第2話「シュヴェイク ライヒ司祭の従卒になる」後編


 御納戸町の商店街にある本屋で、ヴィエは真剣な様子でお菓子作りの本を読んでいた。彼女が苦手とする数少ないもののひとつこそ料理なのである。

 大抵のものは少し着手すれば簡単に習得してしまうヴィエだが、料理は何度かやってみて散々な有様になるばかりだったので、天才が努力して駄目なものはそれ以上やるだけ無駄とすっぱり諦めた。

 そんな彼女が久しぶりに再び挑戦してみようという気になったのは、来月の十四日に感化されてのことだ。チェコのバレンタインにもチョコレートを渡す習慣がないこともないが、男性から女性にプレゼントするものだし、花束を交換しあったりお酒を飲んで楽しんだりといった具合だ。そもそも諸外国に比べて日本におけるバレンタインデーは独自の風習が強い。当の日本人には内心なかば煙たがられている行事と成り果ててしまっている感があるが、ヴィエとしては、女性が好きな男性にチョコレートを贈るという行為はまんざらでもなかった。

 なによりサイモンの存在。彼はドイツ人だが日本の二次元美少女媒体にどっぷり倒錯しているため、バレンタインを意識しているのは間違いない。それも手作りチョコに強い期待を持っているようだ。そんなわけで最愛の恋人を喜ばせてあげたいがゆえ、現状に至る。

