第十二章 <月出ずる彼方の土地>を目指して


 ――わたしたちの生命は夢ではない。しかしそれはやがて、いやおうもなく、夢とひとつになるだろう



 あれから一週間が経った。ロジャー邸はいつもと変わらぬ朝を迎えていた。邸内の生活に何か変わったことがあるとすれば、住人がひとり増えたということであろう。ちょうど、ベッドで眠る邸主を幼い少女が起こしにきたところだ。まぶたを開いた老人の眼に映るのは、黒髪黒瞳に白い肌、けれど窓から差し込む朝日に純黒の瞳はきらきらと反射する。

「お父さん、おはよう」

 さわやかな笑顔を見せる少女。かつて冬箱根と名乗っていた頃の記憶をすべて消失した彼女は、ロジャー・ベーコンの養子となった。いまは粉雪――こゆき――という名前で呼ばれている。父と娘の関係になった際、ロジャーが名づけたのである。どうしても冬にちなんだ名前になるのは、彼女の容姿の印象ゆえやむをえまい。

「おはよう、粉雪。リースとゲボ子は?」

「リースさんはもう目が覚めて、隣の部屋へヴィータさんを起こしに行ってるはずだよ。だってここで朝が早いのって、わたしとリースさんだけだし」

 表情豊かにはつらつと喋る粉雪に促され、ロジャーは心地よい気持ちで清々しい朝を感受する。娘という存在があるのも悪くはないものだと思いながら食堂へ向かうと、件の二人は既に食卓についていた。皆で朝の挨拶を交わす。粉雪がロジャー邸の生活に加わってからは、四人揃って朝食をとることになったのだ。

「ヴィータさん、ほんと、朝はとくにまったりしてるねー」

 ゲボ子のマイペースぶりにはまだ慣れない粉雪は、彼女のことを本名で呼ぶ。いくら愛称とはいえ、ゲボ子という呼び名にはどうしても馴染めないからだ。もちろんそんなことを気にするゲボ子ではなく、四人の関係は理想的なほどに良好で、風にそよぐメイ・フラワーのごとく清涼な陽気につつまれていた。

 午後の昼下がり、リースは自室で読書に没頭していたが、ノックの音に気づいて返事した。ティーカップを載せた丸い皿を手に粉雪がひょっこりと入ってきた。

「紅茶淹れてきたけど、いります?」

「ありがとう粉雪ちゃん。いただくわ」

 テーブルに置かれたカップに手を伸ばすリース。マスカテルフレーバーの強く甘い香りが鼻腔をくすぐる。高級なダージリンだ。深みのある強い渋みを味わい、リースは満足そうに一息ついた。

「うん、美味しい」

「えへへー、練習した甲斐があった。……リースさん、難しそうな本読んでるんだね。やっぱり魔法使いの弟子だから?」

 粉雪の視線の先では、リースが熟読していた数冊の本が積まれていた。『ツァラトゥストラかく語りき』をはじめとした、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの著書の解説書ばかりである。

「ううん、ちょっと気がかりなことがあって……」

「そうなんだ。あまり根を詰めて身体を壊さないようにしてね」

「うん。心配してくれてありがとう」

 粉雪がぺこりと頭を下げて部屋を出て行くと、リースはふたたび本の頁を繰った。



 数日後の夜、リースはある予感に導かれ、こっそりとロジャー邸を抜け出した。古き良きニューイングランドをイメージした街外れに出たとき、夜空を覆っていた雲が晴れて、煌々とした月明かりが古雅な尖塔を照らした。リースが立ち止まると、一匹の魔法うさぎが月光の下で語っていた、――魁偉な雰囲気を纏った、超人の告知者が。

「おお、お前、私の意志よ! お前は、あらゆる困苦を転回するものだ。だからお前は、私の必然性なのだ! 私が小さな勝利などにはすべて甘んじないように守っておくれ! お前は、私の魂を支配するもの、だから私が運命と呼ぶものなのだ! お前は、私のうちにあるもの! そして私の上にあるもの。私を守り、私を一つの大きな運命のために大事に取っておいておくれ!」

 ツァラトゥストラはこう語り、リースのまえに姿をあらわした。

「今まさに、私の世界は完全になった。真夜中は、また正午でもあるのだ」

「大いなる正午とは、人間が、動物から超人へといたる自分の軌道の中心点に立って、夕方へと向かう自分の道を、自分の最高の希望として祝うときのこと……ですか」

「おお、少しは勉強したようではないか。そのとおり、人間とは、動物と超人との間に張り渡された一本の綱である。――深淵の上にかけられた一本の綱である。人間において偉大な点は何かと言えば、それは、人間が一つの橋であって目的ではないという点にある。人間において愛されうる点があるとすれば、それは、人間が一つの超え出てゆくものであり、一つの没落するものであるという点にある」

