「今日という日を」


 月代彩という名の少女が、一人の青年と、その関わりある人物たちの想いによって救われてから八ヶ月近くが経過した、桜舞う季節のとある土曜の午後。

 義妹であるところの丘野ひなたが、鳴風みなもの家で暮らすようになってから、丘野家は、一人の青年と一人の少女が二つで一つの道を歩む同棲の場と化していた。すなわち、丘野真と月代彩である。

 この日の丘野家は、居間に一組の客を迎えていた。

 桜井舞人と里見こだまという名の、真とほぼ同年代の男女は、同様に恋人同士という関係である。二人は桜坂市なる町の住人で、真たちが住むこの風音市に来るのは二度目だった。最初に風音市を訪れた際、ひょんなことから真と彩に出会い、仲良くなった。そのときの状況がかなりのインパクトを誇っていたことは、その引き金を引いたのがクールでハードボイルドを自称する青年であったという事実に所以する。


「今日はコンビーフの秘密について聞かせてやろう。ニューコンビーフというものがあるが、新しいと銘打たれながら実際は二倍近くもコンビーフに値段で負けている。これは両性具有の新人類といえども、所詮は中途半端な混在者に過ぎず、やはり男と女という絶対の不文律を説く警鐘と言えるわけだ。そこでコンビーフの「コン」は、どういう意味なのか気になるところだろう」

「肉の塊のコンって意味じゃないか?」

「牛や馬の肉が入っている、混合の混かもしれないよ、丘野君」

「お、お前ら、人が三分もかけて考えたツッコミどころをさらりと流すな……」

「コンビーフのコンは、塩漬けの意味なんですよ」

「そうなのか?」

「へえ〜、物知りだね、彩ちゃん」

「いえ、そんな……」

「あーこらこら、そこのお嬢さん、挙句に話題までかっさらっていっちゃいけません。いまこの場で博識のハードボイルドとして注目と尊敬の眼差しを浴びるのは、桜坂学園の文芸部部長・桜井舞人クンにのみ許された特権なんですから」

 言いながら、舞人は心の中で「へえー、そうだったのか」と感心した。

「ご、ごめんなさい」

 ぺこりと謝って、隣に座る真に苦笑してみせる彩。テーブルを挟んだ対面のソファでは、こだまの横で舞人が腕を組んで頷いていた。

「謙虚なのはいいことだ。さて、今から諸君はものすごいトリビアに、へえーボタンも大気圏を突き抜けて宇宙で雫内音頭を踊ってしまうだろう俺の雑学に恐れおののき、思わず歓声を上げることになるからメガホンの用意を忘れても知らないぞ? じゃあいくぞ、いいか、コンビーフの秘密は――」

「あ、お湯が沸いたみたい」

 すっくと腰を上げて台所へ向かう里見こだま。客人に手を煩わせるのは悪いと、彩が背中を追った。熱弁を振るう途中で彫像のごとく固まった文芸部部長を瞳に映し、真はジト汗をひとすじ流すのが精一杯だった。

「それで舞人君、続きは?」

 四人分のカップ焼きそばにお湯を注ぎ終え、ソファに腰を下ろしたこだまの悪気の無い爽やかな声。半分を手伝った彩もちょこんと定位置に戻る。

「あー、残念ながら本日のさくっち放送はたったいま終了してしまいました」

「ええー、なんで?」

 びっくりしたような表情。舞人は「お得意の説教中に話をそらされたらどう思いますか、こだまさん」という言葉を発しかけたが、自分が彼女にそれをやってのけたのを思い出し、目をそらすように対面の二人を見た。途端、二人は続きを聞きたそうな顔に変化した。

