第3話「飢えたる時の狩人」前編


 原稿の校閲を終えてザルツブルクの自宅に帰ってきたライヒは、居間のソファに横になってくつろぎモードに入った。

 それからシュヴェイクのことをふと考える。この家に住まわせることにしたわけだが、英霊とはいえ異性と一つ屋根の下という状況には違いない。自分はまだ十歳の子供に過ぎないにせよ、世の中にはロリコンという輩も多いと聞く。

 そこで、ちょうど居間に入ってきたシュヴェイクにひとつ問いただしてみることにした。

「シュヴェイク、私のことをどう思ってるか答えなさい」

「申しあげます、司祭殿、司祭殿のことは厄介な女の子だと思っているのであります。ある異世界へ飛ばされたサイトという少年は、そこで貴族の魔法使いルイズという女の子の使い魔にされ、犬扱いされたのであります。とかく女というものは後が怖いのであります。わたくしは女の本性をよく知っているのであります」

 ストレートに生々しい返事をされ、ライヒは一瞬眼を丸くした。基本的にどんなことでもおおまじめに語る彼である、少なくとも貞操の危険性はなさそうだと改めて確信を取れた。

 そんなシュヴェイクであるが女性経験が無いなどということはない。小説ではルカーシ中尉の愛人にベッドに誘われて一夜を共にしたこともあるのだから。

「わかった。あなたがこれからも私の命令に忠実であることを理解したわ」

「司祭殿、犬で思い出しましたがわたくしは犬を取り扱う商売をやっていたのであります。見たところこの家にはペットの一匹もおりません。もし司祭殿がご入用であれば、どんな犬でも用意するのであります」

「いらないわ、そんなもの。余計な気を回さなくて結構」

 あっさりと言い捨てるライヒ。彼女は動物が苦手であり、いわゆるペット嫌いの範疇に入る。ゆえにペットを飼っている人間の気持ちを理解する気はなく、過剰に可愛がる様などはとても冷ややかに見るのだった。

 もしシュヴェイクが動物好きであったなら送還してしまっていたであろうが、ライヒは、彼の、生き物を扱う商売についてよく心得ていたのでそうはならなかった。

 シュヴェイクが一番好きな生き物は犬なのだが、その理由というのが、犬を売るコツを会得している者にとってはとてもいい金になるから、といったものだ。しかも野良犬や雑種を純血種と偽装して売りさばくことなどお手の物ときている。それは当時の戦時下においてさほど珍しくもない行為なので、彼の生きた国家と時代、状況下を考えると、そう非難できることではない。

 またシュヴェイクが動物をしつけるときの態度は冷徹そのものであり、その行為などはペット愛好家が見たら怒りのあまり卒倒するのではないかと思えるほどだという。しかし躾を終える頃には主人とペットとしての友愛関係に落ち着いており、いわば飴と鞭の使い方を弁えていて、その辺をライヒは悪くないと思っていたりするのだ。

 そのとき玄関のチャイムが鳴り、シュヴェイクが応対に出て行った。

 程なくして居間のドアからひょっこり顔を出すと、

「申しあげます、司祭殿、本部からの使いの者が来て、司祭殿にすぐヘルマイヤー司祭殿のところへくるように、と言っているのであります。伝令が来たのであります」

 と報告し、それから内緒事のように次の言葉をつけ加えるのであった。

「あの猿畜生のことではないか、と思うのであります」

 ライヒはたちまち胸がむかつく思いに満たされ、シュヴェイクをにらみつけながら部屋を後にした。



『星の智慧派』司祭の一人、ヘルマイヤー・ストラトス。

 禿げあがった頭に、白いふさふさの鼻ひげと顎ひげ、そしてひと目で性根が腐りきっているとわかる顔つきをしたこの老人は、現在の『星の智慧派』メンバー最古参の一人であり、卓越した魔導科学の実力を持った男である。

 彼は本部に住み込んでおり、今日その自室を訪れたライヒの前には、眉間のしわを深くゆがめたヘルマイヤーが難しい顔で長椅子に腰を下ろしていた。

「ライヒ嬢、君は隆志君の実行した件に絡んでいたフヴィエズダ・ウビジュラに強い関心を持ったそうだの。星の智慧の大いなる計画を邪魔した者に眼を移すのは結構なことじゃ。うむ、とても結構じゃ。そんな君ならわかるじゃろうが、従卒の過ちで大事な使い魔を殺害してしまうのは結構なことではないのう。いくら君が年端もいかぬ子供とはいえ、自分の部下の行動ひとつ戒められんなどは、ここでは通用せんのじゃよ。君の従卒に誤って殺されたわしの使い魔は、本部の皆が知ってのとおり高性能での、新たに作るだけでたくさんの触媒を消費するのじゃ」

