第18話「大地の樹」前編


 二手に分かれて情報収集を開始してから一時間になるが、調査は一向にはかどらない。

 そんな折、ヴィエは街外れに古びた教会が建っているのを発見した。元の世界の御納戸町には存在していなかった建物で、これは何かあるかもとにらんだ。

 そうして足を伸ばそうとしたときである――携帯が鳴ったのは。

「リアさん? え、なに……ふんふん……わかった、しょうがないなぁ」

 やれやれと息を吐くヴィエ。入り組んだ路地裏のほうに元の世界にはなかった図書館を見つけたが、難しい書物に関しては自分じゃよくわからないから来てほしいという。

 ヴィエは図書館の場所を聞き、すぐに向かうと伝えてから電話を切った。

 ちらりと廃教会を一瞥し、

「……まあいいか。図書館のほうが手がかりのある確率高そうだし」

 そう呟いて背を向けた。あとでまた来ればいいことだ。

 今のリアからの電話が、この世界における自分にとって、およそ考えうる限り最悪の結末を回避できた幸運に他ならないことを、無論のことヴィエは知る由もない。



 図書館前では、電話を終えたリアが壁を背にして立っていた。

 ヴィエが来るのを待つ間、現状について思いふける。

 確かにここは元の世界とは微妙に違った平行世界のようだ。隆志に会ったときなどは、羽丘家の血が流れていないということについて激しく問いただしたい気持ちを必死に押しとどめた。平行世界の人間に元の世界の事柄を訊いても、それは著しく無意味なことであるとヴィエに注意されたからだ。

「考えてみれば、あいつのほうが大変な状況だしね」

 居場所すらないヴィエのことを思い浮かべ、さすがに可哀想に思った。住宅街外れの洋館は廃屋のままで、サイモン・コウという男など影も形もない。

 いま彼女のそばにいてやれるのが自分だけだと思うと、妙に親近感が湧いてくるから不思議なものである。

「なるほどー、ここがその図書館なんだ」

 ナイトゴーントに乗ってきたのか、ヴィエは随分と早く到着した。

「リアさんはもう中を見てみたの?」

「ううん、ヴィエが着いてからのほうがいいかなと思って」

「じゃあさっそく入ってみよー」

 ヴィエとリアが館内に足を踏み入れると、図書館特有の、あまねく蔵書がかもし出すかび臭さが鼻腔をついた。ふたりがまず不思議に思ったのは、まったく人の姿がないことだった。気配どころか、本当に誰一人として視界に映らないのだ。

 入り組んだ路地裏というわかりにくいところに建っているとはいえ、暇つぶしを楽しむ老人の姿くらいはあってもよさそうなものだが。

「えーと……まずどうするの」

「図書館で一般的でない調べ物をするときは――」

 館内を見回したヴィエが二階の一角に眼をとめ、すたすたと歩き出す。あわてて後に続くリアは、やがて「特別閲覧室」と明記されたプレートのかかったドアの前に立った。

 ドアノブに手をかけるヴィエ。鍵がかかっていたら開錠の魔法を使う気であったろうが、ドアは何の抵抗もなく開いた。

 中に入った二人は、ここにも利用客の姿がまったくないことを怪訝に感じたが、それよりも眼前に広がる書物量に眼を丸くした。

「うわあ、すごい量……」

「ふうん……これは当たりかもね」

 リアはただその数に圧倒されているだけだが、ヴィエは意味深に笑んだ。普通は一介の図書館が有する特別閲覧室はそんなに広くない。一般の眼から遠ざける稀覯書の類がこれほどの数に昇るのは驚くべきことであり、しかもそれが、ぱっと見て魔術・神秘関係の本を中心に集められているのだから、ほくそ笑みたくもなるものだ。

 と、そこへ、唐突に人の気配がしたかと思うや、一人の女性が近づいてきた。

「特別閲覧室に何か御用ですか?」

 淡々とした綺麗な日本語で話しかけてきたのは、館内の者らしき白人の女性だった。

 見事な灰褐色の髪をした、鮮やかなブルーの衣服に身を包んだ女は、黒いフレームの眼鏡越しに赤茶色の瞳を向けてくる。容姿は三十代半ばに見えるが、年齢の特定しにくい不思議な雰囲気を漂わせており、どこか得体の知れない老獪さを感じさせるのだった。

