第25話「未知なるカダスを現に求めて」前編


 父も、母も、嫌いだった。

 家族なのに血の繋がりがあるだけの異質な関係だった。

 生まれ育ったこの町はもっと嫌いだった。

 だから、郡是という退魔師が僕の両親を殺してくれたことが、とても嬉しかった。

 彼は僕を町から連れ出してくれたばかりか、新しい名字と生活の場を与えてくれたのだ。

 そうして僕は羽丘家の人間になった。周囲の環境もそれまでとは一変して晴れやかになり、これがほんとうの家族というものなんだろうと思った。

 数年後、僕を迎え入れてくれた郡是お義父さんが病で亡くなった。原因不明の病は、きっと僕の生まれた町の、夜刀浦の祟りだったのだ。

 僕は、自分の血脈から逃れられないことを理解した。

 だからこそ、羽丘家の人間であり続けようと思った。家族であり続けようと。

 この想いだけは僕のものなのだから。



 薄霧たちこめる広大な縞瑪瑙の床に、三つの人影が矮小な存在感を示していた。

「夜刀浦の鬼子と忌避されたこの僕が……ついにこんなところまで」

 言い知れぬ感慨を鳶色の瞳に宿して、隆志は、モノクルをかけた灰色髪の男へ顔を向けた。

「アルカへストさんの訃報はまことにご愁傷様です」

「……死んでしまってはどうしようもない。私は、悲願が成就するなら誰が成そうとも構わんのだ。それが私から君になっただけのこと」

 鋭い眼光を途切れさすことなく、マグヌスは淡々と冷酷な言葉を口にした。彼はネフレン=カの墓所を守護する神官の末裔であり、目的はネフレン=カの復活ただひとつ。

 ネフレン=カは、聖書時代の古代エジプトにおいて、ナイアーラトテップを崇拝する邪教集団を率いて王の座を奪還し、人肉屍食が横行する血生臭い時代を築いた暗黒のファラオである。ネフレン=カは一部の配下と共に秘密の地下埋葬所で深い瞑りについており、七千年後に目覚め、世界を支配すると伝えられている。マグヌスは、現代こそが七千年後であり、ネフレン=カ復活による治世の時期が今に他ならないと思っているのだ。

「では私は地上で邪魔者どもの足止めをすることにしよう。送ってくれ、隆志」

「ご健闘を」

 隆志が「銀の鍵」を回転させると、マグヌス・オプスの姿は空間の鍵穴に吸い込まれるように消えた。

「ネフレン=カの復活ですか……実現するとは思えませんけどね」

 静かにつぶやく隆志。<輝くトラペゾへドロン>と「銀の鍵」の力で人類の歴史が大きく変わろうとしているが、最終的に何が起こりえるのかは、彼にもわからない。

 それを知っているものがいるとすれば、ナイ神父のみであろう。

「隆志さん……」

 ミィエがそっと近づいた。青白い輝きに照らされ、いっとき見つめ合うふたり。

 するうち少女が眼を閉じた。隆志が優雅に身をかがめ、顔を近づけていく。

 淡いシルエットが重なって、幻燈的な光がまたたいた。

「さて、僕も地上へ降ります。ここは頼みましたよ、ミィエ」

 澄みわたる純粋な瞳を揺らめかせたミィエがこくんと頷くと、隆志は、このうえもなく優しい微笑を返したのだった。



「しっかし、えらいことになっちゃったわねー」

 洋館の居間でルイボスティーを口にしながら、ヴィエが現状を一言で語った。

 向かいのソファには、突然の事態に驚いて駆けつけたリアが座っている。途中で電話しようかと思ったが、急ぎすぎたあまり携帯を家に置き忘れてきてしまった。

「それで、どういうことか説明してくれるんでしょうね」

 住宅街以外の見渡す限りが、名状しがたき黒々とした山脈と悍ましい凍てつく荒野と化しており、住民のほとんどは眠りについている。

「状況的には去年の秋に起きたものと同じだけど、その深刻さは比較にならないわね。なにしろ伝説の未知なるカダスが現実世界に擬似具現されてるんだもん」

 カダスとは、地球の神である大地の神々が住まう伝説の地で、その所在は大きな謎とされている。<夢の国>においては北方の恐るべきレン高原を越えた先に存在するらしく、遥か北のひときわ高い巨峰の頂には大地の神々の居城が聳えているという。

