第27話「未知なるカダスを現に求めて」後編


 荒い息をついて、権化がその場にうずくまる。

 折れた錫杖が地に転がり、衣服はずたずた、全身はぼろぼろだ。

 獅子奮迅の勢いで戦い続けたが、カダスの歩哨の力は圧倒的だった。

「残念です、この手で家族を殺さなければならないとは」

 悲しげな声で胸に手を当てる隆志。

 権化はハッとなった。何かを理解したような、そんな顔で、ふらふらと立ち上がる。

「そうか……そういう……ことか」

 朽ちかけていた意志の炎を再びたぎらせ、ゆっくりと前進する。もはやまともに戦うことすらできない状態で、一歩、一歩、前を見据えて。

 隆志は、そんな彼を哀れみの眼差しで見つめた。

「これで終わりです。さようなら、兄さん」

 巨大な影が揺らぎ、不可視の壊滅的な一撃が空気を振動させた。ノーガードで完膚なきまでに叩きつけられる権化。いかな生物も即死は間違いなく、隆志は黙祷のつもりで眼を伏せ、そして、そっと開いたとき、予想外の光景に思わずたじろいだ。

 権化は立っていた。こぶしを握りしめ、重い足取りで、確かな一歩を進ませていた。

「そんな……そんなばかな……く……来るな!」

 冷や汗を流し、隆志は再び双頭の守りの力を繰り出す。その顔には明らかな狼狽が、恐怖の色が滲み出ていた。

 どれだけ直撃を食らおうとも足を止めず、よろめくことも、倒れることもなく踏み進み、権化はついに隆志の前に立った。

「無駄だ。私はお前の兄だぞ」

 その一言にすべてが集約されていた。

「あ……ああ」

 がくがくと足をすくませる隆志。いま眼前に立つ男の姿が、とても大きく見えた。

「十年前のあのとき、やりのこしたことがある」

 頬を張る音が寂寞とした荒野に響き、薄灰色の眼鏡が地に落ちる。

 権化が、溜息を吐いた。

「これで気が済んだか、隆志……」

「ごめん……ごめんなさい……兄さん」

 隆志はぼろぼろと涙を流して泣き崩れた。彼もまた悟ったのだ。

 もし隆志が家族というものに対する想いを捨て去っていれば、決して負けることはなかっただろう。彼が羽丘の姓に執着した時点で、この結果は決まっていたのかもしれない。

 するうち隆志の懐から、ロザリオの形をした銀色の鍵がふわりと浮かび上がり、自動的に回転して消え去った。

「さらなる持ち主のもとへ跳んだようですね」

 眼鏡を拾ってかけ直すと、隆志は静かに立ち上がった。そして、兄をじっと見つめる。

「いまの僕には、僕を必要としているひとがいます」

「……ならば、その者のためになってやれ。決して悲しませるな」

「ありがとう――兄さん」

 隆志が無邪気に笑った。遠い昔に戻ったかのようだった。

 翼のはためく音とともに、忌わしい馬頭のシャンタク鳥がやってきた。ナイアーラトテップの崇拝者は、この鱗ある恐怖の巨鳥を使役することができるのだ。

 隆志が鱗に覆われた背にまたがると、シャンタク鳥はふくみ笑いをして空に舞い上がり、果てしなく上昇していった。

 権化は、これが今生の別れでもあるかのように眼を凝らして見送った。



 緑光の刃による一閃が青光の刃を真横に両断した。その余波は刀身から柄まで及び、蒼き彗星を粉砕する。はじけた水飛沫のごとく粉々に砕け散る様は、燃え尽きて崩れる彗星の塵さながらであった。

 信念のかたちが打ち砕かれ、リアはがくりと倒れ伏した。その後ろでヴィエが力なく縞瑪瑙の床にへたり込む。不死兵の力を開放したミィエはあまりにも強く、どうあってもかなわないのだ。