「貴女はここの方ですか?」

「ええ、私はシンディ。シンディ・デ・ラ・ポーア。この図書館の司書を務めてます」

 シンディと名乗った女性司書は、その物腰同様に抑揚のない声で眼鏡に手をかける。

「ようこそ特別閲覧室へ。あなたがたはどんな知識をお求めですか?」

「……ワケあって、魔術や神秘学に関する書物を閲覧したいの」

「それはそれは。ではお任せください、ここはそういう著書を多く取り扱っているのですから。ことオカルトの貴重な蔵書に関しては、ハーヴァード大学のワイドナー図書館やミスカトニック大学の附属図書館にもひけをとりませんわ」

 リアにはよくわからないが、ヴィエはますます感心をあらわにした。

「本来なら特別閲覧室の利用には手続きが必要なのですが、あなたがたは久しぶりの閲覧者ですから、手続きなしで構わないわ」

 よほど利用客が縁遠かったのだろう、シンディ女史は軽くウインクしてあっさりと許可を出した。但し、貴重な書物ばかりなので貸し出しは禁止ということだった。

「よし、それじゃあわたしはさっそく調べ物に取り掛かるから、リアさんはその辺で適当にくつろいでて」

「……わかった」

 渋々と頷くリア。手持ち無沙汰になるのはいやだが、この手のものに関しては足手まといにしかならないことを承知している。

 邪魔にならないところで興味を向けてみたものの、置かれている書籍の殆どは外国語で書かれたものばかりなので読むことなどできなかった。英語やギリシア語、ラテン語どころか、アラビア文字やタミル文字で書かれた超難解な書籍まであるのだ。

 せわしく多数の本棚を移動しながら、ぎっしりと詰まった書籍を丹念に調べつつ、ヴィエはその膨大な数の魔術書、魔道書、魔術研究書に舌を巻いた。他にも神智学に関する本や印形に関した書籍など、実に多岐に渡った、まとまりのない稀覯書の宝庫だといえる。

 ざっと確認しただけでも、『侵入の書』と書かれたドルイドの魔術書、ウェイド・ジャーミン著『アフリカの地域的観察記録』、フレイザーの『金枝篇』原本、レミギウスの『悪魔礼拝』、マダム・ヴラヴァツキーの『アエテュル尊厳書』、ウォード・フィリップスの『ニューイングランドの楽園における魔術的驚異』、暗号解読書らしき『ロガエスの書』、ロジャー・ベーコンの『化学宝典』、その他にも『金武蜀異聞記』、『西洋における魔女崇拝』、『世界開始の科のお伝え』、『人工失楽園』、『海猫屋〜風音市奇談〜』等……

「ドイツ語版『ドジアンの書』にダレット伯爵の『屍食教典儀』、『エイボンの書』まで」

 氷河期以前に地球にあったとされるハイパーボリア大陸の、ムー・トゥーランで名声と威信を得ていた魔道士エイボンにより、ハイパーボリアの言語で記述された魔術書――それが『エイボンの書』である。

 翻訳につぐ翻訳を重ねて現在に伝わっているため、数多くの言語で記述された写本や手稿などが現存し、不完全な断片の幾つかがミスカトニック大学附属図書館に収蔵されている。

 いまヴィエが手にしたものはラテン語版の刊行物であるが、こんなものまで保管してあるとは。

 じっくり読みたい気持ちを必死に抑えて書棚に戻し、ヴィエは元の世界に帰る方法に関連ありそうな書籍を探すことに専念するのだった。

 やがて、ひとつの本に眼がとまった。

 書名は『神代遺産録』とあり、かなり古い書物のようだ。

「著者は……王蒼幻!?」

 以前天封呪に関する知識を得たときに、その名前もあったことをヴィエは思い出した。

 王蒼幻とは、神代から生きていると伝えられる仙人で、世界最高の術士に名を挙げられる太古の人物だ。オリジナルの転生術を用いて前世の記憶を継承しながら転生を繰り返しており、神代の遺物や遺跡を管理しているらしい。

