第21話「夜刀浦の血」


「時封呪ですか……まさかこんな形で二人とも帰還するとは」

 平静とした態度は崩さないものの、さすがに苦笑する隆志。『時封呪』のことは知り得ていたが、時の障壁を抜けられるのはリアだけだろうと踏んでいた。そして彼女一人で戻ってきたなら危害を加えず、これまでどおり普通に接するつもりでいた。

 それが、二人そろって、しかも時の障壁を突き破ってきたのには驚かざるをえない。

「リアさんだけでよかったのに、どうしてお姉ちゃんまで戻ってきたんですか」

 がっかりした表情で不満をあらわにして、隆志を庇うように前に出るミィエ。彼女自身の奇妙な純粋さか、やはりその雰囲気から嫌らしさは感じられない。

「文句ならリアさんに言ってね。わたしは諦めようとしたんだけど、リアさんが強引にわたしを連れ帰ったんだから」

「あんたってやつは……」

 間違ってはいないが、いきなり矛先を転嫁するヴィエに、思わずジト目になるリアである。

 思った以上に仲良くなっている様を見て、隆志はなんとなく感心した。

「ところで、周囲を侵食するこの『夢』はヴィエちゃんのあれですか」

「そうだよー、タカくんもミィエも逃げ場はないんだから。天封呪を発動させた直後だから、ふたりとも大幅に力を消耗してるでしょ?」

「否定できないのが辛いところですね」

 微笑を浮かべる隆志もその前に立つ少女も、ともに疲労の色が濃い。ヴィエとリア双方を相手にするだけの力は残っておらず、さらに夢の門の効果で、万一のために用意していた逃亡手段も殆ど封じられたことになる。

 自分たちが優位に立っていることを理解したリアは、「蒼き彗星」を構えたまま隆志に視線を向けた。

「あんたに羽丘の血が流れてないってどういうこと?」

「言葉通りです。詳しいことは兄さんに聞くといいでしょう」

「お父さん? お父さんが何か知ってるの?」

「僕を羽丘家に迎え入れてくれたのは彼の父、つまり君の祖父ですから」

 リアは当惑した。祖父は自分が生まれる前に亡くなっているし、父からこれまでそんなことを聞かされたことは一度もない。しかし隆志が嘘を言っている風にも思えなかった。

「いまここで説明してくれる?」

「リアさん、そこまでにしてください。隆志さんは疲れているんです」

 非難するような口調で会話に割って入ったミィエ。その態度にリアはカチンときた。

「私たちを大変な目に合わせておいてよくそんなことが言えるわねっ」

「うっ……それもそうですね。ごめ……――いいえ! 謝りません、勝つまでは!」

「おいおい」

「それとヴィエお姉ちゃん、わたしたちを今すぐ解放してください。そうでなければ――」

 語気を強めた少女の額に翠の燐光が浮き上がりかけ、ヴィエは眉をひそめる。

 ハッとした隆志がミィエの肩を掴んだ。

「いけません、消耗したいまの状態でそれは」

「でも……」

「ここは僕に任せてください」

 言うなり、隆志は神父服の胸元から何かを取り出した。それは手のひらほどのロザリオに見えたが、数秒置いて、ヴィエが驚愕の相で眼を見開き、愕然とした声を震わせた。

「それ……は……銀の……――銀の鍵!」

 一見して十字架と思しき銀色の貴金属は、鈍くくすんだ表面に奇妙な意匠の装飾が施されており、先端についた細い突起は見方を変えれば鍵のようでもある。

「それでは僕たちはこれで」

 手にしたロザリオを、何もない空間で半回転させる隆志。

 カチリと音が鳴った。

 それは確かに『鍵』だったのだ。

 次の瞬間、隆志とミィエの身体がぐにゃりと歪み、鍵穴に吸い込まれるように消えた。

 あらゆる時空を超える事のできる「銀の鍵」の前では、夢の門といえどもその移動を妨げる手立てはない。

「そっか……タカくんが銀の鍵を」

 半ば茫然と見送るしかできなかったが、探し求めていたものの実物を眼にし、所在が判明したことによる興奮で、ヴィエはこのうえなく凄絶な笑みを浮かべたのだった。



「隆志は、夜刀浦市生まれの人間だ」

 羽丘家の居間で、羽丘権化が重々しい声でそう言った。

 娘からの電話を受けた権化は、その内容を耳にするやいなや、深夜という時間にも関わらず地方から駆けつけたのである。ヴィエも同席していることにはあからさまな不快感をあらわにしたが、席払いを促すことはなかった。

「夜刀浦市って、この町同様に、不思議なことや怪事件がよく起こっているって噂の、あの夜刀浦?」

「一般的な認識としてはね。でも真実は、そんな認識を消し飛ばすくらいの秘めたる領域として囁かれてるんだよ。そっかあ……タカくんは夜刀浦の血に連なる者だったんだ」

 訳知り顔で納得するヴィエ。リアが詳しい説明を求めると、父が真剣な顔で話してくれた。

 夜刀浦は、千葉県の海底群にある地方都市である。強大な祟り神である人頭蛇体の夜刀神を土地神として祀っていたことから、その名前がついたとされる。

 歴史的にも古く、室町時代には既に領土争いが繰り広げられたと記述が残っており、争いに勝利した夜刀浦領はその後も領土を存続していく。しかし時が経つと官軍との戦いにより夜刀浦は力を失い、一地方都市として歴史の記述からは消えていった。

