誰もダンセイニを真似ることはできないのだが、ダンセイニの作品を読んだことのある者はたいてい誰しも一度はやってみようとするものである

 ――C・L・ムーア



 第一章 リース・フレキシブルが驚異博士の家を訪れること


 秋の夕暮れが黄昏の香りをのせた風をゆるやかに地上へと運び、ひっそりとした街路樹のそこかしこに降り積もった落葉を舞わせる。真夏の陽気は既に遠く、郷愁の夢をまどろませる紅葉のひとひらが、やがてくる冬の雪のようにはらはらと翳り落ち、鮮やかなオレンジに燃えたつ世界をある種の儚さを伴って彩るのだ。

 晩秋も近づいたそんな季節の夕焼けの下、朱に染まった落ち葉舞い散る並木道のただなかを、古風なトランクを片手に携えた一人の少女が歩いていた。年の頃は十代半ばだろうか、髪はややシャープな黒のおかっぱで瞳は神秘的な紫水晶、服装は胸元を水色のリボンで飾った白のブラウスに黒のベスト、膝下までの黒のスカートに黒のタイツという落ち着いたいでたちである。

 イメージ的には静謐という言葉が似合う、この内気でおとなしそうな少女が、すっかりと人の気配が途絶えた古さびた街路の彼方、いやましに逢魔が時の雰囲気がたれこめてくる黄昏の世界をひとり歩き、何処へ向かおうとしているのだろうか。

 このスペイン人の少女は名前をリース・フレキシブルという。昨夜日本にやってきたばかりの彼女は、ただひとつの目的をもって、飛行機の降り立った都会から夜行列車に乗り込んで、過疎的なたたずまいの寂れた田舎町に到着した。

 少女は一週間前に祖母を亡くしていた。幼い頃に両親から捨てられ、祖母と二人暮しだったリースは、病で床に伏せった祖母からこんなことを聞かされた。

「リースや、よくお聞き。昔、おじいさんが若いとき、町の外れに住み着いていた魔法使いと出会ったことがあるという。おじいさんはそのとき偶然にも困っていた魔法使いを助けてやったらしくてな……返礼とばかりに一枚の羊皮紙をもらったそうじゃ。その皮紙は丸めて円筒に入れられ、何か困ったことがあれば封を開けるといいと言われた。そうすればそこに魔法使いの現在の住処が浮かびあがるから、その羊皮紙を持ってその場所を訪れれば助けになってくれるそうなんじゃよ。おじいさんはまっすぐで正直な人じゃったから、魔法使いと会ったというのは本当のことだと思う。だがおじいさんもわたしもとりたてて大きな困難にぶつかることはなく、円筒を開封することはなかった。そこでじゃ、リース。もしわたしが死んだら、羊皮紙の封を解いてそこに記された場所へお行き。家に残ったわずかなお金をかき集めれば海外へ渡航もできようて。そして魔法使いを訪ねて頼るといい。おじいさんとの約束が正しければきっと助けになってくれるはずじゃから」

 そういうわけで、少女は亡き祖母の言うとおりにして、遠路はるばる極東の島国である日本まで旅立つことになった。そう、祖母の言ったことは本当だった。羊皮紙を開くと、何も書かれていない白紙面に、まるであぶりだしのように文字が浮かんできたのだ。まさしく魔法としか思えないほどの現象であり、そしてそこに記された場所こそ、現在リースが歩いている田舎町だったのである。

 日本語は知らないリースだが、英語は理解しているので、日本に到着してから公共の交通機関を利用すること自体はそれほど苦労しなかったことを伝えておく。

 さて、リース・フレキシブルがひとりぼっちで歩を進めている古色蒼然とした街並みは、古風な尖塔が建ち並び、寂れた岩壁がはびこり、夕焼けの光を浴びてもなお本来の赤を際立たせる切妻や駒形切妻屋根がひしめきあい、破風の窓の一つ一つが、赤黒い夕闇に光を投げかけている、欧風の古い町をかたどったような風景であった。

