「勿忘草」


 これは二月の冬の小さなはじまりの話。

 少女と名も無き聖者とフォーゲットミーノットの物語。

 屋敷の食卓で少女がひとり、冷めた朝食をとっていた。一月に誕生日を迎えて十二歳になったばかりの少女は、肩上までの黒髪と色白の肌で、人形のように端正な顔立ちが印象的だった。

 その風貌にふさわしい物静かな表情で黙々と食べ物を口にいれていく。両親と兄は一時間も前に食事をすませ、それぞれ仕事と学校に出かけた。少女は幼少時から朝が遅かった。両親は彼女を起こすことも一緒に食事をとることもしない。跡継ぎである息子がいればそれでよく、娘にはかまわない。息子も親のしつけで妹には接しない。幼い頃からそうなので、少女も目覚まし時計を無理に早めようとはしなかった。

 だから少女はひとりで、感情の起伏も少なげだ。

 朝食を終えたあと、いつもぎりぎりで学校に行く。淡々とした学校生活を送る少女に友達はいない。午後の授業がない土曜は、彼女のためだけに用意されたレトルト食品をレンジで温めて食べる。母親手作りの冷めた朝食よりおいしいと感じていた。高校生の兄は部活で夕方まで帰ってこない。

 少女の名前は白夜という。

 自室の壁にかけられた一枚の絵画。薄暗がりの野営地で天使と格闘する筋肉質な男がひときわ目につく絵。ドラクロワ晩年の傑作『ヤコブと天使の闘い』である。神が試練として天使の姿を借りてヤコブと取っ組み合いの格闘を行い、ヤコブが勝利することで神の祝福を得てイスラエルという名を授けられ、ユダヤ人の祖にしてイスラエルの国名の由来となるのだ。

 旧約聖書におけるイサクの子ヤコブは、兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得たという。しかし自分がそんなふうになることはないだろうと、白夜はその絵を見るたびにぼんやりとした物思いに耽るのである。兄から命を狙われて逃亡することになるのも面白いかもしれないと、そんなことを考えたりもした。

 そうした夢想から我に返ると、少女は身支度を整えて散歩に出た。白いベレー帽を頭にかぶり、白のケープを肩にかけた白一色の服装は聖歌隊の一員のようだ。実際彼女はミサに行かないまでも、賛美歌や聖歌のCDを買ってよく聴いていた。中世のグレゴリオ聖歌の単調な荘厳さや近代クラシカルな教会音楽の壮美さも好きだ。

 外は晴天だがひんやりと冷たい外気、吐く息が白く染まる。彼女のまわりはスノーホワイトの世界だった。

 目的もなくぶらぶらと住宅街を歩いていると、馴染みの小さな教会にさしかかった。教会の品物が好きな白夜は吸い込まれるように売店コーナーに足を踏み入れた。十字架や聖人のイコン、メダイ、スカプラリオ、祈祷書やCDなど、見ているだけで心が湧き立ってくる。彼女が強く胸動かされる唯一の関心ごとである。

 ふと、ひとつの品が少女の心を捉えた。新しく入荷されたものだろうか、それは淡い青色のメダイで、表面に一人の聖人の立像が浮き彫りにされてある。ひどく好奇を揺り動かされた白夜は店員に質問してみたが、その聖人が誰なのかはわからないという。一度惹きつけられた気持ちは夢幻に誘われた露であり、霧散することはない。少女はメダイを購入してその場で首に提げた。

 冬の青天白日そのままに晴々とした心を浮き立たせ、白夜は自分のお気に入りの場所へ足をやった。そこは街外れのなだらかな丘。よどみのない清涼な空気に満たされながら自然の安らぎを感受する、もっとも幸せなひととき。

 そして彼女は見たのだ。

 丘の地平線にあたる部分、平原の縁に生えた一本の常緑樹。

 その緑茂る枝葉の下、天と地の境に、一人の男が立っている。

 それは――聖人であった。

 遠目にも明らかにそれとわかる白い修道服を身につけた彼は聖者以外の何者でもない。白夜にはその思いだけが充満しており、彼女にとってそれはそうなのだ。

 気がつけば平原を走っていた。陽光のあたたかさと肌に染み入る寒さの渾然も、いまの少女には空一面にひろがる青金石の泉から浸透する雫に過ぎず、はずんだ息が落ち着く頃に木漏れ日の傘の影に到着することができた。そうして見上げると、聖人は幻のように消えてしまうことはなく、そこに在った。

