第15話「プライオリティ・ワン」後編


「愛玩人形ねえ。わたしを食屍鬼にして意のままに操ろうってことでしょ?」

「そんな勿体無いことはしないわ。あなたはショゴスになるの、光栄に思いなさい」

 ヴィエは眼をぱちくりとさせた。

「人がショゴスを使役しようなんて、おこがましいとは思わない? 人類より遥かに高度な文明を築いた「古のもの」でさえ手を余すに至り、絶滅寸前にまで追いやられる要因の一つになったのに」

「古のもの」は、約十億年前に外宇宙から地球上に飛来し、南極大陸に、現代科学を凌駕する巨大都市を建設した高度に知的な生物である。「古のもの」は地球各地で繁栄し、その文明は瞬く間に版図を広げていった。

 ショゴスは、「古のもの」どもが地球上での労働力として使役する目的で最初に作り出した、万能の細胞を持つ原初のアメーバ状生物である。ショゴスは初めのうちは創造者たる「古のもの」に従順だったが、自己進化能力ともいえる特殊な性質による分裂繁殖を繰り返すことにより、徐々に「古のもの」の支配に対する抵抗力を身につけ、二億五千年前には最初の叛乱を起こしている。

 かくして「古のもの」は、種としての限界と退廃期、冥王星より飛来した「ユゴスよりのもの」や超銀河宇宙イスから飛来した「イスの偉大なる種族」らとの戦争、度重なるショゴスの叛乱を経て徐々に衰退していき、現在では南極大陸地下の海底都市に僅かな生き残りを残すのみとなった。

 何度も繰り返された闘争を経て、ショゴスは優れた力を次々と身につけていき、中でも「古のもの」の行動を模倣することで高い知性を身につけた固体は恐ろしいほどの適応能力を持ち、人間の姿をとることもできるという。また、ショゴスの細胞こそが地球上の全ての生物の進化の出発点となったという説もある。

「人間は無力なだけの存在ではないわ。人を異形化させオリジナルに近いものを使役できる魔術は、私の力量をもって見事な成果をあげているもの」

「確かに人間は無力じゃないけど、無力でもあるのよ」

「ふふ、つまらない議論をする気はないわ。私はあなたを思い通りにして弄びたいだけよ」

「ふうん……」

 嫌な笑みを浮かべる美女を、ヴィエは意味ありげな視線でじっとりと見つめ返した。

 そして、言った。

「苦労してるね、わざわざ女性の姿になってまで世間から自分を隠すなんて。――そんなに悔しかったの? オタッツ」

 オタッツはチェコ語で「父」を意味する。

 一瞬、小さく唇をすぼませ、錫という名の女は高く哄笑した。図星だと認める風に。

「優れた魔道士のはずのハーケンがあっさりとあんな有様になったのは、久しぶりに訪ねてきた友人に魔術実験を持ちかけられ隙を見せたから。そしてわたしの屋敷の結界が短時間で解除されたのは、相手がその基礎を教えた本人だと考えれば合致がいくしね」

「ふふふ……流石は我が娘。そうだ、私はロンダルキアだ」

 女がパチンと指を鳴らす。一瞬で、優美な鬚を生やした中年の紳士へと変貌した。

 錫の正体は、ヴィエの父ロンダルキア・ウビジュラであった。

「星の智慧派は世俗から私を隠蔽するいい潜伏先であると同時に、様々な知識と介入力をも得ることのできるところであったよ。そして、私の復讐は今こそ果たされる」

「わたしへの逆恨み? そんなことで……」

「そんなことだと!? エルダーサインを体内に融合化させる秘術を完成させるのに二十年もかかったのだぞ! それを……お前が……私ではなくお前が! 何故だ!」

 激昂する父を冷めた眼差しで眺め、ヴィエはひどく呆れた。

 これが聡明で立派だった父か。

 尊敬していた父なのか。

 二十年かけて完成させた成果が自分のものにならなかったのが、それが娘のものになったことが、ここまで成り果ててしまうほどにショックだったのだろうか。いや、そうなのだろう。自分だって性格がひねくれてしまったではないか。

 ヴィエはどっと重い息を吐いた。それが心情の全てを表しているかのようだった。

「しょうがないでしょ? 選ばれたのはわたしだったんだから。――お父さんには天運がなかったのよ」

 天運。そう、天運だ。<旧神>に願いが聞き届けられ、加護が降りたのなら、それを受けられなかった父は、まさしく天運がなかったとしか言えないのだ。

 ロンダルキアは暫し沈黙していたが、やがて昂揚を落ち着かせると手で何かを指図した。

 命令に従うように、左右に整列していた食屍鬼どもが全員、聖堂から出て行った。

「父の優しさだよ。初めては恋人に捧げさせてあげよう」

 ロンダルキアが指を鳴らすと、祭壇脇で棒立ちになっていたサイモンがゆっくりとヴィエのほうへと動き出す。

「呆れるほどの優しさだね」

 そうくることは予想済みだ。ヴィエはやや緊張を交えながらも、サイモンが近づいてくるのをじっと待った。タイミングを見計らうかのように。

 術をかけた相手が近くにいることは、逆に即死発動を阻害することも可能ということだ。

 サイモンが目の前まで来た。集中して魔力を発動させた。術の解除を試みる。

「――!?」

 愕然とした。まさか、解除できない?

