ。もし水瀬家に悍ましい「深きものども」の血が流れているのなら、高校生の娘を持つ母親とは思えないほどの若さにも納得してしまう。しかし特有のインスマス面ではない。
 そういえば秋子さんは名状しがたい味のジャムを作っている。あのジャムの原材料が「黄金の蜂蜜酒」だったとしたら……そして秋子さんの仕事先がセラエノなら、殆ど歳をとっていないことになるわけで、あの容姿も頷ける。こっちのほうが信憑性は高そうだ。


【水瀬名雪】

 秋子さんの一人娘で、祐一さんのいとこにして幼馴染みの少女。
 けろぴーという名前の大きなカエルのぬいぐるみ(抱き枕?)を持っているようです。やはりインスマス関連のほうが強いのでしょうか……と思いましたが、彼女は大の猫好きとのこと。さらには異常に朝が弱くて深い睡眠にまどろんでいるとか。
 これらのことを考えると「夢見る人」なのかもしれない。もし名雪さんが熟練した「夢見る人」なら、<夢の国>で猫と会話を楽しめるでしょうから、あながち的外れではないかも。そこまで熟練していなくても、ウルタールの町は猫をこよなく愛する人にとっては天国ともいえる場所。長く留まっているために目覚めが遅いと考えれば合点がいきます。<夢の国>でなら猫アレルギーも発生しないでしょうし。
 彼女がよく眠るようになったのは七年前みたいですから、そのときに浅い眠りの中で焔の洞窟へ続く七十段の階段を発見したのだと推測できますね。


【美坂栞】

 私のことです。少し前まで一時期のあいだ不治の病にかかっていました。
 たくさんの薬を服用し続けてもどうにもならない病気――これだけで宇宙的恐怖作品には事欠かない題材といえるでしょう。平静とこんなことを書けるのも、奇跡という事象によって完治することができた現在の私あってこそなんですけど。
 とりあえずバニラのアイスが大好きです。冬でもお構いなしです。……絶えず強い冷房をきかせた家の中で住む少女。実は十数年も前から変わらぬ容姿のまま生きながらえていて、常に身体を冷気にさらしておく必要があるため外ではアイスを……って、さすがに無理がありますねこれは。それにしても、ムニョス博士やシャリエール医師は多大な代償と共に生きながらえて非業の最期を遂げたのに、ウィリアム・ロデリック氏は片目を失っただけですんだのですから存命の手段は様々です。
 私は絵を描くのが好きなんですが、どうも異次元の色彩にしか見えない出来みたいで凹みます。だからといってピックマンの絵のような凄味は皆無かと。「家の中の絵」の状況を真似て祐一さんを驚かせるくらいしかできません。


【美坂香里】

 私の大切なお姉ちゃん。美人で頭も良くて、自慢の姉です。
 でも私と祐一さんのことを冷やかすのはやめてほしい……こうなったら逆に北川さんとの関係を応援して――なんて心情を吐露していてもしかたないので考察に。
 私が不治の病にかかっていた一時期のあいだ、お姉ちゃんにとってとても心苦しい状況が続きました。お姉ちゃんの私に対する態度は人が変わったかのようで、もしかするとジョゼフ・カーウィンやエフレイム・ウェイト、リチャード・ビリントンに憑依された哀れな犠牲者のごとくだったのかもしれない。
 こんなことを書けるのも、ふたりの溝が埋まって仲の良い姉妹に戻った現在あってこそなのは言うまでもないですね。


【天野美汐】

 最近知り合って友達になった少女。クールな雰囲気ですけど心根は優しいです。
 過去に何か辛いことがあったみたいです。こういうタイプは、暗黒神話体系作品においては主人公や語り手にとって貴重な情報提供者として登場します。たいていの場合は曖昧なほのめかしで警告するばかりですが、彼女の場合はどうなんでしょう。
 美汐さんはロード・ダンセイニ作品の愛好家らしく、私とはラヴクラフト対ダンセイニの問題をときどき議論している。もちろん「アーカムの蒐集家」のように有意義に。ただ、ダンセイニが小説において、絶望に堪えてハッピーエンドの希望を持ち出す勇気がある点に関しては私も評価しています。やっぱり物語は幸せな結末に限るじゃないですか。


【月宮あゆ】

 祐一さんの幼馴染みの少女で、奇跡で私を救ってくれたひと。七年前に事故にあって意識不明のまま病院で眠っていたようで、つい先日回復しました。今では私の親友です。
 七年間、夢を見ていたということで、名雪さんよりも「夢見る人」っぽいですね。
 あゆさんはタイヤキが大好きです。お皿に乗せたタイヤキの目の部分を箸でつついたら、ピクピクッと動いてぎょっとする、佐野史郎主演のドラマ「インスマスを覆う影」のワンシーンを再現したら面白そうです。八房龍之介が漫画で真似をしたんですから、私が実践してみてもいいですよね。……雪合戦の雪玉に石を入れる発言なみに冗談です。
 あゆさんの口癖は、うぐぅ。ふんぐるい、むぐるうなふ……の詠唱に聴こえなくもない。タイヤキが好物といい、実はダゴン秘密教団の信者という可能性も考えられますが、奇跡の件を考慮するとそれはないと結論。
 奇跡。あゆさんが起こした奇跡は、宇宙的な善を体現する全能の存在、<旧神>がもたらしたものなのかもしれない。七年の歳月により真摯に凝縮された彼女の精神は「潜伏するもの」のフォ=ラン博士のように星の世界を越え、オリオン座のベテルギウス――グリュ=ヴォの<旧神>のもとに届き、願いが聞き届けられたのだ。
 ダーレス神話は認めない? そんなこと言う人、嫌いです。



 以上で考察は終わりです。
 ……もしかすると私は多くを書きすぎたのではないだろうか。
 ドアが音をたてている。何かつるつるした巨大なものが体をぶつけているかのような音を。ドアを押し破ったところで私を見つけられはしない。いや、そんな! あの手は何だ! 窓に! 窓に!





「……どうですか、祐一さん」

「いや、どうと言われてもだな……」

 手記を読み終えた祐一が返答に窮して言葉を詰まらせる。このまえ栞が貸してくれたラヴクラフト全集は、一冊目の最初の十ページほどで読み進めるのを断念した。あんな文字がびっしりで挿絵が一枚もなくて文面装飾の強烈な、ひとつの文章の中にいったいいくつ形容詞が入ってるんだと首をかしげてしまう小説など、普段の読み物が漫画という彼にはとても読破できる自信はなかった。

 病気が快方に向かった栞が病院で退屈しないようにと香里が持っていった小説の中に、いわゆるクトゥルー神話ものが混じっていたらしい。彼女としてもまさか妹がそれを選ぶとは予想外だったろう。

「それにしても、クトゥルー神話の話って基本的にバッドエンドが多いんだろ? よく栞がそんなものを読む気になったな」

 改めて心に思っていたことを口に出す祐一。

 すると栞は、少し考えるように人差し指を口もとに添えた。

「それはですね、祐一さんのおかげですよ」

「俺の?」

「はい。祐一さんがいてくれたから、いまの私があるんです。すべては祐一さんがいてくれるから、なんです」

「なんか、無理矢理きれいにまとめようとしてないか」

「だって――物語の中だけじゃなくて、現実でも幸せな結末が一番じゃないですか。そうは思いませんか?」

 やさしくそよぐ風に吹かれ、栞はさわやに目を閉じた。

「発言が矛盾してないか?」

「矛盾するからこそ混沌って言うんですよ」

 くすりとほほえむ栞。

 今度は祐一も返答に困ることはなかった。

 (了)

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