第14話「プライオリティ・ワン」前編


 優しかった母。

 出産のときが近づくほどに、うれしさの度合いは増していった。

 わたしも、妹ができるということによろこびを感じていた。

「名前も決めてあるのよ」

「なんていう名前?」

「ミエシーツ」

「わあ、わたしとおそろいだね」

 ミエシーツはチェコ語で月を意味する。フヴィエズダは星だ。

 星と月。

 姉妹で奏鳴曲を響かせたら、さぞかしすてきかもしれない。

 母のお腹に耳を澄まし、命の鼓動を感じながら、温かく心地よい手に頭を撫でられる。

 数年前の、色褪せた記憶。

 もし子供が無事に生まれて、母も健在であったなら、わたしの今は違っていただろうか。

 そう思うことがたまにある。



 まさかという驚きと、やられたという舌打ち。

 荒らされた自室を再度確認し、ヴィエは矛盾するふたつの感情を同時に表した。

 ハーケン宅を後にして家に帰ってきてみたら、泥棒に入られた痕跡を目の当たりにすることになってしまった。まさか結界を解除されるとは。

 ヴィエは屋敷全体に力押しでは破ることの難しい複雑綿密な結界を施してある。それが短時間で解かれるとは、犯人は信じがたい技量の持ち主なのか。

 そもそも結界が破られた場合は即座にわかるようになっているのだが、それが伝わらなかったのは、考えるにハーケン宅で終始消えなかった奇妙なもやもや感によって遮断されていたのだろう。やられたというほかない。

「すまないヴィエちゃん! 俺に悪漢どもを押さえる力がもう少しあれば……サイモンアルティメットバーストの使用許可さえ承認されていれば、むざむざ賊どもを捕り逃すような真似はなかったというのにっ」

 傍らで悔しそうに妄言を吐くサイモン。彼はずっと専用のゲーム部屋で新作ゲームをヘッドフォン着用で夢中になってプレイしていたため、まったく侵入者に気づかなかった。

 普通ならこのバカとなるところだが、

「うんうん、そうだね。サイモンくんが無事で本当によかったあ……」

 安堵の吐息を漏らして恋人に抱きつくヴィエ。泥棒に入られたと知った彼女が真っ先に心配したのはサイモンの安否であり、ゲーム専用部屋でのんきに新作RPGをプレイしている彼を見つけたときは心底胸をなでおろした。

 念のためサイモンの全身を魔術探査してみたが特に異常は見当たらなかった。屋敷の結界を破るほどの侵入者ということを考慮すると完全に異常なしとは断定できないが、少なくとも生きているのは確かである。それだけで十分だ。

「ヴィエちゃん、とりあえず警察に電話を……」

「だめ」

「えっ? でも泥棒に入られたんだし」

「国家の狗に家の中をまさぐられるなんて絶対いや!」

 そんなことでいいのだろうかと思うサイモンだが、むーっとした顔で怒鳴られては引き下がるしかない。この家の主は彼女だ。

「それにしても被害にあったのがヴィエちゃんの部屋だけなんて不思議だな。俺の部屋なんか全然無事だったのに」

「そりゃサイモンくんの部屋にはオタクグッズしかないし……不思議でも何でもないよ、犯人は盗むものの目星をつけてたわけだから」

 改めて自室の惨状を眺め、はーっ、と溜息を吐くヴィエ。

 無理もない。盗まれたものはすべて魔術関係の代物ばかりだったのだ。

「まいったなあ、これじゃナイトゴーントの調整もできないよ。タカくんはまだ上海から帰ってきてないし、どうしようかな」

 羽丘隆志は半月ほど前に中国へ出かけたきり音沙汰がない。初夏の季節にセラエノへ行って帰ってきた後から、留守の時が頻繁になってきている。大図書館で得た知識を用いて何らかの事物に没頭しているのかもしれない。

「ゴンゲーに物を頼むくらいなら不貞寝したほうがまだマシだし……と、その手があった」

「急に指を鳴らして、どうかしたのかい?」

「うふふっ、折角だからサイモンくんもついてきて――<夢の国>へ♪」



 美と神秘の偏在を誇示する静まり返った夕映の都を見渡し、サイモンはぽかんと立ち尽くすばかりだった。以前共に訪れた水の名前を持つ少女とほぼ同じ反応に、くすくすと楽しそうに笑んでみせるヴィエ。

