第1話「シュヴェイク ライヒ司祭の従卒になる」(前編)


 見た目の年齢は四十代くらいであろうか、穏やかそうな風貌をした金髪碧眼の男が豪奢な室内で権威ある執務を執り行っていた。

 ここは<夢の国>の天空都市セラニアン。壮麗なる光明の都セレファイスの姉妹都市であり、いま執務室で幾束の書類にペンを走らせているこの男こそ、オオス=ナルガイの造物主にして、セレファイスとセラニアンを治める偉大な王クラネスである。

 かのランドルフ・カーターと双璧を成す至高の「夢見る人」たる彼は、半年ごとに両都市の玉座に交互に君臨し、王としての執務についている。

 誰もが敬い憧れる偉大な「夢見る人」クラネスは、<夢の国>でも屈指の美しさと栄華を誇るセレファイスでの永遠の統治を約束されているにも関わらず、その胸中は常にある愁いに満ちており、心の安らぎを見出せずにいるのだ。

 彼は覚醒世界では売れない作家の英国人だった。その肉体は現世の時間で八十年も昔に故人となっている。彼が夢の中でオオス=ナルガイの地とセレファイス、セラニアンを創造し、その王と成ったとき、覚醒世界での彼の肉体は無様な死を迎えた。

 現実に敗れ、夢の世界で勝利を得たクラネスだが、皮肉なことに、歓喜に満ちた光の都の君主になった彼が真に心の充足を求めたのは、覚醒世界の古き良きコーンウォールそのものであった。古さびた愛すべきイングランド、至純にして静謐なイングランドの郷愁をいま一度取り戻せるなら、セレファイスでの権力も享楽も自由もよろこんで擲つことだろう。

 だがもはやそれは叶わぬこと。ゆえに彼は、誰もが羨むあらゆるものを意のままにできる存在にありながら、決して晴れぬ愁いに沈んでいるのだった。

 執務が一段落して一息ついたとき、ようやくクラネスの表情が薄く和らいだ。彼は客を待たせていた。一時でも心弾ませてくれる数少ない友人の久しぶりの来訪。

 一拍置いて執務室に入ってきたのは、六、七歳と思しき娘で、二年前に知り合い交友を深め、いまではクラネス王の小さな友人となった幼き「夢見る人」。

 上品なスカートの裾をつまんで恭しく会釈した少女の顔を見やったクラネスは、穏やかな微笑を、おや、という表情に変化させた。

 小さな友人の青い双眸は、片方が紅玉のごとき朱に染まっていたから。

 そしてもうひとつ、ただの「夢見る人」にはない魔力が小柄な体躯から感じ取れた。

「その……なんといえばいいのか……私、魔道士になってしまったみたいです」

 そう彼女は口にした。

 覚醒世界の時間にして、数年前の出来事である。



 ダークブラウンのストレートロングヘアーに、赤い右目と青い左目をしたオッドアイの少女。オーストリアの名門パステルツェ家の令嬢であるライヒ・パステルツェが、ザルツブルクにある自宅の屋敷に戻ったのは夕刻を過ぎた頃であった。

 割合に質素だがお洒落な外観の屋敷の中は無人であり召使とて一人もいない。両親は首都ウィーンに居を構えているが、多忙で世界を飛び回っているため年に数回しか帰ってこない。ライヒが物心つく時分からそうだったので、親に対する愛情は年々薄れている。昨年十歳になった彼女は、新人の少女作家として自立したのを機にウィーンを離れ、ザルツブルクに移って一人暮らしを始めたというわけだ。

 彼女が今日どこから戻ってきたかというと、世界の何処かに存在するという『星の智慧派』本部からである。ライヒは『星の智慧派』の司祭――すなわち幹部であり、優秀な魔道士でもあるが、それは一般人である両親の知るところではない。

 幼少時に「夢見る人」として覚醒した彼女は、数年前に<夢の国>のある場所で事件に巻き込まれ、目が覚めてみると右の瞳がルビーのような赤眼に変色していた。同時に高い魔力が体内から発生し、彼女が魔道士となったのはそれからであった。程なくして、その資質に眼をつけたナイ神父から『星の智慧派』に誘われ、一時はとまどい躊躇したものの、家庭環境と社交的な交友関係に嫌気が差してきたこともあり、新たな世界を求めて教団に入信するに至った。そしてわずか数年で最年少の幹部になったのである。