 というのも、この田舎町は、古き良きニューイングランドの景色を再現して町おこしを図った過去があるのだが、多額の税金をつぎ込んだものの芳しくない結果に終わり、財政的な問題で取り壊しもされないまま、このような有様と成り果てているのだ。

 そんな経緯は露とも知らないリースだが、現代人が関心を寄せない街並みを、しかし彼女は存分に満喫しながらその景観を楽しんでいた。スペインの<黄金世紀>に憧れる少女は、こういった情景をこそ愛し、心の糧とするため、利便性のみを優先する現代社会の感性とはずれが生じているのだった。

 とはいえ年若い少女には違いなく、陽の光が弱まっていくなか、前方にぼんやりと広がる暗い森の中に入らないといけないかと思うと、それまでの穏やかな気分もついと影をひそめ、いやがおうにもこわばらざるをえない。金銭的な余裕もなく、心持ち次第では絶望の餌食となりかねない状況なのだが、おとなしそうに見えてどうやら芯は強いらしく、きりりと眉をあげるや、いまにも闇に包まれようとしている森林へと踏み入っていった。

 すっかり陽の落ちた陰気な道のりを暫くこなしてから、リース・フレキシブルは疲労を顔に浮かべて足をとめた。もともと体力にはあまり自信がない、闇雲に森の中を歩いてもいたずらに体を疲れさせるだけだ。そもそも目指す場所は魔法使いの住処なのだから、普通に眼のつくところを探しまわっても発見などできるわけがない。ではどうすればいいのか。リースは考えた。魔法には魔法に関するもので干渉してみるべきだ。幼い頃から迷信深い祖母に昔話や民話を聞かされて育った彼女は、それをよく心得ていた。

 リースは樫の倒木に腰を下ろすと、トランクを開いて数少ない荷物である古びた円筒を掴み取る。魔法使いが魔法で記したのだから何らかの反応があるに違いないと思い至り、取り出した羊皮紙を広げると、リースは静けさだけが漂う不吉な闇を見据えて、声高にスペイン語で次の言葉を張りあげた。

「魔法使いさま、私、リース・フレキシブルは、過ぐる数十年ほど前、魔法使いさまの困窮をお助けいたしましたエイリアス・フレキシブルの孫でございます。ここにその証拠たる羊皮紙をお持ちいたしております。もし魔法使いさまが当時のお約束をお忘れでなければ、どうか姿をお示しください」

 そして少女は待った。すると果たせるかな、闇にベールが降りたかのように、白木の戸口が眼の前にあらわれでたのである。

 リース・フレキシブルが緊張をあらわにして白木の扉に手を触れると、扉は消失し、老人が一人、音もなく戸口に現れた。焦茶色のシックな服装をした初老の紳士。禿げ上がった頭部の後ろと小さな顎に白髪が生えるのみで、骸骨のような顔つきと手足が特徴的だ。リースは眼を丸くした。老人は日本人ではなかったが、それ自体はどうということはない。表情や動作が異様というかなんというか、近づきがたいというよりも近づきたくない雰囲気を醸し出していたのだ。

 老人はリースがおずおずと差し出した羊皮紙を手に取り、読みはじめた。すぐに表情が柔和で親しげな笑みに変化し、奇妙な雰囲気を解いて頷いた。自分が書いたものに間違いないという証明だろう。それから、まるで変な生き物を見るかの眼差しを瞳にあらわしている少女を見やり、不愉快そうに、妙に特徴的な張りのある声音を発した。少女に合わせてのことか、スペイン語である。

「失敬な娘子ですね。まあいいでしょう、私の名は……」



 名前を決めてください。

 へんないきもの
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   
 ひらがな カタカナ 英数字

 あいうえお まみむめも ぱぴぷぺぽ 名前決定
 かきくけこ や ゆ よ ばびぶべぼ 選択
 さしすせそ らりるれろ わ を ん 一文字削除
 たちつてと がぎぐげご ぁぃぅぇぉ 全消去
 なにぬねの ざじずぜぞ ゃゅょっ  初期設定
 はひふへほ だぢづでど 、。・―〜

 『へんないきもの』

 この名前でよろしいですか?

