第5話「鏡の向こう側」


 鏡があった。

 磨き上げられた青銅の枠に、悪魔や食屍鬼などが見事に鋳込まれた、知識があれば古代エジプト王朝の代物と酷似していると見て取れる、古ぼけた鏡が、教会の一室にひっそりと掛けられたのはつい最近のことだった。



 トラペゾ教会は御納戸町の一角に建つ小さな教会である。

 先代神父が半年前に亡くなってから、彼と深い交流があった一人の青年神父が教会を引き継ぎ、数ヶ月前に新しく赴任してきた。

 その青年の名を羽丘隆志という。

 穏やかな物腰と親切丁寧な態度、ときにユーモアを交えた言動と人当たりのよさは老若男女問わず好感を得るにふさわしく、近隣からの評判はすこぶる上々だ。また艶やかな黒髪と、灰色の丸眼鏡から覗く柔和な顔立ちはなかなかのハンサムといって差し支えなく、礼拝には若い女学生も少なからず足を運ぶようになった。

 そんな風に快く周囲に溶け込んでいる隆志であるが、少し付き合いを重ねた者ならば彼の人どなりについて、時折飄々とした面を窺わせるのに気がつくだろう。

 説法を述べるときも、たまに奇妙なまで哲学めいたものを饒舌に話し聞かせることもあり、その内容たるや不可思議たる難解さを有しているため、聞く者によってはまったく反応が違うことも珍しくはない。

 それが羽丘隆志の通俗的な人柄だった。



 甘味処『白鷺』は御納戸町の商店街にある和風喫茶で、雰囲気ある内装と四季折々の甘味で甘党を中心にそこそこ評判の店だ。下が袴風のミニスカートという和洋折衷のデザインである女子店員の制服も店内とマッチしている。

「いらっしゃいま……せー」

 入ってきた客に元気よく愛想を向けようとして、腰まであるストレートロングの金髪と空色の瞳が可愛らしい、小学生とも見まごう背丈のアルバイト娘の声が、みるみるうちにトーンダウンした。

 席についた客のテーブルにぞんざいな動作で湯飲みを置き、

「なんであんたがここへ来るのよ」

 メイド喫茶に来た客であれば間違ってツンデレ喫茶に入ってしまったかと困惑するだろう態度で、アルバイトの娘――リアライズ・羽丘はジト目を向けた。

 眼前の客は、彼女の父親の弟、羽丘隆志だった。神父服は彼の普段着でもあるらしいが、その格好で居酒屋やパチンコなどにも足を運んだりするから困る。

「リアちゃん、店員として客に接する態度ではないですよ」

 いつもどおりの微笑で穏やかにそう言われ、リアのこめかみがぴくぴく動いた。

「あんたに敬語を使うくらいならクビになったほうがマシよっ」

「髪を下ろしたリアちゃんも魅力的ですね」

「聞けよ。ていうか、バイト先には来ないでって言ったでしょ?」

「可愛い姪が可愛い制服を着て勤労に励んでいる姿を見たい……ささやかで真摯なる欲求を、大いなる神々も認めてくださりましょう」

「はぁ……で、ご注文は?」

 溜息ひとつでスルーしてオーダーに入る。不毛なのはわかっているのについつい相手をしてしまう、そんな不器用な自分がときどき嫌になるリアだった。

 隆志が注文したのは「おふくろクリームあんみつ」。季節を問わず店の人気メニューだ。

 席を離れたリアの胸中は、どうにも判然としない苛立ちに満ちていた。

 隆志のことを快くは思っていないが、心底嫌いかというとそうでもない。さりとて普通に接するには遠く、ましてや異性として意識していたりすることなど毛頭ない。

 ではなぜか。

 考えるに性質的な問題と、なにより『家族』に溝が出来た原因だから。

 結局のところ、これに尽きるのかもしれない。

 リアの記憶にある隆志という人物は、彼女が物心ついてからの数年間と、彼が海外から帰国してきてからのここ半年だけだ。したがって、疎ましく思う気持ちは年月を重ねたものではなく、実際にはそれほど要因は多くないといえる。

 幼少時のリアの目に映る隆志は、少し変人っぽいところはあるが、基本的には気さくで優しく頭もいい素敵なお兄さんだった。

 それは今でも変わらない――ように見える。少なくとも表面上は。

 十年前、ひとつのことが羽丘家の内にて発覚した。

 羽丘隆志は邪神の信奉者であった。

 それを暴いたのは、彼の兄でリアの父親である羽丘権化。いつからそうであったのかは不明だが、隆志は自分をナイアーラトテップの信奉者だということを認めた。その時の薄ら寒い冷笑は、十年たった今でもリアの脳裏から離れて消えない。