「そこまで探求の心意気を見せられては仕方ないな」

 再び腕を組んで満足げに頷く舞人。

「じゃあお言葉に甘えてお聞かせしよう。いいか! コンビーフの秘密は」

 アラームの音がその後の言葉をかき消した。

「あ、三分経ったみたい」

 すっくと腰を上げて台所へ向かう里見こだま。客人に手を(略)――

 二人の少女がキッチンでカップの流し口からお湯を捨てている最中、舞人はぷるぷると、ひとり居間に残って苦笑いを浮かべる真に向き直った。

「ぷ、ぷじゃけるなよ貴様らぁぁーーーーっ!!」

「俺に言われても……」

「へへっ、右の頬をぶたれたら左の頬もぶたれちまった気分だぜ……草葉の陰でマリア様が見てるっての」

 なんとなく乾いた涙が見えた。

「真、お前なら分かってくれるよな?」

「タメ口きくのは構わないんだけど、俺、一応お前より目上なんだけどな」

 舞人は三月三日に十八歳の誕生日を迎えた。真は四月十三日に十九歳の誕生日を迎える。

「なんと、真兄貴は俺に淫乱肉奴隷になれと申されますか!」

「いや、そんなことは……って、その真兄貴って言い方やめてくれ。超兄貴じゃないんだから」

「ほうほう。では俺より一つ年上の真さんは、同じく大学一年生にあらせられる、俺のか、かっ、かかか…………彼女さんをどう思いますか?」

「う……」

 真は明らかに口篭もった。視線はキッチンでカップ焼きそばに薬味を入れている二人の片割れ、桜井舞人の彼女さんに吸い付く。最初に会った時は、自分と同じ歳だとは想像もつかなかった――どころか、○学生と思ってしまったなどとはとても言えない。

「べ、別に」

「あれ〜、今の間は何なんです? えらく言葉に詰まってましたけど?」

「ああもう、わかったわかった。普通に話し掛けてくれていいよ」

 真は負けを認めた。別に先輩風を吹かしたいわけでもない。そして、ほんのりと湯気を放つ、ソースと青海苔の香りが漂うカップを二つ持った彩とこだまが居間に戻ってきた。

「何の話してたの?」

 と訊くこだまに、

「超兄貴×淫乱肉奴隷について熱く議論してました」

 さらりと返す舞人だった。

 テーブルに並ぶ四つのソース焼きそば。ふと、彩と目が合った舞人は、自称クールでハードボイルドな表情を作り、自分の焼きそばを指差した。

「ふふふ、可愛い子猫ちゃんが俺に食べられたくて熱く体を火照らせてるぜ」

「そ、そうですね、冷めないうちに食べましょうか」

「こら、簡単に流すな……くそ、同じ「ひかり」のくせに姐さんとえらい違いだ」

 ぶつぶつと呟く。このメンバーのノリとツッコミの悪さはなかなかのものだった。

「駄目だよ舞人君、口に物を入れながら喋るのは」

 割り箸を置いて、人差し指を立てながら注意するこだま。その姿は某なぜなに撫子の瑠璃お姉さんにしか見えない。舞人はビッと彼女の顔を指して言った。

「こだまさん、口元に青海苔くっ付けて言うセリフじゃないですよ」

「えっ、えええっ!? うそっ!」

「嘘です」

「…………」

 見る見る真っ赤になる童顔。うるうるとした上目遣いが睨んできた。

「も、もう……っ! 今度そんな冗談したら、怒るからねっ!?」

 怒っても怖くないけど――と思いながら、はいはいごめんなさい、と一応真剣に謝る舞人。

 その様子を微笑ましげに眺めていた真が口を出した。当然、箸は休めている。

「俺の友達に、お前に似たやつがいるよ」

「ははは、そんな馬鹿な。この桜井ハンサム之介ほどのクールビューティーが世の中に二人といてたまるものか」

「いや、顔じゃなくて……性格というか雰囲気がな」

 真の脳裏で眼鏡をかけた似非関西弁男が笑っていた。


 台所にカラになったカップ焼きそばが並んだ。

「何だかさっきから俺ばっかり喋っているような気がするぞ……」

「ここまでの状況を文章にしたら、舞人君のセリフが半分を超えちゃいそうだよ」

「だああっ、四人もいながら俺だけ盛り上がってどうする! 仕方ない、俺のネタ帳を貸してやろう。本来なら超トップシークレットなのだが、こだまさんには特別だ。これを台本代わりに童話作家デビューを果たすがいい」