「それで、このままだと何が起きるの? どうなるわけ」

「それはわたしにもわからないけど……大変なことになるのだけは間違いないわね。それこそ人類と世界の存亡にかかわるくらいの」

「止めるにはどうしたらいいの」

「さっきド・マリニーの時計を使ってみたけど、天空に一つ、地上に一つ、あわせて二つの最重要反応があったわ」

「そこに行って打破すればなんとかなるってわけね」

「そうだね。ちなみにわたしたちが向かうのは天空のほうだよ。たぶんカダスの居城」

「私の同行は決定事項かい。もうひとつのほうはどうするのよ」

「そちらは私が向かう」

「お父さん!」

 隣室から入ってきたのは羽丘権化であった。

「この状況では協力してしかるべきだからな。だが手を取り合うのは遠慮する。猫の手も借りたい状況であっても、餓鬼の手ほど厄介なものはないからな」

「二手に分かれたほうが顔もあわせないですむしねー」

 こんな事態でもこの二人の心は交わらないんだなあとジト汗を浮かべるリアだったが、どうやら仲が悪いというだけの理由でもないようだった。天空の反応は女のもので、地上の反応は男のものらしい。つまり、ミィエと隆志である可能性が高いことになる。

 それならば権化が隆志のほうへ向かうのは当然だろう。

「……リアさんもタカくんのところへ行きたい? わたし、リアさんの気持ちなら考慮してあげるよ?」

 確認するように訊いてくるヴィエ。彼女がわざわざそんなことを口にするのは、リアへの友愛の情か、権化へのあてつけか、その両方か。

 リアの逡巡は一分とかからなかった。

「隆志のことはお父さんに任せるわ。たぶん私よりもお父さんのほうが、あいつのことを深く考えているだろうから」

 自分は隆志よりヴィエを選んだ。なら彼女についていってやるのが最良なのだ。二兎を追うものは一兎も得ず、中途半端な気持ちはいけない。

 リアに抱きついて頬をすり寄せるヴィエ。そんな二人を、権化はやれやれと眺めた。

 それからヴィエは、サイモンの部屋へ入ると、寝相の悪い状態で眠りつづけている恋人をじっと見つめた。彼は「夢見る人」の資質は持っているが、まだ覚醒していないために目覚めることができないのだ。

 愛おしそうにサイモンの頬に手を添えると、ヴィエは彼の唇にキスした。

「行ってくるね、サイモンくん」



 北方の暗澹たる領域に繋がる街路を駆けていくヴィエとリア。

 山脈のふもとが見えてきた頃、行く手をさえぎるように、そこかしこから異形のものどもが溢れだしてきた。蟇蛙のような唾棄すべきムーン・ビーストと、その奴隷である亜人間。空にはビヤーキーが舞っている。

「簡単には通してくれそうにないわね」

「しょうがない、なんとか突破口を開きましょ」

 かくして戦闘の火蓋は切って落とされた。

 戦いが始まってから十数分が経過したが、なにしろ敵の数が多い。倒しても倒しても次々と湧いて出てくるため、なかなか埒が明かない。強行突破したいところだが、集中砲火を浴びて撃墜される確率が高いので、うかつな手段はとれないのだ。

 そのとき、突如、住宅街のほうから三つの物体が猛スピードで突っ込んできた。

 新たな敵かと注意を向けた二人は、それを視認するや、思わずぽかんと口を開いた。人間、予想外のことに出くわすとどうしていいかわからないものである。

 食い倒れ人形が、かに道楽のカニが、グリコの看板が、あらわれたのだ!

 そして、意思を持っているかのように各々が動き出したかと思うと、怪物どもを攻撃し始めた。食い倒れ人形が太鼓を叩くと崩壊音波が亜人間どもを吹き飛ばし、かに道楽が巨大なハサミでムーン・ビーストを切り裂き、グリコの看板から放たれた一粒三百メートルのレーザーがビヤーキーを貫通する、世にも異様な光景が展開された。

「はーっはははははははははは!」

 彼方より響き渡る少女の高笑い。

 何かが空中を走破してきた。まさしく走り抜けてくるという表現にふさわしい、天駆けるそれはペガサスにあらず、二人の少女を乗せたそれこそは、現代の利器――自転車。

 しかもあろうことか、ライト部分では巨大なドリルが偉容を誇らせているではないか!

