第19話「大地の樹」後編
風が谷を吹き抜ける音がびょおびょおと鼓膜を通り過ぎていく。
粉雪が風に流される谷沿いの山道を、二人の少女がざくざくと突き進む。
「すごい風ねー。本当にこんな山奥の谷間に村なんかあるの?」
「偵察から戻ってきたナイトゴーントによれば間違いないみたい」
「まあ、なんにしても冬休みに入ったばかりでよかったわ。そうじゃなかったら理由つけて何日か学校休まないといけないところだし」
季節や時間経過は元の世界と同じらしいことに感謝するリアだった。
朝早く出発し、半日ほど電車に揺られて寂れた駅に到着した。そこからバスで一時間半もかけて終点まで移動後、徒歩で山中に踏み入ってから、さらに二時間は経過した。
そんなとき、風に運ばれて打楽器の音が聞こえてきた。
「太鼓の音だわ」
ようやく村に着いたのか視界がひらけ、太鼓の音はより一層強まった。
七〜八歳だろうか、巫女装束を着たおかっぱの少女が正座し、四隅で年輩の男が腰を下ろして小太鼓を叩いている。そのリズムに合わせるように少女は眼前に置かれた神酒を口に含んだ。
「何やってるのかしら」
「祭礼の儀式あたりじゃないかなあ」
どうやらここは村の広場らしく、何がしかの祭儀を執り行っている最中のようだった。
周囲を見ると、遠巻きに眺めていた村人たちが、「かわいそうに」とか「今年はあの娘が生贄か」と声を交わし始めた。
「いけにえ!?」
リアは思わず大声を発してしまい、たちまち視線が集中する。だが、秘密の祭事でもないようで敵意を向けられることはなかった。祭事を取り仕切っている老婆が近づいてきて、事情を説明し始めた。村の長老だった。
「千年前、この村では毎年のように大きな雪害が起こっては何人もの死者が出ていたそうじゃ。ところが、ある年の初冬、村の幼き娘がひとりで山の神の前に祈りを捧げに行き、気づいた村人らが発見したときは、凍傷で死んでおった。するとその年は雪害が起こらなんだったというのじゃ」
「それから雪害はないの?」
「そう伝えられておる。ゆえにそれ以来、その娘が死んだ時期になると、幼き娘を山神様に捧げるのが村のならわしとなったそうじゃ。今がちょうどその時期でな、明日、あの娘、葉月が山の神に供されるのじゃ」
「村のならわしですからしかたありません」
閉じた障子を背に整然と正座して、少女――葉月がそう答えた。巫女装束から普通の着物に着替えたばかりだ。
「生贄なんておかしいですよ。村のことは何も知らないけれど、誰かの命を犠牲にしなくちゃいけないなんて正しくないと思う」
畳の上で少女同様に整然と正座したリアが、囲炉裏を挟んで彼女の祖母に苦言を呈する。ヴィエはその横で座布団の上に体育座りしていた。長時間の正座も平気なリアと違い、一分とたえられない。
祖母は心苦しい顔で眼を伏せた。
「村の掟なもので……」
「でもなんで葉月ちゃんに決まったの?」
「なんでも祭事の時期に水面の揺らぎを見て長老が決めるそうで……」
「要するにテキトーってことね」
固焼きをバリバリ頬張りながら、身も蓋もない言い方をするヴィエ。
「ちょっとヴィエ、生贄の風習を止めさせるいい知恵ないの?」
「んー? まあ、なんていうか……誰が殺したコック・ロビン?」
「なんでクックロビン音頭なのよ」
「いやわたしが言ってるのは、誰がコック・ロビンを殺したか? それは私とスズメが言った。誰が死ぬのを見届けた? それは私とハエが言った。誰がロビンの血を受けた? それは私と魚が言った――……まあいいや」
「人の顔見て溜息つかないでよ」
「わたしリアさんのお節介に付き合うつもりないし。それに、べつにいいんじゃないのー? 本人が村の慣わしだからって納得してるんなら」
「あんたねえ……」
また文句が口をついて出そうになったとき、びょおおおおお、と風の音が通り過ぎた。
と、それまで眼を伏せたまま黙していた少女がにわかに震えだし、そして、
「いいわけないでしょ!」
いきなり怒声をあげたかとみるや、だんっと立ち上がって眉をつりあげたではないか。
呆気に取られるリアを尻目に、彼女の怒りの矛先が祖母へと向く。