「ずっとわたしのターンでしたね」

 戦闘続行が不可能なほどに疲弊状態のふたりと違い、ミィエはどこか闘いを愉しんでいる感すらある。

「ごめんヴィエ……ここまでみたい。こいつにだけは絶対に勝てない……」

「うぅ……まあ、しょうがないかなあ」

 不屈の闘志も意志も朽ち果てるリア。こればかりはどうしようもないことであり、ヴィエも諦めの吐息を漏らした。

「せめてもの情けです。あなたたちに、ここで世界が変わる様を見せてあげます」

 勝敗は決した。なすすべはなく、もうなるようになるしかない。

 万策尽きたまさにそのときである――ヴィエの眼前に「銀の鍵」が現れたのは。

「そんな……どうして……どうしてそれがここに!」

 最初に反応したのはミィエだった。隆志が所持しているはずの銀の鍵がこの場に出現したということは、その理由はひとつしかない。

「どうやらタカくんがやられたみたいね」

「嘘です!」

 甲高い声がヴィエの言葉をさえぎる。

「隆志さんが負けるはずありません! そんなの、そんなの嘘です! 隆志さんが、そんな……あ、あ、あぁあぁぁッ」

 情緒不安定になって取り乱し、頭をかかえて苦しみだすミィエ。そんな少女の様子を困惑の眼差しで眺め、何とか立ち上がったリアが、あっと声を発した。

 ミィエの額から翠光の紋様が消え、瞳の色も衣服も元に戻った。精神的な動揺が大きすぎて不死兵の力を維持できなくなったのだ。

 へたり込んでいた腰を上げ、一転して余裕の笑みを浮かべるヴィエ。

「逆転勝利……いや、試合に負けて勝負に勝ったってところかしら?」

「っ……まだ終わってません。不死兵の力がなくてもわたしはお姉ちゃんなんかに負けません! カダスが完全に顕現するまでのあいだ、わたしがここを守りきれば……」

「ううん、終わりだよ。それをみせてあげる」

 ヴィエは探し求めた「銀の鍵」をいとおしそうに手にとり、詠唱を始める。手のひらに浮かんだ鍵に五芒星形の純然なる輝きを重ねた瞬間、房室の窓に広がる星の海にオレンジの色彩が現れた。

 それは夕陽を浴びて金色燦然と燃えたつ、壮麗きわだかな都。

「あの黄金と大理石からなる驚異の都こそ、ランドルフ・カーターが幼き頃に見て愛したものの集積にしてわたしの目指す永遠なる在り処なれば……夕日に燃えるボストンの丘陵の屋根や西向きの窓、あまた橋のかかるチャールズ河が眠たげに流れる菫色の谷間にひしめく破風や煙突、丘陵の大円蓋、花の香り馥郁たるコモンの壮観にほかならぬ……この美が長の歳月にわたる思い出と夢想によって形造られ、具体化され、磨きあげられ、とらえどころのない夕映の段庭の驚異となっているのだから――」

 謳うように語りつづけるヴィエ。いまやカダスの居城の目前には夕暮れの瑰麗なる都市が広がっており、それこそは彼女が銀の鍵とエルダーサインを用いて一時的に具現化させたものだった。

 ミィエが愕然とした声を上げた。房室の天井を漂っていた幾つもの球体が、ひとつ残らず窓を通り抜け、壮麗きわだかな夕映の都へと飛翔していったのだ。その球体は大地の神々に見立てたシンボルであり、現におけるカダスの具現を成す核であった。

 かつて大地の神々は、カーターの夢想が創造した壮麗きわだかな都の不思議なる美しさに魅了され、それを渇望するあまり、未知なるカダスの城を離れて神の道を放棄したことがある。ヴィエはそのひそみに倣い、擬似的にそれを再現させたのだ。

 そうしてすべての球体を内包した驚異の都は、星の海に霞んで消えた。

「はい、おしまい」

 なかば放心して立ち尽くすミィエに、すっかり調子を取り戻したヴィエが笑いかける。

「これであなたの存在意義もなくなったわね」

 その一言に、ミィエがびくっと肩を震わせた。

「あなたには誰もが持つ物語が無い。誰の物語にも関われない。あなたがいてもいなくても影響はない。だから、誰かにすがることで物語に溶け込もうとした。あなたにそれを与えてくれたのはタカくんだった。理由なき存在――それがあなた」

「わたしだって――わたしだってお母さんのお腹から生まれたかった……っ!」

 ミィエは、あらん限りの気持ちを声色に乗せて感情を爆発させた。

「わたしはまだ負けるわけにはいかないんです、そうです、まだ」

「いえ、もう命運は決しました。僕たちの負けです」

 新たに加わった声。三人の少女が振り向いた先に、羽丘隆志が立っていた。

 ゆっくりとした歩調で、一番背丈の低い少女のそばに近づいてゆく。

「あの……わ、わたし……わたし……」

 おどおどと身体をすくめるミィエを、隆志はそっと抱きしめた。

「君が僕を必要としてくれているように、僕も君を必要としています」

「隆志さん……!」

 ミィエは涙を溢れさせ、隆志の胸に顔を寄せて泣きじゃくった。境遇、拠り所、求め合うもの、それらを考えると、互いに似た者同士なのかもしれない。あるいは、めぐり合わせさえもが意図されたものに過ぎないのだとしても、充足を得るには充分だった。

「ヴィエちゃん。リアちゃん。本来ならここで別れの長台詞といきたいところなんですが、時は待ってはくれません。この抱擁シーンを締めの言葉とさせていただきまして……それでは、ごきげんよう」