 お菓子作りの本に眼を通していると、同じくらいの背丈の少女が隣に立った。エルダーサインの反応により魔道士ということは先刻承知だ。

 ダークブラウンの髪を腰まで下ろしたその少女は、無言で振り向いたヴィエにお嬢様然と微笑した。赤と青のオッドアイが端正な容姿と相まって神秘的な印象を与える。

 ヴィエは社交辞令の微笑を返すと、本を閉じてそのままレジへ向かった。



「それで、どちら様?」

 とヴィエが訊いたのは、御納戸川にかかる橋の上まで来たときだった。それまでオッドアイの少女はずっと後をついてきたのである。

 スカートの裾をつまんで軽く会釈すると、少女は上品に挨拶した。

「初めまして、ウビジュラ家当主フヴィエズダ。私はライヒ・パステルツェ」

 その自己紹介にヴィエは、へえーと関心をあらわにした。

「パステルツェ家のご息女が魔道士だったなんてはじめて知った」

 オーストリアの名門パステルツェのことは知っていたが、魔術や超常とは無縁の家系のはずだ。その令嬢がまさか魔道士とは思いもよらず、しかも濃密な魔力の持ち主ときた。

「とりあえずわたしのことはヴィエでいいわよ」

「じゃあそのとおりに呼ばせてもらうわ。くだけた話し方のほうが好きみたいね」

「まあね。それでライヒ、あなたが遠路はるばる日本くんだりまでやってきたのは、わたしに会うためだったりする?」

「ええそうよ。そのうちじっくりお話したいと思って」

「それならわたしの家に来る? 美味しい紅茶とかご馳走するけど」

「せっかくのお誘いだけど、今日は挨拶に来ただけなの。それはそうと、さっきの本……まさかと思うけどお菓子作りのお勉強かしら」

「そのまさかで悪い? わたしにだって苦手なことくらいあるんだから」

 少し不愉快そうにそっぽを向くヴィエに、ライヒは愉悦めいた表情を見せた。

「あらごめんなさい。でもかわいいところあるのね」

 くすくすとほほえむその態度が、癇に障る。

「そういうあなたはどうなの」

「私は普通くらいには嗜んでるわよ」

 ライヒは物心つく頃から家族の温もりとは離れていたので、暇つぶしによく召使いの眼を盗んでシェフに料理を教えてもらっていた。パティシェを呼んでお菓子作りも学んだ。

「へえー、そうなんだ。食べさせる相手もいないのに?」

「む……」

 片眉をぴくりとさせて声を詰まらせるライヒ。虚栄心を満たすための相手ならいくらでもいるが、本当に腕を振るいたい相手はいなかった。

 どうやら図星だと見てとったヴィエは遠慮なく愉悦の表情を浮かべる。

「それは寂しいね〜。恋人がいればよかったのに」

「わ、私はまだ十歳なんだから、そんなのいるはずないでしょ」

「わたし十二歳だけどいるよ? 心だけじゃなくて体もふかーい関係になってるの♪」

「え……あ、え……っ!?」

 意味を察したライヒは、見る間に信じられないとでもいうふうに顔を赤らめた。

 思ったよりも純情なその挙動。ヴィエは愉しくて愉しくて仕方がない。

「あらごめんなさい。でもかわいいところあるのね」

 さっきの自分のセリフをイントネーションまでそっくりそのまま言い返され、ライヒは奥歯をかみしめた。気を落ち着けて瞳を閉じると、精密な魔力を展開させる。

 次の瞬間、周囲から人の気配が消えた。橋一帯を別次元の閉鎖空間に切り替えたのだ。

「挨拶代わりよ」

 そう口にしたライヒが手のひらから透明なビー玉を落とした。

 橋の上をころころ転がる小さな球体は、突如として運動会の玉ころがしほどの大きさに変化すると、ぎらつく牙を生やした巨大な口を開けてヴィエへと跳躍したのである。

 ヴィエが右手を伸ばして開くと、その掌に燃え上がる五芒星形が浮かんだ。

 シュールな怪球は狂乱の叫びを発して反転し、ライヒへ飛びかかった。

 少女の眼前に到達する前に、それは無数の紫色の蝶と化して一斉に舞った。

 相手の生命を吸い取る蝶の大群は瞬く間にヴィエを紫色に染めたが、たちまち、二羽の白い鳩に変化してはばたいた。

 この国において平和を象徴する小柄な鳥は、左右に分かれてライヒの両肩にとまった。

 途端、ものすごい重圧が発生した。その重みは十トンにも達し、魔力で堪えるライヒの足もとがぶるぶる震えだす。眉根を寄せた顔にひとすじの汗が伝う。

 ライヒが何かをつぶやくと、彼女を押し潰さんとしていた白鳩はオモチャのロケットになった。ロケットは重圧から解き放たれ垂直に飛んでいき、見えなくなった。

「やるじゃない」

 感心の色を声に添えて、ヴィエが言った。

「どういたしまして」

 軽く呼吸を整えて、ライヒが言った。

「挨拶だけのつもりだったけど……気が変わったわ」

 せっかくだから『星の智慧派』本部へ連れていこう。つまり拉致だ。

 そう決めたライヒの右の眼が輝くや、濃い赤みのかかった妖しい怪光が放たれた。得体の知れぬ独自の生命を宿して脈打っているような光だった。

 すると、ヴィエは愕然として立ちくらみを起こした。原因不明の猛烈な眠気が生じ、ふらふらとその場に膝をつく。魔術や催眠術、超能力等によるものでは断じてない。

 エルダーサインの発動がなければ一瞬で前後不覚に陥っていただろう。

「こ……れは……?」

「まだ意識を保っているなんて流石ね。でも数分ともたないわよ」

 これこそダイラス・リーンの災厄と称され畏怖されるライヒの特殊能力にして、ナイ神父に眼をかけられ、僅か数年で『星の智慧派』の司祭に選ばれた理由である。

 即座に展開させた対処魔術もまったく効果がなく、その威力は恐ろしいものだった。

 ヴィエは、どうでもよくなりかける思考の停滞と必死に抗い、手のひらを上向けた。

 ロザリオの形をした、鈍くくすんだ銀色の鍵が現れる。

 ライヒがはっとなった。

 朦朧としたおぼつかない手つきで、ヴィエが鍵を半回転させると、彼女の姿は、眼前の空間に生じた小さな黒点に吸い込まれて消えた。

 ぽかんと立ち尽くすライヒ。『銀の鍵』による転移を妨げることは不可能である。

「なるほど……あれはヴィエの手に渡っていたのね」

 納得してつぶやくと、彼女は閉鎖空間を解いた。

「思ったより楽しかったわ」

 その口もとは、好敵手を得たとばかりにうきうきと綻んでいた。



 住宅街の外れに建つゴシック様式の洋館にバイトから帰ってきたサイモンは、居間のカーペットに靴のまま寝転がってぼんやりしているヴィエを発見して慌てふためくことになる。

 大声で呼びかけても体をゆすっても無気力状態のままで、恋人の少女の意識がはっきりしたのは、たっぷり八分も経ってからのことだった。



『星の智慧派』本部に戻ってきたライヒは、すれちがうごとに信者達から遠巻きの不自然な視線を向けられ、訝しげに首をひねった。

 自室に入ると、まず眼に入ったのはきちんと整頓された室内だった。

 どうやら命令に従って部屋を掃除したようだと感心したところへ、シュヴェイクがなにやら憤然とした様子でライヒの帰還を出迎えたのである。

「よろしい、ちゃんと言いつけを守ったようね。……どうしたの?」

「申しあげます、司祭殿。おそれながら司祭殿の命令された任務を完遂することができなかったのであります」

 おおまじめに憤る善良な兵士の言葉に、部屋を見渡したライヒはきょとんとした。

「え、でも見た限りきれいになってるようだけど……」

 そこまで言ってから、思わずピンときた。

「シュヴェイク、あなた他の司祭の部屋も掃除しようとしたわね!?」

「そのとおりであります! 司祭殿のご命令どおり、司祭殿の部屋を掃除しようとしたのであります。ここの清掃を終えたわたくしは、次の司祭殿の部屋へ向かったのでありますが、あろうことか、門前払いされたのであります。わたくしもそれで引き下がるわけにはいきませんから、これはライヒ・パステルツェ司祭殿に与えられたご命令ゆえ、何が何でも遂行しなければならないのですと声の限り何度も何度もまくし立てたのでありますが、聞き入れてはもらえないどころか追い払われてしまったのであります。こういうのを世間で、お手あげというのであります。と言いますのは、1989年11月、ヴルタヴァ川にかかる十四本の橋がヴァーツラフ広場に向かう人で溢れたのは、抑圧への反抗からデモを起こした学生が警察との乱闘で負傷したことをきっかけとして、連日二十万ともいわれる民主化を求める市民が広場に集ったからなのです。その圧力に屈して共産党政権はわずか一週間で退陣することを余儀なくされたものでありますから……」