「い、いきなりだね」

 不覚にも受け取ってしまった里見こだまさん。

「桜井さん、本編のセリフを微妙に改変して持ってくるのはどうかと思います」

「うわっ、さり気なくキワドイ発言して驚かせてくれるね彩ちゃん……ようしわかった、里見こだまの相方は君に決めたっ!」

「えええっ!?」

 ポ○モンボールのように投げられたノートをしっかりキャッチしてから悲鳴を上げる彩。

「このジェシーというキャリフォル二アギャルが彩ちゃんの役どころだ、頑張れ」

「そう言われても……」

 ちらちらともう一人の青年に目配せで助けを求める彩だったが、面白そうじゃないかという表情が返ってきた。

「いいじゃないか、やってみたらどうだ。頑張れ」

「真さんまで……うう、わかりました。まあ私は本来活発な女の子の役が得意なようですし」

 またまたキワドイ発言が飛び出す彩に内心ドッキリしている舞人。いずれはこの俺さえも使ってくれる――などとよく分からない事を考えていると、困り顔のこだまと目が合った。

「あの、舞人君、本当にやるの?」

「何を言ってるんすか、こだまさん。文化祭のピーターパンで子供たちの歓声を浴びた実力の見せ所ですよ!」

「やだ、もう、それほどでもないんだからね」

 確かに演技はそれほどでもなかったですけど――と舞人は心の中で付け加えた。

「よし、じゃあ二人とも位置に付いて」

 向かい合って頭を下げる彩とこだま。そうやって並ぶと、身長はほぼ同じ。髪型も体型も似ていて、双子の○学生姉妹と言っても誰も疑わないだろう。唯一の相違点は胸の膨らみなのだが、本人たちにとっては余計なお世話以外の何者でもない。

「演目は脚本ナンバー23『私のお医者様』だ。トチったら容赦なく地獄突きだから、そのつもりで。それじゃあ……よぉーい、スタート!」


 彩「ああどうしましょうこまったわ」


 ずどごっ!

「ぐぼぉえっ!!」

 地獄突きを食らった真が蛙の潰れたような苦鳴を吐いた。

「ま、真さんっ」

「舞人君、なんてことするの!」

「なんてこともヘチマもありますかっ。もっと感情を込めろとゆーに。そんなことじゃ立派な喜劇作家になれませんよ?」

「童話なんだけど……」

「お、おい、何で俺が攻撃されなきゃいけないんだ」

 身体を九の字に折りながら、ぷるぷる震える真。

「国に帰るんだな、お前にも家族がいるだろう」

「そうか……じゃあ里見さんがトチったら、俺がお前に地獄突きな」

「いヤン、顔が怖いですワ、真サン」

 冷や汗まじりで振り向き、

「ということで、僕の命運はあなたの双肩にかかったので、大切な年下の彼氏を護る乙女の精神で頑張ってください、こだまさん」

「う、うん……」

 こだまさんは苦笑いだった。

「それじゃあテイク2! よぉーい……スタートっ!」


 彩「ああどうしましょう、困ったわ」

 こだま「ハ〜イ、ジェシー!」

 彩「あらジョニー」

 こだま「浮かない顔してどうしたんだい? キュートな顔が台無しだぜ」

 彩「ちょっとね、困ったことがあるのよ。ジョニー、あなたいいお医者さん紹介してくれないかしら」

 こだま「なんだって? そいつは大変だ、大学時代の親友に当たってみるよ。何科の医者がいいんだい?」

 彩「有能なお医者さんだったら何科でもいいわ」

 こだま「何科でもいいだって! 君はいったいどんな病気なんだい?」

 彩「病気? あら、誰が病気だって言ったのかしら」

 こだま「だって君は医者を紹介してくれと」

 彩「そうよ。だって私、カレに振られちゃったんですもの。どうせなら、新しい人はお金持ちがいいじゃない」

 こだま「オー! マイガーッ!」


 こだま「ユーアークレイジー! ユーアープッシィ! プッシィ! プッシィ……」


 いよいよラストというところで、思わず躊躇するこだま。ぎょっとして隣を向く舞人だったが、真は今にも吹き出しそうな感じで、地獄突きの事など忘却のこの海に沈めたようだ。ちなみに内容よりも二人の演技に爆笑寸前なのは言うまでもない。