「そう語るあなたは、人間ではなくて野うさぎなのに?」

「自分の言ったことを忘れる勝手さを許してもらおう。なぜ自分自身と矛盾してはいけないのか」

 思わず苦笑するリースだったが、すぐにまじめな顔つきになって、言った。

「あなたは――……あなたもペガーナの使者ですね。かつて冬箱根であった少女の二律背反としての、そう、<偶然>によって創られた欠片のひとつ……なのでしょう?」

 ツァラトゥストラの双眸が異様な光を湛えた。

「そこまで理解したか。私が超人の橋として認めただけのことはある」

「おかしいと思ったんです。世界からペガーナの侵食が消えたはずなのに、私は自分がまだ世界の楔であるという感覚が残ったままなんですから」

 そこで思い当たったのがツァラトゥストラだ。ロジャー邸の書斎でたまたまその名前を拝した本を見つけ、著者であるニーチェの手引書とともに読みふけった。そしてひとつの考えにいたったのである。

「だが安心するがいい。私はこの世界を異境の戯れに陥れるつもりはない。今や、人間は自分で自分の目標を立てるべき時なのである。今や、人間は自分の最高の希望の萌芽を植えつけるべき時なのである。今ならばまだ、人間の土壌は、それに足りるだけの豊穣さをそなえている。けれども、この土壌は、いつの日にか不毛になり、軟弱になって、一本の大樹も、もはやそこからは生い茂ることができなくなるであろう。私は、あなたに言う。ひとはなおも渾沌を自分のうちにはらみ、一つの舞踏する星を産み落とすことができるようにならなければならないのだ、と。かなしいかな! いつかは、人間がもはや何らの星をも産み落とさなくなるような時が来るであろう。かなしいかな! いつかは、自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が、来るであろう。――だから私は来た、それらを打ち消すために。今や時は来た。大地は新たなる段階を求めている。超人の到来が近づいている。さあ、リース・フレキシブルよ、今こそあなたは、大地の意義のため――超人の橋と成って没落するのだ! そして私もまた。私は私の言葉を語った。私は私の言葉において砕ける。私の永遠の運命はそのことを欲するからだ――。告知者として私は没落するのだ! 今や没落する者が自分自身を祝福する時がきたのだ。こうして――ツァラトゥストラの没落が終わるのだ」

 と、ツァラトゥストラは語った。

 リースは答えた。

「お断りします」

「莫迦な……何故だ!」

「あなたは本当は、<運命>に創られた存在でありたかったのでしょう? 必然性と運命愛を語るあなたは、しかし<偶然>に創られたものだった。――あなたは、ツァラトゥストラじゃありません!」

「私はツァラトゥストラだ! 超人の告知者にして永劫回帰の教師だ!」

「違います! ツァラトゥストラなら「私」と語らず、「私」を遂行するはずです。自己こそが支配するものであり、「私」の支配者なのだと!」

 魔法うさぎの眼がぶるぶる痙攣し、肉体が小刻みにぶれ始めた。

「ツァラトゥストラはどこからわれわれのもとにやって来たのか。誰が彼の父母なのか。運命という笑いがツァラトゥストラの父と母である。残酷な運命と愛らしい笑いとがこのような子孫を生んだのだ。それでは――偶然のもとからやって来たあなたは、いったいだれですか?」

「私は……私は……!」

「仏陀、ディオニュソス、アレクサンダー、カエサル、シェイクスピア、ベーコン卿、ヴォルテール、ナポレオン、リヒャルト・ヴァーグナー……あなたは「だれ」なんです?」

 ゆっくりと、魔法うさぎのぶれがとまった。どこか穏やかな深紅の眼が、悲しげに見つめる紫水晶の瞳を静かに捉える。

「私を人間だと思うのなら、それは勘違いです……もはや私は誰でもない。しかし、誰でもないということは、誰にでも、神々にすらなれるということだ。――ひとは私を理解してくれたであろうか。――私はまた十字架にかかってしまったのだ……」

 魔法うさぎから、超人の告知者たる魁偉な威厳のすべてが霧消した。ツァラトゥストラであったものは、ただの野うさぎとなって、何処ともなく駆け去っていった。リースは彼をあわれまずにはいられなかった。



 さて、物語の終わりが近づいてきているいま、私が語ることも残り少なくなった。まず<影の谷>公爵の三女のことについて言及しておかねばならないだろう。レナスフィール・ロック・ミュンヒハウゼン嬢は、約束を果たした。そして三月の半ば、故郷スペインで彼女はマンチキン公爵と結婚式を挙げた。その宴は美しく優雅なもので、『幸運な夢想』『黄金時代の絢爛たる秋』『騎士道の黄昏』『英雄の黄金時代』といった豪華な革表紙の古い書物の中で謳われている荘厳と光輝にみちた大祝典にくらべればささやかなものなれど、ふたりの幸福さを語る点では、それらにもひけをとらないものだった。もちろんフィナも間近で祝った。彼女はこれからもレナの大切な親友としてそばにあり続けることだろう。また、レナの頼みをきいた<影の谷>公爵のはからいで、ロジャーたち四人も式に参加することができたということを伝えておこう。