 陰惨な歴史と事件に昏く彩られた夜刀浦市は、それ自体が特殊な形をしており、一種の呪術都市であるという説も伝わっている。また多くの地元住民がある程度の年齢になると海に還っていくという言い伝えもあり、まことしやかな薄気味悪い噂は後を絶たない。

 近代落語の祖と呼ばれる江戸時代の有名な落語家、三遊亭園朝も、実は当時の夜刀浦村が出生地で、訳あってすぐに江戸に里子に出されたという説話は、落語会の一部の重鎮のみぞ知る事実だともいわれる。

 そんな、日本の悍ましき魔都として数えられる夜刀浦で隆志は生まれたのだ。

 数十年前のこと、権化の父である羽丘郡是は、類稀なる神通力を持つ退魔師として夜刀浦を訪れた。その時、海底の神を崇める呪術師の男女が世に害を成す邪悪な儀式を行おうとしており、郡是はこれを打倒して阻止した。かなりの危険度であったため、命を奪う他はなかった。

 呪術師たる男女には当時四つになる子供がいた。郡是はせめてもの仏心か、身寄りもなくなったその子供を引き取り、羽丘家に迎え入れた。

「それが……隆志なのね」

「そうだ。父はその数年後に病で亡くなり、臨終の際に私にそれを伝えた」

「どうして、教えてくれなかったの?」

「お前に気を使わせたくはなかった。今となっては、あだになったやもしれぬが」

「どういうこと。今のあいつと夜刀浦に何か関係あるっていうの?」

「それはわたしが説明してあげる。昔、夜刀浦が領土争いに勝利したのは、偶忌荒祝部毒命(ないあらはふりびのみこと)っていう異国神(とつくにかみ)の使者の援助によるものらしいわ。それでね、タカくんが天封呪を使う前に、僕は『膨れ女』と出逢ったって言ってたでしょ? それはどちらもナイアーラトテップの化身に違いないの。その領域である夜刀浦生まれのタカくんは、羽丘家の人間となり御納戸町へやってきて、そこでトラペゾ教会の先代神父と親しくなった。彼に誘われてタカくんはナイアーラトテップの信奉者になって、さらには星の智慧派の一員にもなった。――つまり、タカくんはナイアルラトホテップに魅入られてるの。這い寄る混沌の掌中で踊らされ、何か途轍もないことをしでかそうとしてるってこと」

「またその名前……ナイアーラトテップって、邪神だってことしか知らないけど、一体どういったものなのよ」

「うーん、ちょっと長くなるけど要約すると――」

 宇宙、ひいては地球上に真に君臨している神々の名前が、人々の間で一般的に知られている神話や伝説中に登場することはない。

 地球誕生の遥か以前、宇宙黎明期にまで遡る途方もなき未知なる悠久の太古に、<旧神>と<旧支配者>と呼ばれる二種の神々が存在した。<旧神>は宇宙的な善を体現する全能の存在の総称。<旧支配者>は宇宙的な悪を体現する恐るべき邪神の総称。あるとき、<旧支配者>たちは<旧神>の棲むベテルギウスから、護符、印形、象形文字のようなものが書かれている石盤を盗み、セラエノ星に持ち去った。<旧神>はこの謀反に怒り、<旧支配者>との間に全宇宙の覇権をめぐる熾烈な戦いが幕を上げた。

 人間には理解も叶わぬ想像を絶する戦いは<旧神>の勝利に終わり、敗れた<旧支配者>たちは罰を与えられた。<旧支配者>の指揮をとったアザトースは知性を奪われ窮極の混沌の中心へ、ヨグ=ソトースは時空連続体を超える超次元の彼方へ、クトゥルーは半宇宙的海底都市ルルイエへ、ハスターはカルコサのハリ湖へ、クトゥグァはフォマルハウトへ、その他の<旧支配者>たちも宇宙の各所に追放、幽閉された。しかし、ナイアーラトテップだけは封印を免れたという。

 そして<旧支配者>の中でもアザトースやヨグ=ソトースといった、「外なる神」と称される窮極の神性たちの、その強壮なる使者こそがナイアーラトテップなのである。

「外なる神」の総意でありメッセンジャーでもあり代行者でもあるナイアーラトテップは、恐るべき邪神たちの中でほぼ唯一、人の姿をとって人間的な思考とともに人間社会に干渉することがある存在で、千の異形を持つゆえにあらゆる顕現でこの世に姿を現すという。

 人類など簡単に滅亡させることができる力を有していながら、その力を直接振るうことはなく、あくまで人間自身による自滅へと誘うことを好むらしい。そのため、ときに謎めいた神父、予言者、科学者等、様々な化身をとって暗躍し、世界を破滅へと導くのだ。