 前半の言葉を聞いていくうち、あまりの羞恥に、ライヒの顔はみるみる真っ赤になった。穴があったら入りたい。

「それから司祭殿、申しあげます、司祭殿の部屋に無断で入ろうとした畜生を始末したのであります」

「畜生?」

「猿のような姿をした生き物なのであります。そいつは動物でありながら司祭殿の部屋に用があると人間の言葉で喋ったのであります。わたくしは、そんなことは司祭殿から聞いていないから誰も入れるわけにはいかないと言ったのでありますが、お前じゃ話にならんと、こともあろうに不法侵入しようとしたのであります。そこでわたくしは銃剣で一突きにしてやったのであります」

 ライヒは茫然と耳にした。その猿のような生き物とは、『星の智慧派』の司祭ヘルマイヤー・ストラトスの使い魔に違いなく、この本部で知らない者はいないのだった。聞き間違いでなければ、それをこの男は始末したと言ったのだ。

「わたくしは畜生の死骸を地下室にほうりこんだのであります。ただし、お隣の地下室にであります。まったく、とんだ猿畜生もいたものであります」

 ライヒの顔はふたたび真っ赤になった。今度は羞恥にあらず憤怒によるものだった。

「よくわかったわ。確かにあなたはシュヴェイクのようね」

「申しあげます、そうにちがいないと思うのです。わたくしのおやじはシュヴェイクでしたし、おふくろもシュヴェイコヴァーでありましたから。自分の名を否認して、おやじやおふくろに恥をかかせるわけにはいかないのであります」

 ライヒは射すくめるような恐ろしい視線をシュヴェイクに投げかけ、思案した。

 いったいこいつをどうしてやろう。まず両方の頬をきつく引っ叩いて、鼻柱をたたき折る。それから、そうだ、日本の伝承にある因幡の白兎のように全身の皮を剥いでしまうのだ。そうしてやれば向こうにも顔が立つだろう。

 そう腹に決めて、ライヒはまずシュヴェイクを怒鳴りつけた。

「シュヴェイク、畜生はあなたよ! おお外なる神よ、シュヴェイク、あなたはなんてことしてくれたの? これで私は当分あの陰湿でねちっこいヘルマイヤーに頭が上がらないじゃない! あなたは確かに箸にも棒にもかからないバカよ」

「申しあげます、司祭殿、そのとおりなのであります!――小さいときからわたくしはこういうヘマばかりやっているのであります。わたくしはいつも今度こそ前にヘマをやった分まで取り返してやろう、りっぱにやろう、と思うのでありますが……」

「うるさい! 黙りなさい! あなたが猿畜生を始末したように、私があなたを始末してあげるわ。このうすらトンマ、手の付けようのない抜け作っ」

 怒りを抑え、ライヒはさきほど思案したことを実行に移そうとした。

 ところが彼女の真正面では、シュヴェイクのいかにも人がよさそうで、無邪気な眼が二つ彼女を、おだやかな光を湛えてじっと見ているではないか!

 その絶対的な精神の安定状態をあらわす暖かい光に満ちた、いかにも人がよさそうな、やさしい眼差しにさらされているうちに、ライヒは何だか拍子抜けして椅子に腰を下ろすと、どっと溜息をついた。

 そういえばシュヴェイクは掃除のことを喋ったとき、後半、ビロード革命のことを語っていたが、なぜ近年の史実を知っているのだろうか。

 すぐ思い当たった。書斎の本を好きに読んでいいと言ったのは自分ではないか。

 ふと眼が合い、シュヴェイクがまた何か口にしようとしたので、ライヒは少したじろいだ。すっかり疲れたところにバカらしい講釈を延々と聞かされるのはごめんだ。

「ま、まって、お願いだから黙ってて」

 ライヒが元気のない声でそう言うと、シュヴェイクはこのうえない無邪気な顔をし、やさしいほほえみを浮かべながら口を開いた。

「申しあげます、司祭殿、上の立場にある者が、お願いなどという言葉を簡単に口に出してはいけないと思うのであります」

「な……なんでよ」

「司祭殿、なぜかと申しますと、ある巨大な組織にモンティナ・マックスという総統がいたのであります。この男は何十年かかろうと金も力も権力も愛情も仲間も手に入れるつもりだったのでありますが、敵対部隊の罠にはまり追い詰められ、もと組織の一員で殺し屋だったアンデルセン神父に自分を撃ってくれと言う事になったのであります。自殺はしたくない、だから、人に初めてこの言葉を言おう、『頼む』、と最期にそう言ったのであります。そして神父はエイメンと口にしてモンティナを撃ったのであります。このことからもわかるように……」

「もう嫌ぁぁーーーーーーーっ!!」

 ライヒは思わず何年かぶりに、歳相応の子供のように泣き出した。

 そんなわけでシュヴェイクは『星の智慧派』本部に置いておけず、ザルツブルクにある彼女の自宅にて住まわせることになったのである。

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