 ナイアーラトテップ。

 ある種の魔的な稀覯書に見受けられるその名は、「這い寄る混沌」、「無貌の神」、「大いなる使者」、「百万の愛でられし者の父」、「ニャルラトテップ」、「ナイアルラトホテップ」など、幾つもの異名で畏怖される存在の呼称で、人類にとって「邪神」と定める他ないという。

 リアは今もってよく知らないのだが、父はそのあたりの知識と、かの存在がどれだけ破滅的に危険なものであるかをよく心得ていたため、直ちに改心を試みる説得にあたった。

 しかし隆志は心を変えることはなく、そのときの兄弟の有様たるや古典落語の「宗論」をシュールにしたようなもので、ついに羽丘権化は実の弟を勘当するに至った。

 隆志は気にした風もなく家を出て、どこ吹く風とばかりに海外へ渡って行ったのである。

 父が凄腕の退魔師であるということをリアが知ったのはその後で、彼女が退魔師を目指すことを決意したのはこの事がきっかけなのだった。

 クリームあんみつを隆志の前に置き、

「食べたらさっさと帰ってよ?」

「じゃあゆっくり味あわせてもらいます」

「ふんぬー」

 小さくうなり声を上げて踵を返したリアは、ふと、彼が自分や父を悪く言ったことは、これまでに一度もないということに気づいた。



 夕刻の川辺を歩いていた隆志がふいに足を止めた。

 草むらの一辺を神妙な眼差しで見つめ、丸眼鏡の縁を数回こすると、うっすらとした半透明の少年が映った。ニット帽をかぶった半ズボンの幼き姿が、悲しそうな顔で佇んでいる。

 隆志は呟くように魔術詠唱らしき囁きを発すると、胸元で十字を切った。

 少年の身体がきらきらと白く発光した。最後に安らかな笑みを浮かべた少年は、ふっと空気に溶けて消えた。

 数年前、この場所で悲惨な事故が起きたらしい。

 ひとつの哀れな魂を救済した青年神父が、自宅でもあるトラペゾ教会へ帰ると、礼拝堂で一人の少女が祈りを捧げていた。

 少女が振り向いた。

 人生に疲れた者が一様に見せる、あのひっそりとした暗さに沈んだ、十代半ばの面持ち。

 折しも茜色の空が濃い蒼へと落ちたところだった。



 険しい顔をした男が、殴りこむ寸前の勢いで教会のインターフォンを叩いたのは、午前零時も近づいた夜更けのことである。

 窓のない個室に通された男はじろりと室内を見回し、眼前の青年神父に食ってかかるように耳障りな怒鳴り声を上げた。

「娘は、恵美子はどこだ!? さっさと渡せ!」

 仕事から帰ると義理の娘の姿がなかった。あちこち探し回ったが徒労に終わり、怒りと焦燥に身を募らせながら家に戻る途中で携帯が鳴り、教会の神父に呼び出されたのだ。

 今にも爆発しそうな剣幕にも顔色一つ変えず、隆志は平静に口を開いた。

「その前にひとつお聞きしますが――」

「お前なんかに話すことは何もない! 娘を出せ!」

「落ち着いてくれないと警察をお呼びすることになりますよ?」

「チッ……聞きたいことはなんだ」

 舌打ちして幾分か態度を軟化させるあたり、警察沙汰は困るらしい。

「恵美子さんは幼少時にご両親が亡くなってから親戚の間をたらい回しにされていたそうで、そしてあなたが引き取った。ちょうど奥さんを亡くしたばかりで、子供もいなかったこともあって」

「ああそうだ。それがどうした」

「最初は純粋な気持ちで引き取ったのでしょう、あなたは恵美子さんを大層可愛がった。ようやく平穏な日々が戻ってきたと思われます。――彼女は美しく成長していったそうですね、年頃になるにつれ」

「……何が、言いたい?」

「もともと血の繋がりはないわけですから、心惑わされるのは致し方ありません。ですが、あなたを信じていた彼女にとっては天国から地獄だったことでしょう」

 男は無言になり、拳を震わせながら、みるみる剣呑な表情に変わっていく。

 あと少しで暴力に訴えかねないというタイミングで、隆志は次の一言を放った。

「恵美子さんなら、あなたの後ろにいますよ」

「――!?」

 ハッとして振り向いた男の目に映ったのは、壁に掛けられた鏡だった。磨かれた青銅の縁取りに、怪蛇や悪鬼や屍鬼の姿が忌まわしくも壮麗に彫りつけられている、一見して古ぼけた鏡だ。