 そのあまりにも場違いで滑稽な登場に、怪物たちまでも空気を読んだのか、その場が呆気に取られたように静まり返る。

 自転車が空中で停止した。

「大阪の発展は新時代を切り開く便乗の風! 大阪の敷居の低さとなれなれしさは馴染み深さと知れ! 信号が変わる前に渡るとか、不動のひったくり件数一位とか、また大阪かとか、そんなの関係ないっ」

 セミロングの黒髪を頭の左右で下ろした明朗快活な少女が、威風堂々を意識した腕組みポーズで、後部荷台に仁王立ちして熱のこもった声を発した。

「ひとたび住めば、東京人も京都人も地方人も三国人も外国人もおしなべて大阪人の仲間入り。すべての道は大阪に通ず! 大阪の魂が凝縮されたこの轟天号のドリルは、あまねく夢を貫くドリルなれば――「夢見る人」麻生香月、ここに参上!」

「リアっちー、ヴィエちゃーん、助太刀に来たで〜」

 サドルに跨ってハンドルを握る明石焼きが、後部で前口上を轟かせた親友とは対照的な、ゆったりした声を間延びさせた。

「明石焼き! それにえーと……麻生さん? いったいどうして」

「これは私の自転車、轟天号です!」

「いや、そんなことはきいてないんだけど……」

「あたしと香月ちゃんはな〜、夢見る人になってん」

「そうみたいね。確かに覚醒した「夢見る人」の波長を感じるわ。でも……その不思議な自転車と大阪三名物は?」

「それはですねえ」

 滑舌よく香月が事情を説明しだした。

 明石焼きは、朝目が覚めて町の様子を見てびっくりした。家族は眠ったまま起きないし、リアに電話しても繋がらず、こんがらがった頭で何事か念じていたら、へんなものが創り出された。あわてて親友である麻生香月に電話して状況を説明した。こんな事態だが電話は繋がったのだ。

 明石焼きからの電話を受けた香月は、自身も「夢見る人」に覚醒していたとはいえ、電話で聞かされた内容はにわかに信じられず、半信半疑で御納戸町に向かった。町に一歩足を踏み入れた途端、新世界の神事件の記憶を思い出した。それでも茫然とせざるを得ない町の状況に驚きながら明石焼きの家へ駆けつけると、明石焼きはどういうわけか強く思い浮かべたものを創造することができるようになっていたが、どう見ても原型とはかけ離れた不完全な代物だった。そこで香月は思案をめぐらせ、明石焼きに触れてイマジネーションの補佐をしてやると、驚くほど明確なイメージの産物が創り出されたのだ。

 そうして香月は、自分の愛用の自転車をドリル装着&空中飛行機能つきで明石焼きに創造させると、二人して乗り込み、異界化した御納戸町を空から見回しはじめたところ、リアたちの姿を見つけたというわけである。

「そっか……奇跡的な複合効果が空想具現化なんてものを可能にしているのね」

 ヴィエは感心げにつぶやいた。いくら夢見る人でも「空想具現化」という超自然的な能力を行使できるはずはない。明石焼きの身体と融合しているレン高原の縞瑪瑙と、「夢見る人」の力、そして幻夢境の物理法則に浸食された町の影響だと考えると納得がいった。

「さあここは私たちに任せて、いったんさい、いったんさい♪」

「いや、でも……」

「わかった、ありがとー」

 戸惑うリアだったが、ヴィエは彼女を引っ張ってナイトゴーントの背に乗った。そのまま上空へ飛翔したので飛び下りるわけにもいかず、やむなく体勢を整えるリア。

「ちょ、ヴィエっ」

「あのふたりのことなら心配要らないわよ? 今の状態なら反則レベルのことも可能だと思うし」

「そ……そうなの?」

「たぶんね。だからわたしたちは、未知なるカダスの居城目指してゴーゴー!」

「いってらっしゃ〜い」

 少女二人を乗せた夜鬼が遥かな北方の峰々へと遠ざかる。明石焼きがほがらかに手を振って見送った。

「さあ気張るわよー。これだけ好き放題できる機会はまずないやろーし!」

 空気を読み終えて動き始めた怪物たちを見渡して、麻生香月は、それはもう愉しそうに後部荷台に立ったままポーズを決めるのだった。



「だいぶ片付いてきたかなー。いやしかし、それにしても酷いにおいやねー」

 思わず鼻をつまむ香月。怪物の数はまばらになってきたが、おびただしく散らばるムーン・ビーストやレンの亜人間の死骸から漂う悪臭は胸のむかつくほどであり、顔をしかめるばかりだ。