「さようなら、リアさん、お姉ちゃん」

 それはあっという間のことだった。ふたりの足もとにぱっくりと異次元の穴が開き、隆志とミィエは、抱き合ったまま次元の狭間に落ちていったのである。

 あまりに唐突であっさりとした出来事に、リアは即座に反応することができなかった。

「いきなり出てきて……ラブラブ見せつけて……何の感慨も残さずに……最後まで好き放題してくれちゃって」

 空色の瞳からこぼれた涙が縞瑪瑙の床をぽたりと濡らす。

 そんなリアの背中を、ヴィエがぽんぽんと叩いた。気を遣ってくれたのだろうか。

「ありがと、ヴィエ」

「いやそうじゃなくて。早く脱出しないとここやばいわよ?」

「え?」

 きょとんとして周囲を見渡すと、房室のあちこちに次元の穴が発生して渦を巻いていた。それどころか広大な縞瑪瑙の城全体が薄れかかっているではないか。

「カダスを現に具現させていた核が消失したことで、御納戸町を包んでいた事象の崩壊が始まっているの。あと数分もしないうちにすべてが次元の狭間に飲み込まれるわね」

「ちょ、ちょっとまって。ならナイトゴーントに乗って急いで地上に戻らないと!」

「幻夢境の物理法則が消えかかってる状況で降下なんかしたら、途中で現実の法則をもろに受けちゃうことになるけど」

「じゃあどうするのよっ」

「うふふっ、大丈夫よリアさん。いまのわたしにはこれがあるんだから」

 にこりとほほえんだヴィエの手のひらで、鈍くくすんだ銀の鍵が異彩を放っていた。



 幻夢境の物理法則から解放された御納戸町が元の姿を取り戻していく。怪物たちも次々に消え去り、能力者たちから安堵の息が漏れた。

 空を見上げる明石焼き、香月、サイモン、権化。誰の顔にも杞憂はなかった。あのふたりはきっと帰ってくると信じているのだから。

 ふと顔を下ろした香月が、あっと叫んだ。みなが一様にそちらを見る。

 眼前の空間が歪み、二人の少女が現れた。

 歓声が上がった。



 黒々とした山脈が霞んでゆく光景を、丘の上から眺める者がいた。

 それは平行世界の廃教会にいた若き黒人神父だった。

 近くで新たな気配が燈った。振り向いた神父の黒瞳に映ったのは、女の姿をした者だった。

 それは平行世界の図書館にいた白人の女性司書だった。

「これはこれは……確か、シンディ・デ・ラ・ポーアさんと名乗っておいででしたか?」

「そういう貴方は、マイケル・マクシミリアンという名前だったかしら……それとも、ナイ神父と呼んだほうがよろしい?」

「はっはっは。後者はまだ現在進行形でして……このあと星の智慧派本部で、帰還したマグヌスから報告を聞くことになるでしょう。ゆえに過去形であれば前者ですな。それで、何か御用がおありですか?」

「落し物を届けに」

 開いたままの金属製の箱が司書の手に現れ、宙を漂って神父の手元に移る。

「おお……後で回収するつもりでしたが、わざわざご親切に。流石は人間達から善の体現と称される方々の一柱。かつて我等を破りさった旧き神の慈悲はいかにも顕在」

 淡々とした揶揄には取り合わず、司書は様子を窺うように碧眼を細めた。

「今回は双方ビショップをメインに据えたけれど、パートナーにクイーンを用意してくるとは思わなかったわ。それもこちらのビショップに関係するものをこしらえるのだから、相変わらず芸の細かいこと」

「少し強めの一手をと思いまして……まあせいぜいが余興ですがね。しかも急ごしらえが裏目に出たか、ビショップに精神的な依存をしすぎてあの結果です。それに比べ、貴女が用意したナイトは、脆弱ながら実にいい働きをしたものだ」

「彼女らが得た結末は彼女達自身の決断と行動によるものよ。私達は裏から誘導して、事態を自分に有利なほうへと運ぼうと画策しただけ」

「そのとおり。だからこそ人間というものは愚かであり面白い。なにしろ、その愚か者だけが世界を変えることができるのだから……神々が許すなら、いつまででも観察を続けていたいところです」

 深淵の底からいずるような嘲笑とともに、神父の周りを暗黒が染めていく。

「今回はここまでにしておきましょう。……この「世界」という小さなチェス盤には、まだまだ駒が散らばっているゆえ、次の機会を御楽しみにいただくとよろしい。我こそは這い寄る混沌――ナイアルラトホテップなれば」

 闇の中で<輝くトラペゾへドロン>の蓋が閉じた。

 太陽すら浸食しそうな暗黒のなかで哄笑が遠のいてゆく。神父の姿が完全に闇と同化し、ほんの一瞬、三つに分かれた燃え上がる眼が暗闇に燈った。

 対照的に、女性司書の姿は純然たる光輝に包まれて淡い粒子と化してゆく。

「人間の運命は、ルール通りに行われるチェスより、むしろ風に似ているものよ」

 その口もとには確かな微笑が浮かんでいた。

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