 ――季節は四月のあたたかい春を迎えた。

 別れと始まりの時期にふさわしく、ロジャー邸の玄関では、リースとゲボ子が旅立ちの支度を終えたところだった。リースは未熟ながら見習い魔法使いとして弟子を卒業したのである。彼女は自分のほんとうのしあわせを見つけた。そして目的ができた。それは愛する人と一緒に<月出ずる彼方の土地>で永遠を過ごすことだ。その相手は言うまでもなくゲボ子である。それを彼女に打ち明けると、「何だか判らんが、とにかくよし!」という答えが返ってきた。しかし<月出ずる彼方の土地>は術を極めた魔法使いとその連れしか入ることができない。そういったわけで、リースはロジャーから真剣に魔法を学び、晴れて見習いとなった。それは師匠のもとを離れることを意味した。魔法使いのユートピアに入ることを許される達人となるため、世界を巡りながら魔道の研鑽を重ねることにしたのだ。

「さびしくなるなあ……ふたりとも、たまにはメールか電話おねがいね」

「うん。粉雪ちゃん、元気でね」

「ロジャーのことよろしくー」

「あはは、お父さんは私の世話なんか必要ないくらいいきいきしてるけど。ところでお金のほうは大丈夫なの?」

「師匠から錬金術の技法をしっかり学んだから」

 リースはその奥義までは修得していないが、旅費や生活費の心配がない程度には金塊を精製できるようになっていた。

 ロジャー・ベーコンが、試験管ほどの小瓶を二つ、リースに手渡した。それはエリキシル――不老の霊薬だった。ふたりとも今の若さのままで<月出ずる彼方の土地>へ行きたいと願うリースへの、師匠からの餞別だ。一滴飲むだけで一年分の効果があり、リースがかの地に辿り着ける年月まで不足しないほど充分な量の液体が詰まっている。

「気をつけて行きなさい。<月出ずる彼方の土地>を目指す以上、決して世俗の腐敗にまみれたり、自堕落な欲望に支配されてはいけませんよ」

「はい、師匠、いままでありがとうございます。どれだけ感謝してもしきれません」

「いやいや。この半年間、私なりに楽しませてもらいました。そしてリース、あなたが、良い弟子だったと私が誇れるくらいの魔法使いになってくれることを期待させてもらいましょう」

「必ず期待にこたえてみせます! それでは、師匠、粉雪ちゃん、――行ってきます」

 それは、歓びと希望に満ちた旅立ちであった。ふたりの新しい道の始まりだったからだ。



 リースとゲボ子は、風情のある古い街道を歩いていた。小鳥たちが四月の長閑な朝に挨拶を送っている。陽光が赤紫色の花を咲かせた蓮華草に、クヌギの木の葉に降り注いでいた。コゲラがきしむような声で鳴き、木をつついて木皮の下の虫などを探している。ルリタテハが二匹、二人の近くを飛び廻り、樹液を求めてクヌギの木のほうへひらひらと舞っていった。白い花々が二人に微笑みの挨拶を送った。四月のそよ風が、花房を揺らせたのだ。春の気配に満ちた世界の、古き母なる大地の躍動に心が躍る。そんなとき、ゲボ子がリースを立ち止まらせた。リースは、胸をどきどきとさせ、想い人の行動を待った。

「ジュテ〜ム」

 宝塚歌劇団の男役のような仕草で、空色の瞳をきらきらさせながら、ゲボ子がそうささやいた。リースがぽかんとした顔で呆けていると、ゲボ子は普段どおりに戻った。

「んー、ヘンだなー。愛というものを伝えるにはこうすればいいって、フランスかぶれのラーメン屋が言ってたんだけど」

 やはりゲボ子はゲボ子であった。リースは、そんな、ありのままの彼女が好きだった。

「……こうするんですよ」

 頬をほんのりと赤く染めて微笑し、ゲボ子の両手を取るリース。そうして眼を閉じると、そっと唇を重ねた。はじめてのくちづけに、胸が、とくんとくん、ときめいた。澄み渡る青空に、五色に輝くみごとな彩雲が鮮やかな色彩を見せる。淡くはかなげな瑞雲が、形を変えながら静かに流れ、春の大気のなかで光の模様も薄れていった。

 いつかふたりが、かの境界から空へまっすぐそそり立つ、蛍光を放つ稜堡と輝かしい胸壁のまえに辿り着き、高らかなトランペットの音に迎えられ、<月出ずる彼方の土地>にある地球側の大門が、彼女たちのために大きくひらかれんことを。

 (了)

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