 こだまは意を決すると、羞恥心を振り払ってトドメの台詞を口にした。


 こだま「イカレてやがるぜ、この牝猫ちゃんはよォ! ヘイ、ベイベェ! オレのマグナムであんたのケツの穴をノーフューチャー! ノーフューチャー!」


 我慢できずに吹き出してしまった真の笑い声を歓声代わりに、舞人が二人に拍手喝采を送る。

「いやあ、名演でしたよこだまさん。これなら今すぐにでも銀幕デビューできますって」

「私、舞人君のユーモアとセンスは尊敬してるつもりだけど……たったいま、その想いが揺らいだところだよ」

「ははは、それは幻聴です。夏の雪山に遭難して吹雪の中に見えたイリュージョンです。早く目を覚まさないと凍死しますよ? 里見こだまの信じる桜井舞人はここにいます」

「ほんと、勤にお前を紹介したくなってきたよ……」

 本気で感心している真の隣で、彩も苦笑して頷いたのだった。


 夕刻、真と彩が夕食の買出しに出かけることになった。

「俺たちが来るの分かってたのに用意してないなんて、友達甲斐のない」

「早朝に電話かかってきて『今日そっちに行くから楽しみに待っておくがいい』なんて言われて、四人分の夕食が用意できてると思うのか。しかも泊まりに来るなら前もって連絡ぐらいしてくれ」

「ごめんね、丘野君。私も今朝に電話もらってびっくりしたんだよ」

 申し訳なさそうなこだまの表情が真実だと物語っていた。困ったような顔が多いのは桜井舞人という彼氏の存在が原因なのだろうが、不思議と嬉しそうな面も垣間見えるのが、二人の関係が良好だという証にも受け取れる。

「ところで二人とも留守にしていいのか? 怪盗・桜井アルセーヌ舞人三世が現れないとも限らないぞ」

「里見警部、怪盗が現れたら逮捕お願いします」

「うん、任せて」

「合鍵はそこに置いてあるから、外出する時は鍵をかけるの忘れずにな」

 二人の事を完全に信用した上での態度だった。そして、それは間違ってはいなかった。




 茜色に染まりゆく街路。商店街へと続く道すがら、雑踏を抜けて小さな公園を通り抜ける最中、水の枯れた噴水の辺りで彩は立ち止まった。気づいて足を止めた真の双眸に、夕暮れに映える少女の顔が揺らめいた。

「もうすぐ真さんの誕生日ですね」

「そういやそうだな。去年は賑やかだったけど……今年はどうなることやら。とりあえず、一人っきりの誕生会になることだけはなさそうだ」

「…………あ」

 自分を見つめてくる真の言葉の意味に、彩は頬を桜色に染めた。今回は満面の笑顔でもって、彼の誕生日を祝う事が出来そうだ。

「誕生日か……彩はいつなんだ?」

 不意に言われた。少女の両目に驚きの色が浮かんだ。

「できれば、彩の誕生日を祝ってやりたい」

「でも、私は」

「旧暦とかの問題があるんだろうけど、教えてくれないか。無理にとは言わない」

 彩は沈黙した。真の気持ちは痛いほど嬉しかった。無論、自分の生まれた日は新暦に変わった現在でも忘れてはいない。そして、だからこそ彼女はこう答えた。

「それは……真さんが決めてください」

「俺が?」

「はい。私の今があるのは真さんのおかげです。ですから、新しく始まる私の誕生日は、真さんが決めてください」

 舞い散る木の葉を彩る、透き通るような笑顔。

 真の脳裏をよぎったのは、彩が千年の縛鎖より解き放たれ、救われたあの日。

 だが、次に彼の記憶の海に浮かんだのは――

「なら、今日にしよう」

「えっ」

「彩、今日という日を覚えてるか?」

「…………」

 ゆっくりと記憶をめぐらせる彩。その辿り着いた先に、ハッとして青年を見上げた。

「真さんと……初めて会った日」

 そう。彩が救われた日ではなく、二人が初めて出会った日を真は選んだのだ。見る見るうちに彩の目に透明な雫が溢れてくる。

「彩」

「真さん……」

 彩はそっと眼を閉じた。その肩に手が添えられ、二人の唇は舞い散る木の葉の中で重なり、赤黒く染まった影法師が地に伸びた。唇の感触から伝わってくる温もりと想いが、互いの心を繋ぎ合わせていた。