 ねちねちとした小言を聞きながら、「この因業じじい、早くお迎えが来ないかしら」と、ライヒは無表情に考えていた。

 ヘルマイヤーはしきりに長い顎ひげをさすりつつ、しわがれた口もとをにんまりとさせた。

「だがまあ、君も君なりに反省はしているようじゃし、わしも物分りの良い老人だから、やたら無闇に言及するような真似はせんでおく。話は変わるが、このまえ長距離転移装置を完成させての、行った事がある場所になら地球上のどこへでも一瞬で転移できるのだが、長期間使用のデータを取りたいのじゃ。そこで君がフヴィエズダ某に挨拶してきたことを聞き及んでの、君のためにその転移装置を提供しようと思いついたのだ。わざわざ航空便で日本まで行くのは面倒じゃろう? 君はフヴィエズダ某のためにこれから何度もオーストリアと日本を行ったり来たりすることになるだろうから、御納戸町に仮の住居でも借りて、ザルツブルクの自宅とを行き来できるようにすればよい。なに、礼には及ばんよ」

 こうして話は終わり、部屋を出たライヒはやっと解放されたとばかりに息を吐き、続いて溜息も吐いたのである。



 その夜ライヒは自宅に戻ると、濃いブラックのコーヒーを一杯飲んで思案を始めた。

 今後ヴィエと関わり、また一戦を交えることになるのは確かだ。初戦は向こうに敗北を喫させたが、十八番たるこちらの手の内も見せた。だからといって「ダイラス・リーンの災厄」を破られることはないだろうが、対処される可能性は高いと思われる。

 ヴィエにはナイトゴーントが使い魔として存在している以上、次はそれを使役してくるに違いない。こちらも類するものを用意しておく必要性があり、その役割は英霊に担ってもらうつもりだったが、召喚されたのがあのシュヴェイクであったため当てが外れたのだ。

 ライヒは先刻シュヴェイクが言っていた事を思い出し、駄目もとで訊いてみた。

「ねえシュヴェイク、あなたさっきどんな犬でも用意できるって口にしていたけど、人外の戦闘が可能な犬なんて無理よね?」

 さして期待せずに言ったのだが、シュヴェイクは少し考えるような仕草をし、返事した。

「一つ心当たりがあるのであります、司祭殿。実際に見たことはありませんがとても素晴らしい犬なのであります。ところがそれを手なずけるのは難しいのであります。しかし司祭殿であれば大丈夫と思うのであります。明日お時間をいただければ、その犬を多分連れて来れる、と思うのであります」

「そうなの? 言っておくけど、よその使い魔を盗んでくるのは絶対に駄目よ」

 小説にてルカーシ中尉から犬が欲しいと頼まれたシュヴェイクは、なんと大佐の犬を知り合いに盗んできてもらい提供したのだ。

「問題ないのであります。間違いなく飼い犬とは無縁の生き物なのであります」

「嘘じゃないでしょうね」

「申しあげます、司祭殿、人間も嘘をつくようになったら、おしまいであります。二枚舌を使うほど恐ろしいことはないのであります。青いネコ型ロボットの住む町ではスネ夫という少年がいるのでありますが……」

 ライヒは時計を見て、シュヴェイクの講釈をさえぎった。

「もう就寝の時間だわ。わかった、その犬を連れて来るのに、あなたは明日まる一日当ててもよろしい」

 そう言い置いて、ライヒは寝室へと向かった。シュヴェイクは居間でソファの上に寝そべって、しばらくのあいだ新聞を読んでいた。



 あくる日、シュヴェイクは『星の智慧派』本部のビヤホールで、一人の信者と話し合っていた。やぼったい風貌の二十代後半の男である。シュヴェイクはこの何週間ほどかのうちに、既に何人もの信者たちと打ち解けていたのだ。彼の、これ以上の好人物はいないというような顔つきの効果であった。

 壁際の薄暗いところに腰を下ろして、ふたりがひそひそと話している様子は、何か怪しい陰謀じみた会話にしか見えないが、そもそも邪教団体である『星の智慧派』の本部にあっては珍しくもない光景といえた。

「その薬は本当に遼丹(リャオタン)かね? うちの司祭が欲しがっている犬は、それを使うことで出遭えるほどの存在じゃないと満足しないと思うんだ」

「正真正銘、数世紀前に中国の丹道で使われていたやつさ。お前がシュヴェイクでこのおれがロンメルというように、間違いのない本物だよ。これに数学の知識をくわえれば、時間を遡ることができるはずだ」

 そう言って何粒かの丸薬を見せるロンメル。それを受け取ったシュヴェイクは、おだやかなほほえみと、暖かく、やさしく、人のよさそうな目で彼を見つめた。

「では信じよう、お前とぼくの仲だからね」

「いいってことよ。それよりシュヴェイク、ライヒ司祭のプライベートな写真を本当にくれるんだろうな?」

「そいつはなんとかするよ。この件が成功すりゃ写真の一枚や二枚、文句なしに撮らせてくれるさ」

「頼むぜ、おれはライヒ司祭のファンなんだ。お前の成功を祈ってるよ」

 そんな会話を交わしながら、ふたりはジョッキをかち合わせて乾杯したのだった。



 シュヴェイクがザルツブルクの屋敷に帰ってきたのは夕刻過ぎであった。

 小箱と用紙を手にして戻ってきた従卒を見て、ライヒは少し落胆の顔を見せた。

「シュヴェイク、あなたが探しに行った犬はどうなったの?」

「申しあげます、司祭殿、準備が整ったので今から連れて来るのであります」

 そう敬礼して居間のソファーに腰を下ろすと、シュヴェイクは手のひらにのせた小さな四角い箱をあけた。中には小粒の丸薬が五つある。ライヒが訝しげに眺めていると、シュヴェイクは膝の上に数学の図表らしきものを広げた。そしてそれを凝視して精神集中を始めると、暫くして丸薬を一粒飲んだのである。