 なめらかな鏡面に映るのは男の姿のみで、彼は憤慨して青年神父へ向き直った。

「ふざけるな! 大体、俺がいなかったらあいつは厄介者として行き場をなくしていたところだ。八年も面倒を見てやったんだ、恩返しをしてもらったっていいだろう!?」

「ちなみに、その鏡は僕の知人が最近、裏方面の競売で落札した代物で、ニトクリスの鏡の贋作です。衝動買いで手に入れたものの大して使い道もなかったようで、僕にくれたんですよ。でも僕としても用途はこれといってなくて放置していたんですが……つい先刻、初めて使用する羽目になりました」

「聞いてるのか! お前の話なんかどうでもいいんだよっ」

「さっき恵美子さんから事情を聞き、それなら僕が何とかしましょうかと言ったのですが、彼女は首を横に振りました。彼女の心の闇は深く、絶望にも似た諦めに染まっていたのです。残念ながら手立てはなく、そこで、僕は彼女に提案してみました」

 激昂していた男は、急に娘の話に戻され一瞬たじろいだ。ここでもし男がオカルティストであったなら、先の話と関連付けて恐ろしい想像が閃いただろう。

「ニトクリスとは、エジプト第六王朝の女王で、この世ならぬ鋼鉄のごとき意志を持ってギゼーの玉座を占め、臣民を恐怖に打ちひしぎつつ支配した人物です。詳細は省きますが、女王ニトクリスが所持していた鏡は異界へ繋がっているとされ、午前零時になると鏡面が異界の門と化し、鏡の中はおぞましい怪物たちが蠢く世界で、女王は捕らえた政敵達をことごとくその餌食としたそうです。――あなたの背後の鏡は贋作にすぎませんが、それでも名のある魔術師が造り上げたものに違いなく、面白いことに奇数と偶数の数秘的な効果があります。一度に鏡の中へ入れるのは一人きりで、最初に鏡の中へ入った者は怪物と化し、次に入った者はその餌食となる。後はそのくり返し」

 ここまで話されたところで、さすがに男の額に脂汗が滲み出す。

 馬鹿馬鹿しい与太話と唾棄したくとも、このような深夜に教会という場所の薄暗い一室でそんな話を聞かされれば、いやがおうでも不気味さが増してくるのはやむを得ない。

 ふと腕時計に眼をやると、ああ、午前零時をまわったところではないか。

「その鏡は幾度となく持ち主を変えているため、それまでの順番はもはや誰にも分かりません。さて、僕が彼女に提案したことは予想がつくと思いますが、結果は……」

 青年神父が人差し指を上向けた。彼の後ろにも鏡があった。それは何の変哲も曰くもないただの鏡だが、合わせ鏡となって映る自分の姿とその背後を、男は見てしまった。

 青白い顔をした義理の娘が、ぞっとするほどの笑みを浮かべていた。

 鏡面からそそり出た両手が信じ難い異界的な力で、慄然とする男の肩を背後から掴んだ。

 見る間に鏡の中へ引きずり込まれていく男を冷笑混じりで眺めつつ、隆志は、

「アーメン」

 淡々とそう口にした。



「ふわあぁぁあ」

 真昼の暖かな陽光を浴びて反射するテラスで長椅子に腰をかけ、うとうとしながらあくびを漏らしたのは、星を意味する名前を持つチェコ人の少女である。

 玄関のベルが鳴った。来客は見知った相手であり、ヴィエはまたひとつあくびをしてのそのそと開錠に向かった。

 客間でテーブルを挟んで席についた青年神父がロイヤルミルクティーを一口含んだ。

「このまえヴィエちゃんから貰った鏡、先日役立ちましたよ」

「へえー、そうなんだ。タカくんが私情で使うのは考えにくいから、人絡みかしら」

「ご想像にお任せします」

「で、今日来たのはそれを言いに?」

「いえいえ、今のは前置きで本題はこれからです」

 少しもったいぶったような切り出しで微笑し、隆志は言った。

「ミスカトニック大学附属図書館から『セラエノ断章』の貸し出し許可が降りました」

「――!」

 端正な顔が瞬く間に喜色を帯び、少女は軽快に指をパチンと鳴らしたのだった。

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