 そこでガサッと音がして、第三者の介入があるのもまたお約束。

 噴水から離れた木々の茂みから、バランスを崩して転がり出てきた桜井舞人と里見こだまを瞳に映し、真と彩はあわてて身体を離した。

「ち、違うの! 私、止めたんだよ? 止めたんだけど、舞人君、聞いてくれなくて……」

「俺一人で行くって言ったのに、ついてきたこだまさんも立派な共犯者ですよ」

「あ、あうう……」

 つまりはそういうわけらしい。

 呆気に取られている二人に気づき、舞人とこだまは、「ごめんなさい!」と同時に謝った。

「……まあ、いいけど。ところで俺たちの会話も聞いてたのか?」

「いや、さすがに喋ってる内容までは聴こえなかった」

 その返事に真は彩と顔を見合わせてホッとした表情を見せる。キスシーンを見られたのは恥ずかしいが、誕生日云々の意味を訊かれる方が面倒だった。説明してもとても信じてもらえるような内容ではないからだ。もっとも、真が桜坂市にある不思議な桜の丘のことを知っていたなら話は別だったかもしれないのだが。

「邪魔しちゃって本当にごめんね。それじゃあ、戻ろっか」

「そうっすね、おとなしくお留守番に興じておきますか」

 そう言って、つい、こだまの頭をナデナデしてしまった舞人。

「もうっ、舞人君っ! 私、子供じゃないんだよっ」

「それでは俺たちはこれで。後はお二人で心ゆくまでお楽しみください、うっしっしっ」

 手と手を繋いで遠ざかっていく一組のカップル。見送る側も、皆等しく、黄昏は舞い降りるのだった。

「さて、そうと決まればケーキを買いに行くか?」

「そうですね。桜井さんと里見さん、実は今日が私の誕生日なんですと言ったらびっくりするでしょうね」

 微笑する彩の手を取って、歩き出す真。群青色に変貌する空の下、街灯の明かりが燈り出した公園を二つの影が通り過ぎていった。




「これでは俺たちが只の狂言廻しで終わってしまうじゃないかぁぁっ!!」

 丘野家の居間で突然のオーバーリアクション。桜坂学園三年、文芸部部長・桜井舞人は健在です。

「私をその頭数に入れないでほしいなぁ」

「またまた〜、一緒にキスシーンを覗いた痴女が言える事ですか」

「ちっ、ちちち…………舞人君っ!!」

 両の拳を握り締めて、全力で怒りをアピールするこだま――子供が怒っているようにしか見えない――の肩を、舞人の手が掴み寄せる。互いの息が触れる距離に顔が近づき、こだまの胸の鼓動が高くなった。

「こだまさん、しましょう」

「えっ、ななな、なにを?」

「恋の軽い翼で飛び越えました」

「…………」

 たちまち耳まで真っ赤になるこだま。対する舞人の心臓も早鐘のように鳴り響いていた。

「だ、駄目だよっ! ここ、人の家なんだよ……っ?」

「でも、今日という日の桜井舞人と里見こだまの物語は、今しかクライマックスを迎えるチャンスがないんですよ? このまま狂言廻しの役どころで終わっていいんですか」

「あのね、舞人君。アーサー王伝説のケイ卿って知ってる? アーサー王の乳兄弟で宮廷の国務長官なんだけど、助言はたいてい間違っているし、口を出せばトラブルのもとになっちゃうような人なの。でもこの人がいないと物語が進まないのも事実で、だから、狂言廻しっていうのは物語には欠かせない大事な――」

 お説教モードに突入したこだまの口を、舞人は唇で塞いだ。強硬手段に驚いて目を見開く少女を、そのままソファに押し倒してから口を離した。こういう手合いは押しの一手だと、野暮なアドバイスをくれた保健室の悪魔の言葉が蘇っていたかは分からない。

「こだまさん、しましょう」

 もう一度、言った。

「もう……いけない……ことなんだよ……」

 少女の身体から抵抗する力が抜けた。

「途中で丘野君たちが帰ってきても知らないからね……?」

「大丈夫ですよ。財布を忘れたとかのアクシデントがない限り、俺たちの秘密の宴が暴かれる事はありません」

「舞人君らしい表現だね……好きだよ」

「俺もです」

 再び重なる唇。衣擦れの音がして、部屋の明かりが消えた。

 カーテンの隙間から漏れる月の光だけが、二人の物語を静かに謳っているのだった。




 十数分後、財布を忘れたことに気づいて戻ってきた真と彩が、酣に入っていた秘密の宴に遭遇して一騒ぎ起きる事になるのだが――それはまた別の話。

 (了)

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