「わたし……白夜! あなたは、聖人ですか?」

 少女の名乗りと質問に、ひと目見て外国の人間とわかる男は、穏やかな青い眼差しで微笑を浮かべた。

 白い帽子とケープの少女。白い修道服の男。

 いっとき見つめあうふたり。

「私は聖人だが、名前は無い」

 なめらかな日本語で彼は言った。少女は鳶色の眼を丸くした。

「ないのですか」

「洗礼名を授けられなかったのだ。本来の名前も捨て去った」

「それなのに、聖人になれたのですか?」

「そうだ。私は主の啓示により名も無き聖者となった。遠い、遠い、遙かな昔日のこと」

「どれくらい昔なのでしょう」

「年月を数えるのに意味があるのなら、千数百年は昔になるだろう。信じられないかもしれないが」

「信じます。あなたは聖者様です。わたしの心がそう感じているから」

「きみは、私に関心を抱くことができたのだね」

 その言葉には重大な響きがこめられていた。だから少女は全身全霊をこめてうなずいてみせる。

 彼女にできる精一杯の態度に、聖人は口もとを柔和に綻ばせた。

「私は主から役目を与えられた。時代の流れ、世界の変化、人類の行く先を、いつ終わるとも知れず見てゆくこと。その瞬間から私は<時>と<死>から切り離された。私は世界の傍観者。誰に干渉することもできないかわりに、誰の干渉も受けることはない」

「とても、とても、重く儚い使命を背負っておられるのですね。では、どうしてわたしはこうしてあなたに干渉することができたのですか?」

 きみは私に関心を抱くことができたと聖者は言った。その理由を知りたい。同時に、ある期待に胸がふくらんだ。もしかしたら。もしかして。

「私にはたったひとりのみ、道連れを得ることが許されている。それは私を永久に愛せることができる資格をもつ乙女。その女性に、数えるほどだが出会ったことがある。しかし、遙かな歳月のあいだ、私はずっとひとりだ」

「どうしてなのでしょう」

「私の道連れとなることは、世界の何事にも干渉できなくなる。誰からも認識されなくなるのだ。そんな私の伴侶となることをどんな乙女が望むだろうか」

 ああ、ああ、少女の期待はかなえられたのだ。

 白夜は片手を自分の胸に添えて、まっすぐな瞳で聖人を見つめた。

「なら、それはわたしです。わたしなのです」

「きみが? 愛せるというのかね? 初めて会ったばかりの、それも、容姿がきみと大きく離れている年輩の私を?」

「これは恋です。人が立派な聖人になるには何年もの月日が必要ですが、一目惚れは一瞬です。わたしはあなたに恋をしています。それは愛となるでしょう。むしろこんな年端もいかない小娘でしかないわたしを、あなたは愛してくださいますか?」

「私は、私を永久に愛せる乙女であれば、どんな女性でも愛することができる。しかしきみは、傍観者として世界の行く末を見届ける意志があるというのかね?」

「ひとりよりふたり――ふたりはひとりよりまさっている。旧約聖書の言葉ですよ。わたしは、あなたがいてくれれば、どんな労苦も良い報いとなりえます」

 少女の想いは心からのものであり、一片の嘘偽りもなく、永久に続くことが約束されていた。なぜなら、そうでなければ、天の劫火がこの場で彼女の身を焼き尽くしているからだ。

 聖人は胸元で十字を切った。

「では、私に名づけたまえ。その瞬間、きみは私の道連れとなる」

 木漏れ日のきらめきを受ける白夜の脳裏に、先刻、遠くから初めて聖人を眼にしたときの光景が浮かぶ。青空の下、地平線に立つあの姿。

「ホリゾン……あなたは聖人ホリゾンです」

「おお。私はホリゾン。これできみの名を呼ぶことができる。私の道連れ、私の伴侶、永久なる白夜よ」

 少女は頬を桜色に染め、そっと瞳を閉じた。

 しずかなそよかぜになでられながら、ふたりのくちびるがかさなった。

 こうして少女から<時>と<死>は離れていった。

 白夜はフィンランドの賛美歌「だれが青空を創ったか」を唱った。澄んだ歌声が平原に溶けてゆく。

 そのとき、風がざわめいて枝葉を揺らし、冬の陽射しが降り注いだ。するとふたりには見えた。視界にほのめく淡い青。頭上から落ちる光のすじのきらめきに包まれ、冬だというのに淡青色の花を開かせた勿忘草があたり一面に咲き誇っていた。

 その不思議な光景は、少女と聖人への福音であるかのよう。

 さわさわと風にそよぐ勿忘草の青、それは少女が首にかけたメダイの色だった。

 白夜は、永遠の伴侶となった傍らの聖者を見上げ、ふっと口もとを緩めた。

「では旅立ちましょう。そしてこれからはふたりで世界の行く先を見届けましょう。いつかわたしとあなたが神の御許に召される日が訪れるそのときまで」

 彼女が初めて浮かべる、ほのかな優しい笑顔。

 これは二月の冬の小さなはじまりの話。――少女の黎明と聖人の春の息吹の物語。

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