「あたしら臭い目にあわされとるー」

 明石焼きも線目で涙を流していた。

「うーん、もうこのへんが頃合かな……っと、わぁ!?」

 そろそろ撤退するべきかと思った矢先、眼前に砂嵐が生じた。轟天号のオートバリアがかろうじて防いでくれたが、下方では、すさまじい勢いの砂槍が崩壊音波を突き抜けて食い倒れ人形の胴体を貫き、バラバラに四散させた。

 砂が飛んできた方向に眼をやると、灰色の髪をした顔色の悪い不気味な男が、自転車と同じ高さの空中に浮かんでいた。

「よもや空想具現化を行使できる者がいるとはな……しかもそれが術者でも能力者でもない只の夢見人の小娘というのだから、世の中はなんと不可解なことが多いものよ」

「うわ、ボスキャラ?」

「私は『星の智慧派』の司祭、マグヌス・オプス。我が力をみよ」

 マグヌスが五指を広げると、砂の塊が砲弾のごとく撃ちだされる。ネフレン=カの墓所の上を覆い尽くす砂漠の砂、彼はそれを自在に操ることができるのだ。

 砂弾の一撃目は轟天号のバリアに弾き返されたが、二撃目は貫通して後部に立つ少女の顔面を直撃した。仰向けに倒れかけた身体を必死に踏ん張って立て直し、香月は涙目で頭をくらくらさせた。

「香月ちゃんだいじょうぶー?」

「う、あ〜、脳震盪おこすかと思った……あんなの何度も喰らったらお陀仏だわ。明石焼き、回避しつつ攻撃!」

「なんと……直撃を受けて大事に至らぬだと? どうやら侮れぬようだ」

 レン高原の縞瑪瑙と融合している明石焼きがそばにいることで、夢見る人としての香月の防御耐性が著しく上昇しているのだが、この場の誰も知りえることではない。

 戦闘機並みの運動性能で攻撃を回避する自転車。特殊な重力制御が働いているのか、外部干渉を受けない限り、運転する明石焼きはもとより後部に立つ香月もバランスを崩すことはない。

 轟天号の各部からミニドリルが一斉発射されるや、ミサイルのように、宙に浮かぶ男めがけて飛んでいく。しかし、マグヌスの全身を取り巻いた砂塵によって全弾防がれてしまった。

「そんなもので暗黒のファラオの墓所に連なる砂を破れるものか」

「あかん、砂バリアーや。どうするん香月ちゃん」

「防御してくるってことは、当たればダメージは通るってことなんやろうけど……」

「はっ、逆転ホームラン! それやったら、防御されても当たりにすればええねん」

「なんというテラチート発想……いや、そうか、それや!」

 ピンとひらめき、香月は明石焼きにごにょごにょと耳打ちした。明石焼きが念を集中し、空想を具現化させると、香月の手のひらに極小サイズのCR機が現れた。

「よしっ、明石焼き、しばらくのあいだ回避に専念しててっ」

 CR機に手を添えてパチンコを始める香月。言われたとおり回避に専念する明石焼きだが、執拗な砂の攻撃は完全に振り切るのは難しく、徐々に追い詰められていく。

 ぜえぜえと息が切れ始める明石焼き。焦る香月。

 その時――画面にマークが三つそろった。

「きたぁーっ! 確・立・変・動!!」

 画面に確変大当たりの映像が流れ、香月はすぐさま攻撃を指示した。

 多数のミニドリルがマグヌスへ飛来する。それらは彼を取り巻く砂塵に阻まれ、先刻同様その場で爆発した。

「愚か者め、効かんと言って――ぐぉぉ!?」

 直撃を受けたかのように身をよじるマグヌス。攻撃は全て砂塵が防いだはずなのに。

「馬鹿な……何故だ」

「あなたが攻撃を防御する確立をゼロに変動させたのです。本来命中するべき攻撃は、すべて当たったものとして事象変換されるのですよっ!」

 得意満面で人差し指を突きつける麻生香月。

 マグヌス・オプスは、ぎりりと表情を歪ませ、初めて感情の起伏を見せた。

「うぬぅ……空想具現化、おそるべし」



 黒々とした山脈の下、霧にまぎれた寂寞とした荒野で、隆志は詠唱をつづけていた。これはカダスの具現を早めるものであり、あと一時間もすれば世界が塗り変わる。

 その場にひとつ、気配が現れた。予期していた人物だった。

 十メートルの距離を挟んで対峙したのは、錫杖を手にした長身禿頭の偉丈夫。

「来ましたね――兄さん」

 恭しく両手を広げ、隆志がうっすらと冷笑を浮かべた。

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