 ロンダルキアが冷笑を浮かべる。

「私も見くびられたものだな。かの『ナコト写本』に記されていた人心操舵の術だぞ、解除できるわけがなかろう。ウビジュラ家の栄光はやはり私にこそ相応しい」

 見くびっていた。精神的に堕落したとはいえ、父が優秀な魔道士であることにはいささかも変わりないのだ。純粋な実力だけでいえば彼のほうが上だ。

 サイモンに強く腕を掴まれ、ヴィエは思わず声をあげて痛みに顔をしかめた。

「サイモンくん、駄目だよこんな……きゃっ」

 頬を張られ、その場に倒れ付す。眉一つ動かさず、一言も発さずに覆いかぶさり組み伏せてくるサイモン。声を荒げ、手と足をばたつかせてヴィエは必死に抵抗した。その様子から普段の冷静さは微塵も感じられない。

「やめて……だめだってば。わたしはサイモンくんが望むなら喜んでそうしてあげるけど、でも、これはちがうよ。こんなのは――ぅあっ!」

 頭を押さえられ、後頭部を床に打ちつけられ、衝撃に一瞬目眩がした。抵抗する意思と力が急速に抜けていく。術により筋力も増強されているのか、服が薄紙のように引き裂かれ、純白のキャミソールがあらわになる。さらに破られた黒タイツからは上の下着と同色の淡いショーツが覗いた。

 淡々と眺めるロンダルキアは、暗く冷たい笑みを口もとに張りつかせているだけだ。その瞳には感慨の炎が揺らめいている。

「前戯も愛撫も要らん。一気に貫け」

 その命令どおりに、サイモンは屹立したものを、ずらしたショーツの隙間へ無造作にあてがい、まったく濡れていない幼き秘泉へと無慈悲に挿入した。

 一拍置いて、甲高い悲鳴があがった。



 事を終え無表情に立ち上がるサイモンと、茫然と横たわるヴィエ。

 一部始終を観賞したロンダルキアが狂ったような形相で、それまで抑えていた歓喜の高笑いを発する。

「ははははは! 素晴らしい! 最高だ! 実に甘露だ! よし、良いものを見せてくれた褒美に、お前をショゴスにしたら最初にその男を食い殺させてやろう。ははははは! うむ、いいな、それは見物だ!」

 そんな父の言葉も耳に入らず、ヴィエはうっすらと上体を起こして恋人を見上げた。

 ダークブルーの瞳からとめどない涙が溢れた。

「ごめんね」

 ひっそりと漏れたのはその一言だった。

「ごめんね、サイモンくん……サイモンくん純愛が好きなのに……それなのにこんなことになっちゃって……ほんとうに、ごめんなさい」

 しゃくりをあげてぼろぼろ泣き出す。最愛の人を想うゆえの悲しみの涙だ。

 意図を伴わない純粋なるそれがどう作用したか、

「……許せねぇ」

「――え?」

「なに!?」

 ヴィエとロンダルキアが信じがたいふうに眼を見開いた。確固たる重みを湛えた呟きと同時に、全身をぶるぶると震わせるサイモン。

「女の子を、ヴィエちゃんを泣かせるなんて、てめぇ許せねぇー!! 出て行け、俺の体から出て行けだぜー!!」

 がすがすと自分で自分の顔を殴り始める。あまりの怒りにサイモンの自我が目覚めたのだ。

 これだけ憤怒したサイモンを見るのは初めてである。しかし、その怒りが自分のために発せられたのだと思うと、胸の奥から嬉しさがこみあげてくるヴィエだった。

「馬鹿な……私の術は完璧だ。それが何故?」

 うろたえる父を尻目に、ヴィエは思い出していた。

 サイモンとの出逢いを。

 初めて会ったとき、彼は驚異的な妄想力で、彼女の幻術すら自分に都合よく変化させたのではなかったか?

 だとするなら、寸止めではなくしっかり事が終わった後で助けが入るという、陵辱系アダルトアニメでは理想的な展開に倣ったようなこの事態も、サイモンの嗜好に反するとはいえある意味彼らしい都合の良さといえるのではないだろうか。