 シュヴェイクは眼を閉じ、ソファーに背をあずけた。たちまち顔面が蒼白になったかと思うと、激しい呼吸を開始した。薬が異常な速さで効果を発揮しているのだ。

 ここまできて、ライヒはようやく何が行われようとしているかを悟った。

「その薬は……遼丹? あなたまさか――!」

「そのまさかなのであります、司祭殿。もう何を言っても、わたくしを止めることはできないのであります。暗くなりはじめ、部屋の中の見慣れた物体が薄れていく。まぶたを通してぼんやり識別できるが、みるみるうちに消えていき、ぼくは部屋を離れていく。ぼくは大きな跳躍をしようとしている――空間を、時間をよぎる跳躍だ」

 そのまま暫く、シュヴェイクは頭をたれて黙っていたが、やがて体を硬直させると、まばたきをしてから大きく眼を見開いた。

「見える、見えるぞ」

 シュヴェイクは前に乗り出し、正面の壁を見つめていたが、しかしライヒには、シュヴェイクがもう部屋の中の物体を見てはいないことがわかった。

「シュヴェイク、なんて危険なまねを……」

 予想外のことにどうしていいものか、ライヒはただ困惑の眼差しを揺らめかせ、さすがに彼の身を危ぶまずにはいられなかった。

 中国の哲学者であり道教の祖であった老子は、遼丹を服用し、薬効のもとにタオを幻視したという。この薬の特性は驚くべきもので、超自然的な知覚力を働かせて服用者の精神を過去にトリップさせるのだ。いわば過去を幻視する時間旅行と言ってもよく、薬を飲む前に凝視していた数学の図表は、現代科学が提供できる数学的な助けを借りることにより、意識が時間という次元を事実上理解するように仕向けて薬の作用を補うためのものだった。

 いまシュヴェイクの意識は、時間を遡り、地球上では対応するものが無い奇妙な角度をよぎり、様々な過去の世界を眺めているに違いない。

「ぼくは不思議な湾曲や角度をよぎり、時間を遡りつづけている。湾曲や角度はぼくのまわりで増加し、湾曲を通して時間の区分を知覚している。大地から人間は姿を消し、巨大な爬虫類や水棲生物も姿を消し、いまでは単細胞になってしまっている」

「わかった、わかったから、もうやめて。それ以上はあぶないから!」

 切羽詰まったような大声をあげるライヒだったが、シュヴェイクは額に冷汗を浮かべながら立ちあがり、肩を発作的にひきつらせるのだった。

「司祭殿、もう遅いのであります。この世のものではない角度を通り抜けた向こうに、見えたのであります。言葉ではあらわせない、異常きわまりない角度をよぎってゆっくり動いている、肉体をそなえていない、――あの猟犬を」

 ライヒが部屋の中のにおいに気がついたのはそのときだった。嗅覚を酷く刺激する名状しがたい悪臭が発生し、その耐えがたいにおいに、ライヒは素早く空気清浄の魔術を発動させた。この段階まできたらもはやシュヴェイクを止めても無意味だ。

「やつらがぼくを嗅ぎつけた。ぼくのほうにゆっくりと向きを変えた。よし、いいぞ、うち一匹をうまくひきつけるのに成功した。よし、まだ、まだだ。ようし、ようし、こっちだ……もう少し、もう少し……よし!」

 シュヴェイクが喉にかかるような発作的な声を発したかと思うと、やがて身を震わせて何度か眼をしばたたいた。どうやら現実に戻ってきたらしい。

 安堵の表情を浮かべたライヒが、やや心配そうに声をかける。

「だ……だいじょうぶ?」

「申しあげます、司祭殿、うまくいったのであります。百万の三乗倍の時間を逃げる際、やつらのうちの一匹を誘導してぎりぎりまでひきつけたのであります。すぐにやってくるのであります」

「すぐにって……はっ!?」

 壁の隅から煙が吹き込んでくる。この世のものにあらぬ息づかいが聴こえる。

 ふたたび室内に悪臭が充満し、そして、部屋の角から何かが勢いよく飛び出してきた。

 それははたして犬と呼べる生物なのだろうか。

 特異な青味がかった膿汁のような原形質で肉体を構成した悪夢めいた姿の怪物が、カーペットの上で四つんばいになって立ち、鋭い牙をそなえた大きな口を開き、太く曲がりくねって鋭く伸びた注射針のような舌を出していた。

「これが――ティンダロスの猟犬」

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