 →はい  いいえ



「……なんて名前ではなく、ロジャー・ベーコン。愛と平和を愛する、永遠のスターチルドレン」

 朗々と口にしながら右手を上げる老人に、リースは二重の意味で驚いて眼をぱちぱちとさせた。ひとつめの驚きである珍妙な態度はこの際スルーすることにして、もうひとつの驚きを声に出すしかない。

「ロジャー・ベーコンって……まさか、あのドクトル・ミラヴィリス?」

「ほお、遠い日の私の異名を知っているのですか、感心、感心。失敬な娘子と言ったのは取り消しましょう。そのとおり、私はロジャー・ベーコン本人です」

 ロジャー・ベーコンとは1200年初頭に生まれたイギリスの修道士で、当時において驚くほどの学識によって『驚異博士(ドクトル・ミラヴィリス)』と呼ばれた十三世紀の哲学者にして近代科学の先駆者と評される人物である。そして重要なのは、光学、天文学、機械学など多くの研究を残し、錬金術にも精通し、あまりの博識ゆえに当時の大衆からは魔法使いだと思われていたということだ。

 彼は非常に合理的な思考の持ち主で、実験を重要視し、当時の腐敗した社会を批判し、伝統的な教会とも対立した。その結果、十四年間もパリで幽閉されることになり、解放されてからわずか数年後に八十年の生涯を終えたという。もし眼前にいる老人が本物のロジャー・ベーコンであるならば、800年も生きながらえているわけで、魔法使いというのは本当だったということになる。

「エイリアスの孫娘、リース。私を訪ねてきたあなたの願いはなんですか」

「は、はい……実は一週間ほど前に祖母が亡くなりまして、両親に捨てられて久しい私は頼る者もなく、家に残ったわずかなお金を集めてここまでやってきた次第です」

「すると、必要なのはお金かな? あなたのお祖父さまには感謝してもしきれないほどの借りがあるから、望むならあなたが生涯貧困に陥らないだけの金を渡しましょう」

「は――いえ、その、ええと……」

 リースは口どもった。祖母が彼女に魔法使いを頼りにしろと言い残したのは、生活面の心配をなくす金銭的なことに違いないだろう。魔法使い――ロジャー・ベーコンもリースの祖父には並々ならぬ恩を感じているらしい。ここではいそうですと言えば、嘘偽りなく一生不自由しないだけのお金を得ることができるのは確実だ。しかし。

「ロジャーさんの家を拝見してからお答えさせていただくわけにはいきませんか」

 と、リース・フレキシブルは言った。

「その、高名な科学と魔術の師匠におめにかかれた光栄と喜びをもう少し感じたくて」

 そうつけ加えたのは、なれなれしく名前を呼んでしまったことに対するフォローだが、そんなことを気にとめるロジャーではなかった。彼は一瞬、探るような眼で少女を眺め、魔法の達人にふさわしい機知を働かせたものやら、余計な詮索はせずに無言で踵を返す。ついてきなさい、と小柄な背中は告げていた。

 魔法使いの後につづいて戸口を抜けると、リースはあっと声をあげた。円形のドームを思わせる空間が広がっていた。眼前には荒涼とした岩だらけの土地、見上げると、さえぎるもののない、暮れなずむ神秘的な星空。吹きすさぶ風がリースの黒髪を揺らした。

「私が魔術儀式と科学装置で作りだした異空間です。かつて蒼穹の黄昏に包まれたエルフランドを訪れたとき、大いなるエルフ王から教えてもらった呪文を構成元素としているのですよ」

 淡々と口にするロジャーの説明を聞き、少女は感動を満面にあらわした。これは本当に本物だ。ドクトル・ミラヴィリス本人なのかどうかはわからないが、魔法使いであるということは疑いようのない事実に他ならず、リースは感嘆の吐息をもらした。