「ええい、なめるな若造!」

 ロンダルキアが魔力を強めると、瞬く間にサイモンの反乱は治まり、もとの操り人形に戻った。

「ふふふ……所詮は無駄なあがきだったな」

「そうでもないよ」

 よろよろと立ち上がるヴィエ。太ももから一筋の血が伝い落ちた。

 破瓜の痛みを堪え、サイモンに向けて魔力を集中させる。

 次の瞬間、これも瞬く間に、サイモンが意識を失い、ぐらりとふらついた。彼にかけられていた『ナコト写本』の術が解除されたのだ。

「なんだと!」

「どんなに強力で完璧な術でも、一度でも綻びができたら脆いもの……お父さんが教えてくれたことだよ?」

 恋人を優しく床に横たえ、ヴィエはぞっとするような微笑を父へ向けた。

 ボロボロになった衣服から覗く瑞々しい素肌。その腹部に、アーチ状の門が現れるや左右に開き、門の中の暗澹たる星空がきらめくと、たちまち周囲が『夢』に浸食されていく。

 エルダーサイン融合化の成功時に誕生した副産物。夢の門。

「くっ、ショゴスよ!」

 これはまずいとばかりに、ロンダルキアは使役するショゴスを呼んだ。

 しかし、数十秒が経過しても何も起こらなかった。

「よかった、ちゃんと助けに来てくれたみたい」

「――まさか!」

 どこかホッとしたような喜びの表情を浮かべるヴィエに、ロンダルキアは事態を察した。

 ちょうどいまこのとき、聖堂の外では、リアと権化が食屍鬼どもやショゴスを相手に奮闘しているのだった。ヴィエが密かに召喚したナイトゴーントが、親子水入らずで夕食をとっていた羽丘家を訪れ、主人の危機と居場所を伝えたのだ。

 権化は無視したが、リアは、助けを求めてきた以上は放ってはおけないと、複雑な心境ながらもヴィエを救出しに向かった。

 たどり着いた聖堂の敷地内で食屍鬼どもを相手に善戦していたが、敵の侵入に刺激されたショゴスが現れ攻勢が逆転したとき、愛娘の跡をついてきていた権化がやれやれという感じに参戦したのだった。

 調整用の魔術用具を盗んだ以上、すぐには夜鬼を召喚することはできないだろうと踏んでいたロンダルキアの目論見は、もろくも崩れ去ったことになる。

「あのね、いま幻夢境ではハテグ=クラの山頂に大地の神々が往来しているみたいなの」

 にっこりとほほえむヴィエ。意図を理解した父は蒼白となった。

「まっ、待て! 私が悪かった! やり直そう、以前のように!」

 恥も外聞もなく、みっともない顔で許しを請うロンダルキア。

 哀れなまでの醜態をさらす父を見据え、娘はふるふると首を左右に振った。

「一年と十ヶ月くらい遅かったかな? いまのわたしの一番はサイモンくんなの。これから先もずっと」

 さようなら、お父さん。

「賢人バルザイの末路を辿らせてあげる」

 一瞬で、長身の紳士の姿は夢の門に吸い込まれて消えた。



 気がつくと、ロンダルキアは、何処とも知れぬ崖の頂に立っていた。

 きわめて薄い霧の彼方に複数の人影が見える。

 それは、翳った月光の下、夜闇のなかで舞い踊る大いなるものどもが戯れる姿。

 そうと認識するや、ロンダルキアはつぶさに恐れおののいた。

「ち、違う、これは違うんだ……私は何も見ていない、見に来てなどいない!」

 彼が恐れるものは大地の神々ではなく――

 ふいに、上空に気配が燈った。幾つもの、名状しがたい真なる窮極の恐怖。

 苦悩に苛まれた終生の恐怖と苦悶を、凄まじくも一瞬に集約して響かせる悲鳴が迸った。



 かの賢人バルザイの最期の言葉をここに残そう。

『蕃神だ。蕃神どもだ。弱々しい大地の神々を護る外なる神々だ……目を向けるな……引き返すのだ……見るな……見てはならんぞ……これこそ無限の深淵だ……わしは空に落ちていく』



 夜も更けた洋館の寝室で、ヴィエは潤んだ眼差しを恋人に向けた。

「い、いいのかい、ヴィエちゃん……あんなことがあった後なのに。それに、俺は……」

「うん。サイモンくん自身でわたしを愛してほしいの。だいじょうぶ、サイモンくんは気にすることなんかないよ? ううん、むしろその気持ちを包んでほしい」

「……わかった。そ、その、俺の意思でするのは初めてだから、うまくできないかもしれないけど……」

「もうー、それ男の人が言うせりふじゃないよー」

 半年近く前の蛇女事件のときと、今回の一件。確かにサイモンが自分の意思で性行為に挑むのはいまが初めてなのだが、だからといってもう少し女心を考慮してほしいと思う。

 それでも心音の高まりを感じ、ヴィエはベッドの上ではにかんだ。

 そんな少女にたまらなく愛おしさをおぼえ、サイモンは横たわる可憐な肢体へ近づく。

 肩に触れると、ひっと小さな声が漏れて体を震わせたため、思わず手を離す。

 ヴィエは眉を下げて苦笑してみせた。

「ご、ごめんね。まだ感覚が消えてなくて……えっと、できれば、優しくしてもらいたいかな?」

 いじらしい仕草に、サイモンはひとつ頷くと、ぎこちない口づけで応えた。

 それだけでふるえはなくなった。

 やがておずおずとふたつの影が重なり、あたたかい吐息が絡まっていく。

 衣擦れの音がして、明かりが消えた。

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