 夕食を終えたライヒは小奇麗な自室でひとつの事柄に思案をめぐらせていた。

『星の智慧派』本部で行われた会合では、幹部のなかでもナイ神父の後継者候補に名を連ねるほどの司祭であるマグヌス・オプスが、極東の島国で展開された大規模な計画の結果を報告した。ライヒ同様、最近幹部になったばかりの羽丘隆志という青年が実行した事象の顛末についてである。

 隆志は能力的には優れているものの特に秀でたところはない人物だが、神代の超戦士である不死兵を目覚めさせる事に成功したばかりか、従順と伴わせさえしたのだ。それにより司祭に昇格したうえ一気にナイ神父の後継者候補筆頭にすらのぼりつめた彼は、『星の智慧派』の至宝たる<輝くトラペゾへドロン>まで賜って今回の壮大な事象に着手した。

 同行して協力したマグヌスの報告によると、事象の完成は失敗に終わり、隆志と不死兵も消息不明という散々たる結果。場内にどよめきが上がったのは無理からぬことで、会合に参席したライヒも驚かずにはいられなかった。<輝くトラペゾへドロン>はナイ神父の手で無事に回収され、組織としての損失は最小限だったことが幸いと言えるだろう。ただ、少なからず多方面の眼をひくことになったので、今回のような大規模なことは当面のあいだ行えなくなったのは間違いない。

 さて、ライヒが強く関心を持ったのがフヴィエズダ・ウビジュラのことである。

 何故ならそのフヴィエズダ――通称ヴィエたる魔道士の少女は、隆志の実行した計画に敵対して関わっていたばかりか、破綻の原因にもなったらしいのだ。そういうわけで実際に会いにいってみようと思った。

 しかしマグヌスの副官であるアルカへストをも葬った実力の持ち主である、決してひけをとる気はないが、用心するに越したことはない。そこで英霊をひとり召喚して従わせることに決めた。有力な英霊を連れておけば、フヴィエズダと対峙したとき万が一にということもなくなるだろう。不測の事態は大敵であり、決して起きてはならないのだ。

 ライヒは屋敷地下にある魔術儀式用の部屋に移動し、英霊召喚の儀式を始めた。

「やっぱりオーストリア国民としてはカール大公かプリンツ・オイゲン公の英霊よね」

 オーストリアの二大英雄として称されるどちらかを、彼女は召喚するつもりでいた。

 なにしろ英霊の召喚はそう易々とできるものではない。星の周期も関係してくることから、いま実行すれば後十年は不可能になるだろう。失敗するわけにはいかない。丹念に準備を整え、慎重かつ精確に召喚の儀を展開させるライヒ。

 やがて術式は完成し、儀式は成った。



 ライヒは、イレギュラーや予想外、想定外といったものが大嫌いである。

 昔から臨機応変が苦手なのだ。どんなときでも物事は型に嵌まっているのが一番だ。

 だからというべきか、いま客間にてソファに腰を下ろしている彼女は、テーブルに肘をついて両手で顔を覆いうなだれるのであった。

「どうしてこんなことになったのよ……」

 百万回がっかりしてもなお足りない風な落胆ぶりの原因は、正面のソファにきびきびと腰掛けている不精ひげを生やした一人の男だった。かつてのオーストリア・ハンガリー帝国の軍服を着た兵士で、ライヒから見ればおじさんと形容できる容貌だが、なによりも特徴的なのはとても善良そうで愛想のいい顔立ちに他ならない。