「何が掟よ! 私は葉月なんてどうなってもいいけどさ、巻き添えで死ぬこっちの身にもなってほしいわよ。だいたい孫が可愛くないの!? 図体ばかり大きいだけの木のほうがそんなに大事ってわけっ」
「卯月……なんてバチあたりなことを」
「バチ? 当ててごらんなさいよ!」
癇癪を起こしたまま、性格の豹変した少女がのしのしと畳を踏みしめて部屋を出て行き、障子の叩きつけられる音が残った。ぽかんと眼を丸くするリア。
「ど、どうなってるの?」
「二重人格でしょ」
こともなげに煎餅に手をつけるヴィエに、祖母がそのとおりですと肯定した。
「葉月は赤ん坊の頃、大きな風の音をたいそう怖がりまして、それを耳にすると性格が入れかわってしまうのです。暫く経つと元に戻るのですが……さっきの娘は卯月といって、気の強いもうひとつの人格なのです」
勝ち気で山の神のことも信じていないため、村の厄介者なのだという。
しかし、彼女が悪い子のようには思えないリアだった。
しんしんと雪が降る月夜。近くの木々の手前で、少女が雪の上に大きな石を三つ縦に積んでいた。積み終えると、活発そうな顔を綻ばせた。
「何してるのかな、卯月ちゃん?」
「なんだ、さっきの人かぁ」
リアに傾けた表情は普通のやんちゃな少女のものだ。
「葉月お姉ちゃんのお墓を作ってたんだ」
「お墓……」
「いけにえになった娘はお墓も作ってもらえないんだよ」
「へえー、あんたやさしいじゃない」
「おとなしくて自分の意見も口にできないやつだけど、それでも私のお姉ちゃんだからね」
少し頬を赤らめてそっぽを向く少女に、リアは口もとをほほえませた。
「でもなんで葉月ちゃんのお墓なの? 彼女とあんたは同じ体じゃない」
「私は本人格じゃないから……だから私にお墓は必要ないの」
「卯月ちゃん……」
「そんなことより、明日、葉月お姉ちゃんはあの山の上にある大木の前に捨てられるんだ」
そう言って少女は眼の前にそびえる山を指差した。
「ふうん、あそこに大聖樹があるってわけね」
ひょっこりとリアの背後から顔を出したヴィエが、妖しく微笑した。
翌日の夜。
松明を掲げた村人に先導され、駕籠をかついだ村人たちが続く。
木々にまぎれて後をつけるヴィエとリア。駕籠の中で揺られている少女を思い、リアはなんとか隙を見て助け出そうと心に決めた。
やがて彼らは古ぶるしい巨木の前で立ち止まり、丁重に駕籠を下ろした。
「あれが大聖樹かぁ」
木陰に身をひそめながら、興味津々の顔つきになるヴィエ。
長老が声を張り上げた。
「山の神がお出ましになるぞ」
次の瞬間、村人たちから畏怖の声があがり、皆一様に「山神様」と口にしてひれ伏す。
「……何も見えないんだけど?」
「共同幻想ね。信じている人には山の神に見えるのよ。村人達はみんな現実逃避したがり屋さんばかりなわけだ」
ヴィエが嘲るような口調で眺めている間にも、駕籠から出された葉月が大木の前に差し出され、逃げられないよう手足を拘束されていく。
今にも飛び出しそうなリアの服裾をつまみ、ヴィエは様子を見ることを促した。
そのとき、びょおおおおおおお、と風が吹いて長く尾を引いた。
眼を見開いて体をびくつかせる少女。
「何をうろたえておる! 神事を続けんか!」
どよめく群集に向かって長老が叱咤の声をあげた直後、
「何が山の神よ! ただの大きな木じゃない!」
手足を拘束されたまま威勢良く立ち上がった少女の言葉に、村人たちは茫然として立ちすくんだ。長老が声を荒げる。
「卯月! お前に何がわかるか」
「ばっかじゃないの!? お姉ちゃんだってこんな枯れ木の肥やしになるなんてまっぴらだと思うわよ!」
「卯月ちゃんの言うとおりよ!」
我慢できず、勢いあまってその場に飛び出すリア。後ろでヴィエがやれやれと苦笑した。
場が混乱の模様を呈してきたとき、異変が生じ、村人が悲鳴をあげた。巨木がほのかに発光するや、地中から四肢を生やした土くれの怪物が無数に現れたのだ。
その一匹が少女へ飛びかかり、鋭い爪を振るった。
「卯月ちゃん!」
素早く印を結び真言を唱えるリア。たちまち怪物は火天の炎に包まれる。残りの怪物を牽制しながら、倒れ伏せた少女に駆け寄り治癒促進の術を施すと、リアは村人たちのほうを向いて声を張り上げた。