「――とまあ、こんな感じかな。ちなみにわたしが信奉してるのは<旧神>の一柱とされている<大いなる深淵の大帝>ノーデンスなの。もっとも、<旧神>も<旧支配者>も善悪二元論で割り切れる存在なわけはないから、<旧神>は人類に対して比較的友好的といったところだと思うけどね」

「なんか……スケールがマクロすぎてついていけないわ」

 聞き終えたリアが、じっとりとした汗を浮かべて頭をくらくらさせた。

「じゃあ、そのナイアーラトテップをやっつければ万事解決ってこと?」

「……は?」

「ちょ、なによヴィエ。その呆れ果てたような、可哀想な人を見るような眼は」

「いやあ……無知っていうのは恐ろしいというか、あるいは幸せというべきか……」

「わ、悪かったわね無知でっ。つまり、やっつけるのは無理ってことね」

「無理も何もパーフェクトに不可能。この先科学が進歩して想像もつかない兵器が完成しても、進化して超然とした力を得ようとも、たとえ神に近い存在になろうとも、わたしたち人間という矮小な生物が<這い寄る混沌>を滅ぼすなんて、絶対にできないの」

「ものすごい卑下の仕方ね……」

「ぜーんぜん。だって、蟻が太陽を破壊できる?」

「そこまで例えるか」

 もはや言い返す気も失せたリアだった。ちらりと権化を見るが口を挟む様子はなかった。仲が悪いらしいヴィエの言葉に父が僅かな横槍も入れないということは、肯定すべき事実なのだろう。

「とにかく、あの馬鹿者が大変なことをしでかそうとしている確立は高い。やつを見つけ出して阻止せねばいかんな」

 実直な顔で今後の行動を決めた権化。明日からは仕事の合間に調査を始めるようだ。

「わたしもタカくんを探すよ。「銀の鍵」を手に入れて、ついでにミィエとの存在決着もつけて目的達成までまっしぐら♪」

 望むことのゴールが見えてきたのか、意気揚々と気合を入れるヴィエ。

 リアだけが、どうしていいか自分の気持ちが判然としない困惑した表情を浮かべていた。



 世界のどこかに存在する、『星の智慧派』の拠点たる忌まわしくも荘厳な建物。その一室で豪奢なベッドに腰をかけ、薄灰色の眼鏡をかけた青年神父がくつろいでいた。

 そこへ、十歳前後の純粋かつ端正な顔立ちをした美少女が入ってきて、彼を気遣うように透明感のある清涼な声をかけた。

「隆志さん、もう体の方は大丈夫ですか?」

「仮眠をとったらすっかり回復しました。ミィエ、心配してくれてありがとう」

 優しく微笑を返され、ミィエはよかったという顔になると同時に、ほんのりと頬に赤みがさした。彼に優しい言葉をかけられるだけで嬉しさがこみ上げてくる。

「ヴィエちゃんをこの世界から消し去ることに失敗したのに、まだ僕に協力してくれるんですね」

「事の成否は関係ありません。わたしがこの世に存在を得ることができたのは隆志さんのおかげです。隆志さんは、わたしを道具としてではなく人として対等に接してくれました。わたしはこれからもあなたのためだけにこの力を使います」

 その眼差しはひどくひたむきなものだった。

 するうちミィエは、強い意志を湛えた瞳で隆志のそばに近づくと、彼の柔和な唇にそっと自分の唇を重ね合わせた。胸の高鳴りを抑えながら、そのまま隆志の上体をベッドへ押し倒し、見下ろす形になる。

「どうしました、ミィエ」

「その……す……好きな人には、こうするん……ですよね?」

「……それが、僕ということですか?」

「はい。わたしは隆志さんのことが好きです。異性として好きです。接した期間は短いですけど、人を愛するのに時間は関係ないですよね。ですから――」

「駄目です」

 表情一つ変えずにそう言われ、ミィエの双眸はみるみるうちに哀しみに染まっていった。

「そうですよね。ごめんなさい、勝手なことを言って。ちょっと夢見ただけで――あっ!?」

 最後まで口にするまえに抱き寄せられ、驚きのあまり眼をぱちぱちさせる。丁寧にベッドへ横たえられて、さっきとは逆に見下ろされる側になった。

「駄目です――僕のほうからでないと。君が誘ったのではなく僕が君を押し倒したんです」

「隆志……さん」

 優しい鳶色の瞳に見つめられ、ミィエは陶然と眼を潤ませた。

「わたしで……わたしでいいんですか? あなたの心の中においてもらって、いいですか」

「ええ。そこには君だけがいればいい」

 確かに、人を好きになるのに時間は関係ない。これまで幾度となく行きずりの女性と肉体関係を持ったことのある隆志だが、本気で恋愛を感じることは一度もなかった。自分と合う相手などいないのではないかと半ば諦めにも似た気持ちを抱いていたのだが、いま彼女に想いを告げられたとき、狂おしいほどの愛情が湧き上がった。

 この世に生を受けて三十年、初めて人を愛した瞬間でもあった。

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