 これだ、と思った。天封呪は神代に生み出された禁呪だから、その時代から管理を担っている者の著した書物ならば、天封呪によって平行世界に飛ばされた者を元の世界に戻す方法についても記されている可能性が高い。

 手早く本を開いて、ヴィエは眉根を寄せた。

「神代の文字? 写本だろうけど、まいったなあ」

 さすがに神代の文字は読めない。解読しようにもかなりの準備と期間が必要で、貸し出しが禁止なのではどうしようもない。仮に持ち出しが可能だったとしても、解読を試みているうちに存在が定着化してしまうだろう。

 パラパラとページをめくりながら、ふと紙面に手を触れた時、思わず取り落としそうになってしまった。

 ――指先を通じて感覚的な何かが伝わってきたのだ。

「これは、もしかして……擬似思念による残留伝達?」

 本の内容を擬似的な思念で内包して残しておき、強い力を持つ者が紙面に触れた時、文字が読めなくても理解できるような反応措置が施されてあるに違いなかった。王蒼幻ならそういったことも可能だろう。

 これならとばかりに、適当なページを開いて慎重に手を触れる。たちまち指先から感覚的なヴィジョンが流れ込んでくるが、空間思考的な文字配列がめちゃくちゃで理解できない。さすがに一筋縄ではいかないようで、優れた認識能力を要求されているのだ。

 ここが腕の見せ所――ヴィエは膨大な魔力を消費して伝達の配列変換を行う。それでも数分ともたないため、限られた時間内に幾つかの箇所を関連付けて解読する。

「うぁ、もう、らめえっ」

 ろれつの回らない舌で声を発し、半ば眼をくらくらさせながら本を閉じると、ぐったりした様子でその場にへたり込んだ。

「た……大聖樹ぅ」

 リアに抱き起こされつつヴィエが口にした言葉はそれだけだった。



 図書館を後にした二人は、公園のベンチで一休みしていた。

「大丈夫?」

「うー、なんとか……」

 ヴィエが相当に疲労したらしいことは声の調子からも明らかだ。

 彼女が『神代遺産緑』の一箇所を解読して得た知識は「大聖樹」という遺物のことについてであり、大地の再生ならびに豊穣のため創られた存在ということだった。

「どうも『心』を与えられているみたいだから、会って話を聞くことができれば、わたしたちが元の世界に帰れる方法がわかるかもしれないわね」

「でもその大聖樹っていうのがどこにあるかわかるの?」

「それは目星がついてあるから、実際に行って確かめてみましょ」

 リアと落ち合う前に御納戸町の調査をしていたとき、ある山奥の村にて、遥かな昔より大地に関した神樹が祭られているという噂と、ある程度の確証をも掴んだ。その情報が大聖樹の項目と結びついたのかもしれない。

「もう日が落ちたし、明日の朝になったら出かけるということでオーケー?」

「いいけど、あんた今日はどこで一夜を過ごすつもりなの」

「その辺は気にしないで――って、リアさん、なんでわたしの手首をしっかりと掴んでるのかな? なんで睨めつけるような眼で見るのかな?」

「……魔術か何かを使ってホテルに不正宿泊でもする気でしょ」

「わかってるなら話ははや、い、いたたたたっ、リアさんへるぷー!」

「ああ、もう、私の家に泊めてあげるから一緒に来るっ」

 ヴィエの手首をぐいぐい引っ張って、赤黒く染まった空の下を闊歩するリアだった。



「で、なんでリアさんの部屋で一緒に寝ないといけないの?」

「しょうがないでしょ、この世界だとお父さんもお母さんも家にいるんだから」

「まあいいか。じゃあ遠慮なく……」

「おい。なに堂々と一人でベッド占領しようとしてるのよ」

「わたしお客さんだからベッドで寝るのは当然でしょー」

「私はどうなるのよっ」

「ベッドが使えないなら、床で寝ればいいじゃなーい?」

「てめー」

「あはは、冗談冗談。使わせてあげるから感謝してね」

「私のベッドだってば!」

 羽丘家二階の一室で交わされるやり取りは、どこか楽しげな響きを伴っており、その夜、ふたりの少女は、パジャマ越しに伝わる互いの肌の温もりを感じながら眠りについた。

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