「何ぼうっと突っ立ってるのよ! ここは退魔師の私に任せて、あなたたちは卯月ちゃんを村まで運んで手当てして!」
「あ……ああ!」
夢から覚めたように冷や汗を流し、村人たちははっきりと応じた。すぐさま少女を抱きかかえると、一目散に山を下りはじめる。
あとはリアの真言密教術とヴィエのナイトゴーントで程なく片がついた。
人の気配がなくなり場が静まり返ると、ヴィエが巨木に向けて不敵に笑んだ。
「随分手荒い歓迎だったわね大聖樹さん。さあて、訊きたい事があるんだけどいいかな」
『私を知っているのか――! 何者だお前達は。何故邪魔をする』
脳裏に直接響く声は年輩の男のもので、力ある人間にのみ聴こえる声だった。
「邪魔するつもりはなかったけど、結果的にそうなっちゃったかしら? まあタイミングが悪かったと思って。――わたしたちは天封呪によってこの世界に飛ばされてきたの」
『ほう、天封呪とは……なんと久しき言葉か』
「それで、元の世界へ戻る方法があったら教えてほしいの。同じ神代に創られた存在のあなたなら、何か知っているんじゃないかと思って」
『それなら知っている。だが、天封呪に飛ばされし者を還すための時封呪は、「時の監視者」にしか扱えぬ』
「時封呪……それが元の世界に戻るための術なのね。時の監視者とやらはどこにいるの?」
『残念だが期待には添えぬな。私に彼の者の居場所はわからぬ』
嘘をついている様子はない。しかし情報としては十分すぎるほどの収穫だった。
満足げなヴィエと入れ替わるようにリアが前に出て、大聖樹を見据える。
「ねえ、さっきの村人たちのことなんだけど、千年前から村に雪害が起こらないようにしているのはあなたなの?」
『そうだ。大きな雪害の兆候が生じたときは私がその発生源をコントロールしているのだ』
「そのために生贄を必要としているの?」
『……間接的にはそうなる』
「? どういうこと」
眉を寄せるリアに、大聖樹はぽつぽつと語り始めた。
神代の最後に起きた戦争が終結したとき、世界は酷く荒れ果てていた。そこで創られたのが、荒廃した大地の自浄作用と活性化を促す能力を備えた大聖樹であり、世界各地に幾つも配置されて、長い時をかけて大地は緑と豊穣を取り戻したのだ。
そして役目を終えた大聖樹は、神代からの管理者である王蒼幻に機能の永久停止を命じられた。殆どの大聖樹はそれに従ったが、中には「死」を恐れて疑問を持ち、命令を拒否するものも現れた。
王蒼幻は、暴走したものを強制的に始末したが、それ以外のものは放置した。大聖樹はその生命活動の源が「心」であるがゆえに、人から忘れ去られたら死んでしまうからだ。時の流れとともに人々はその存在を忘却し、残っていた僅かな大聖樹も次々と滅びていった。
いま二人の前にそびえるのは、その数少ない、あるいは唯一かもしれない大聖樹の生き残りだった。
『千年前、ひとりの娘が犠牲になってくれたおかげで、村の人間が私を山の神と崇めるようになった。そうして私は今に至るまで生き長らえる事が出来たのだ。神事が行われなくなれば私は死んでしまう。そんなのはいやだ!』
「だからさっき、怪物を呼び出して無理に生贄の儀を成そうとしたのね」
『そうだ。私が生きていれば彼らも雪害に悩まされなくてすむ』
「でも、それは自然の摂理に反することでしょ! 毎年幼い女の子が犠牲にならなくちゃいけない理由が、あなたのエゴのためだというなら……やっぱりそれは間違ってると思う」
激しい憤りを抑え、リアは丹念に自分の言葉を選ぶ。怒りに任せて非難するのでは何もならない。話し合いでわかりあえる状況なら、まず理解したうえで気持ちを伝えないと。
暫しの沈黙のあと、一転してかすれるような声が漏れだした。
『やはり役目を終えた私は活動を停止するのが定めなのか? 私は死ぬのか? 無になるというのか? 今まで生きてきた私の意味は? 無意味だったというのか?』
「そんなことはないわ。遠い昔、荒廃した世界を蘇らせたのはあなたなんでしょ?」
『だが、それは私の望んだことではない』
リアはハッとして愕然となった。そうか。そうなのだ。そう作られたのだ。
『大地が再生したら不要になるというなら、何故心を与えた。私に心などなければよかったものを……』