「申しあげます、司祭殿。現在わたくしがここにおりますのは、司祭殿がわたくしをここにお呼び出しになられたからにちがいないのであります」

「そんなことはわかっているわよ、シュヴェイク。私が聞きたいのは、どうしてあなたみたいなのが召喚されたのかってことなんだから」

 溜息をついて顔をあげ、眼前の男を見つめるライヒ。

 彼の名はヨゼフ・シュヴェイク。チェコの作家ヤロスラフ・ハシェクが書いた反戦諷刺小説の主人公で、実在の人物ではない。

 いわば架空の英霊なのだが、問題なのはそのキャラクターというか人物像であり、それがライヒを大いに悩ませる要因そのものなのである。

「申しあげます。それは司祭殿がわたくしを召喚されたからであり、わたくしには皆目見当がつかぬものであり、司祭殿にしかわからないことと思われるのであります」

「はあ……本当に何を考えているのかさっぱりわからない人間ね」

 疲れたように首を振るライヒへ、シュヴェイクは無邪気な平静さで言った。

「申しあげます。わたくしは何も考えていないのであります」

「息つく間もないんだから。いったい全体なぜ考えないのかしら?」

「申しあげます。わたくしが考えないのは、それが兵役中の兵士に禁ぜられているからであります。わたくしがかつて九十一連隊にいたとき、連隊長殿はいつもこう言われたのであります」

「『兵士は自分で考えてはいけない。上官が代りに考えてくれる。兵士が考え出したら最後、兵士ではなくなって、どこにでもころがっているただの民間人になってしまう』でしょ?」

「申しあげます。そのとおりなのであります」

 シュヴェイクの返事を聞き、ライヒはニヤリと笑んだ。してやったりという表情だ。

 彼女も作家の端くれ。チェコ文学の有名作家ハシェクの代表作、シュヴェイクが主人公の長編小説は全部読んである。すなわちシュヴェイクの台詞も大体は頭に入っているため、彼が得意の喋りを出してきても機先を制することができる。小説の中の人物は小説の中の例えしか話せないことを逆手に取ったわけだ。

「そういうわけだから、白痴は白痴らしくおとなしくしておきなさい」

「申しあげます、司祭殿。わたくしは間違いなく神に誓いましてほんとうの白痴なのです。かつてわたくしは白痴だと判断されて軍隊を除隊になり、特別委員会でもこいつは箸にも棒にもかからぬ白痴だとの宣告を公に受けたのです」

「はいはい。そんなこと知ってるから黙っててね」

「申しあげます。わかったであります」

 まったく動じることなく、ひたすら愛想よくほほえむシュヴェイクの言葉に、ライヒは思わず眉をぴくつかせたものの、優位は自分にあると気を静めて席を立った。

「とりあえずあなたの居場所を用意してあげるからついてきて」



 夜半すぎ、ライヒはシュヴェイクを連れて『星の智慧派』本部を訪れ、自分の部屋に到着した。幹部たる司祭には専用の豪奢な個室が与えられているのだ。

「シュヴェイク、私はこれから私用で日本へ向かうから、あなたはここで待機してなさい」

 ライヒは結局単身でフヴィエズダに会いに行くことにした。シュヴェイクは送還してしまおうとも考えたが、こんなのでもせっかく召喚した英霊には違いなく、まだどんな能力を持っているかもわからないうちに役立たずと見なしてしまうには軽率すぎる。暫くは様子を見て、それから判断するほうがずっと賢明だろう。

 だからといってフヴィエズダとの対峙に連れて行くわけにはいかない。現状ではシュヴェイクの存在は不確定要素きわまりないからであり、ゆえに待機させておくにかぎる。

「申しあげます、司祭殿。ここで待機しておくのであります」

「ああちょっとまって、ただ待機していても退屈だろうから仕事を与えてあげる。部屋を掃除しておきなさい」

「申しあげます、司祭殿の部屋でありますか?」

「そうよ。掃除用具はあそこに入ってあるから、終わったらちゃんと片付けておくこと。あと書斎の本は好きに読んでいいわ。わかったかしら」

「申しあげます。わかったであります」

 まばたきもせずシュヴェイクがうやうやしく返事すると、ライヒは満足げに頷いた。

 シュヴェイクの人どなりは知っているつもりだが、英霊として現実に具現化した彼は小説との相違点があるかもしれない。待機と仕事を命じることで、本当に召喚者たる自分に忠実なのか、どの程度の仕事能力があるかがわかるというものだ。

 そうして彼女は意気揚々と『星の智慧派』本部を後にするのだった。

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