「そしてあれが私の自慢の家です。素晴らしいでしょう」

 ロジャーの指差した先を見て、リースは言葉を失った。絶句というべきか、今度は感動にあらず、なにしろ岩肌の丘に建つその家は、まるで一昔前のC級SF映画に登場するような奇天烈かつでたらめなフォルムを備えた、いまにも変形合体しそうなトンデモ建造物であったからだ。古めかしい魔法使いの屋敷を想像していたリースは落胆を隠せずにはいられなかったが、かの『化学宝典』の著者たる偉大な人物の技術結晶と考えるなら、これがあるべき姿なのだろうと思ってロジャーの言葉に頷き返した。自慢の家だと言っているのだから機嫌を損ねるわけにはいかない。

 なだらかな勾配の丘を登り、近づくほどに異様な外観を誇る家の玄関まで辿りつくと、ロジャー・ベーコンはリースを振り返った。頭上で星がきらきら輝き、岩肌の台地に穏やかな光を燈しだした。

「ではリース、答えてもらいましょうか」

「はい。ロジャーさん、私をあなたの弟子にしてくれませんか?――できれば住み込みで」

 幼い頃から祖母に不思議な昔話や民話を語り聞かされたリースは、魔法やロマンスの奇想に魅了され、絶えることなく夢と幻想が湧き出づる泉に憧れを抱いた。もし本物の魔法に出会えることができたら、自身もそこにとけこみたいと願望を抱いていた。そしていま、彼女の目の前には、ケルトの帳、アイルランドの黄昏の光で照らされた幻想世界の涯――あらゆる詩人の知るあの霞のかかった野原のようなファンタジィの境界が夢想のごとく広がっているのだ。

「私は、弟子はとらないことにしているのですよ」

「そこを曲げて、お願いしたいのです。かつてあなたの困窮に救いをもたらしたという祖父の業績と、そのときあなたがお与えになられた約束に免じて、どうかお願いします」

「うーん……」

 老人の深い眉間に悩みの皺が寄った。大恩ある者の名とその約束を持ち出されてはいたしかたないといった思考をめぐらせながら、ロジャー・ベーコンはいま一度リースを観察した。真摯な視線を向けてくる紫水晶の双眸には、金を求める男たちをあざけり、男たちの策略を笑いものにし、男たちの妄想をくつがえし、男たちの夢に灰をかぶせる、そんな輝きなど微塵もなく、ただただ魔法とロマンスへの羨望がまたたくのみであった。

 ロジャーは懐から銅の鈴を出すと、数回振って味気ない音を鳴らした。程なくして玄関のドアが開き、家の中から一人の少女が姿をあらわした。歳はリースとさほど変わらないくらいだろうか、大きな三つ編みを左右にたらした金髪碧眼の少女だった。ややつり目で、半袖の白いTシャツとグレーのハーフパンツというラフな格好は、リースとは対照的な印象を出している。Tシャツには上海天国という文字がでかでかとプリントされていたが、日本語なのでリースには読めなかった。

「この娘子は私のボディガードと家の雑用を担っているゲボ子です」

「ご紹介に預かりましたゲボ子です。よろしく」

 英語で自己紹介してまったりと手を差し出す少女。

「あ、はい……こちらこそ」

 変わった名前だなと思いながら握手を交わすリースは、この後に彼女の本当の名を知ることになるのであるが、それは次のときに委ねるとしよう。いま大事なのは、ロジャー・ベーコンがふたりを背にして発したこの言葉なのだから。

「ゲボ子、その娘さんを案内してやりなさい。私は自室にいるから、最後に私の部屋へ通すように」

「あーい」

 ゲボ子がものぐさな口調で返事すると、老人はひょこひょこと家の中へ消えていった。暫くぽかんとしていたリースは、やがて、歓喜に満ちた綻びを口もといっぱいにあらわした。たったいま、幻想に焦がれる少女はケルトの黄昏の境界を越え、めくるめく魔法とロマンスに彩られた物語が幕を上げたのである。

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