「それはきっと……大地を蘇らせるのは、心を持った者にしか出来ないから。――でも、あなたの「心」はあなたに辛いことばかりをもたらしたの? 違うでしょ?」
大聖樹は再び沈黙した。思い出していた、遠い昔のことを。人々から慕われ、感謝され、温かい言葉と気持ちをかけられていたときの事を。
『だが、それでも私は死が怖い……自分という存在がなくなってしまうことが怖い。教えてくれ。「死」とは何なのだ?』
切実なる訴えに、今度はリアが沈黙した。それに対する答を自分は持っていない。
「死の恐怖は、解決されない生の矛盾の意識にすぎない――」
そう返事したのは、退屈そうに眺めていたヴィエだった。
彼女の意図はわからないが、かすかに地面が揺れ始める。大聖樹が震えているのだ。
『それが答え……そんなことが? 人間はみなそうだというのか!? 人間もこれほど悩み苦しむというのか?』
震動は耐えがたいまでに強くなり、そして、ふっと静まった。
『娘よ、私の存在は無駄ではなかったのだな? そうなのだな?』
それはどちらに向けられた言葉なのだろう。
リアが、無言で頷いた。
『ありがとう……』
巨木の発光がみるみるうちに弱々しくなり、やがて夜闇に包まれる。
――大聖樹は自ら死を選んだのだ。
「どうして……」
「心を付与された存在といっても、大聖樹の思考はコンピュータみたいにつねに明確なの。でも人間は必ずしもそうじゃない」
複雑そうに悲しげな顔をするリアに、淡々と語ってみせるヴィエ。
「人間の意識は精神葛藤のすべてを認識してないの。意識が知りえるのは脳の部分のほんの表層でしかなく、その下に眠るもうひとつの意識が健全な精神を手助けしている……」
そして彼女は次のように結論づけたのだった。
「無意識がないことが彼の悲劇だったのよ」
朝陽が差し込む寝室で、少女は眼を覚ました。
「私――」
「目が覚めたかい、葉月」
よかったと安堵の息を吐く祖母。リアもホッとしたように口もとを綻ばせる。
少女がぽかんとしていると、びょおおおおおお、と風の音が通り過ぎた。
しかし彼女が震えだすことはなく、かわりに涙を流した。
「夢の中で卯月ちゃんが出てきたの……私をたくさん励ましてくれて……最後にさよならって……」
「葉月ちゃん……」
「私、これからはもう少し前向きにがんばってみようと思います」
そう言って、少女は涙で頬をぬらしたまま、さわやかにほほえんだ。
「卯月ちゃんのお墓になっちゃったわね」
雪が降るなか、三つ積み上げられた大きな石の前に花を供えるリア。
今回の出来事により、村では来年から娘のかわりに、わらで作った人形で山の神を供養することが決まったという。
御納戸町に戻ったヴィエとリアは、「時封呪」と「時の監視者」の情報を得るため例の図書館へ向かったが、不思議なことに特別閲覧室があった場所は普通の書籍スペースになっていた。図書館の人間に話を聞くと、特別閲覧室など存在せず、シンディ・デ・ラ・ポーアという司書は最初からいないと断言された。
街外れの廃教会にも足を踏み入れてみたが無人で、使われている形跡はなかった。
ふたりが存在の定着化を感じたのは、その日の午後だった。
数日後、ヴィエは御納戸駅のホームに立っていた。
どうせこの世界で一生を終えることになったのだからと、色々な所を見て回ることに決めたのだ。魔術が使えるならどこでだって生きていける。自由気ままに各国各地を旅するのも悪くないだろう。
そんな彼女に近づく影があった。
金髪碧眼の少女が、旅行鞄を両手に提げて眼前に立ち止まった。
「学校に退学届けを出してきちゃった」
と口にしたものだから、さすがのヴィエも呆気に取られる。
「家族にはちゃんと話して理解してもらったから大丈夫。退学のことも、これから旅に出ることも」
「……ほんとにリアさんってば、お馬鹿さんなんだから」
「拒否されてもついていくわよ」
「ふう、好きにすれば? わたしも話し相手がいたほうが楽しいし」
「決まりね」
そうして少女らは電車に乗り込んだ。
発進音が鳴り響き、車体がスムーズに動き出す。車窓に映ったのは、向かい合わせに座って会話するふたりの姿。
空は快晴。新年の幕開けにふさわしい旅立ちだった。