「いつか話したことあるよね。ここがイレク=ヴァド。わたしとサイモンくんが永遠をともに過ごすことになる壮麗きわだかな夕映の都だよ」

 燦然ときらめく日没の通りや古風な瓦屋根のあいだの謎めいた丘の小路を、ヴィエは恋人の手を取って幸せを謳うように軽やかに歩いた。

 やがて縞大理石の宮殿に足を踏み入れ、先頭のヴィエが恭しく挨拶の言葉を述べた。

「イレク=ヴァドの王は在宅ですか?」

 程なくして、淡々とした顔立ちの、細身の白人紳士が姿を現す。

「おや、これはヴィエ君。覚醒世界の時間で約二ヶ月ぶりかな」

「御身におかれましては御無沙汰いたしております。ご息災にてなによりです」

「どうした、君にそういう言葉遣いをされるとかえって気持ちが悪い。用は何かな?」

「まずはご紹介。こちらはサイモン・コウ、わたしの最愛の恋人です」

 少女の横で萎縮しているサングラスの男に視線を移し、紳士はとても興味深そうに声を弾ませた。

「ほう、これはこれは! ヴィエ君に笑顔を取り戻させたのは君か。私はランドルフ・カーターだ、よろしく」

「こ、こちらこそ」

「それでは取り敢えず上がりたまえ。このまえセレファイスでクラネスから良いお茶を貰ってね、ご馳走してあげよう」

「それは楽しみ。ああ、用件だけど、レンのガラスの欠片を含めた魔術品一式を貸してもらいたいの。作業はここでさせてもらうから」

「ほう? それは構わんが、夜鬼の調整用なら消費が少し前倒しではないか?」

「あはは……実はちょっとワケありで」

 後頭部を手でさすり、ヴィエは苦笑してみせた。



「泥棒に入られた? それはまた、なんとも恥ずかしい話だね」

「そんな呆れた顔しないでよー。盗られた物はそのうちしっかり取り返すから」

 客室の貴やかなテーブル上で、曇りガラスらしきものを魔術用具で細工しながら断言するヴィエ。盗まれたものがものだけに、金品売買に流されることはまずない。用途を考えるとおいそれとは扱えないものが多いからだ。

「ふー、ちょっと休憩」

 セレファイス謹製のお茶を味わい、ヴィエはテーブルから離れてソファに身体を横たえた。

 自然、カーターとサイモンが残される形になる。

 するうち、前者が関心を寄せて質問等を交え、後者があたふたしながらぽつぽつと答える、傍目にはぎこちない会話が始まった。

「ふむ、成程。ヴィエ君が君に恋情を抱く理由がわかった気がするよ」

「……えっと、カーターさんはヴィエちゃんとはどういった関係なんですか?」

「友人……とは違うな。理解者、あるいは知己の仲、といったところか。あれはもう何年前だったか、用事で魔法の森に赴いたとき、幼少時の彼女と初めて出会った。それから何度か交流して今に至るというわけだ。間違っても男女の仲ではないから安心したまえ」

「あ、いや、その……すみません」

 そういうつもりではなかったのだが、あせあせと頭を下げるサイモン。初対面ということもあるが普段の調子が出ず、どうにも緊張してしまう。

 そんな彼を見据えて、カーターはふっと笑い、ややまじめな口調で言った。

「君は是非そのままでいたまえ。君が彼女のことを好きでいるなら、社会性を得て成長してはいけない。現実の事物の虚ろさと軽薄さは夢見る人において禁忌に他ならず、停滞こそが君たちにとってユートピアの光だ」

 難しいことを言われてもさっぱり理解できなかったが、一応頷くサイモンだった。

 そうこうしているうちにヴィエがテーブルに戻ってきて作業を再開する。

「ところでカーター、こっちで最近なにか変わったことあった?」

「さて、こちらの猫たちと、土星からの猫たちが、月面の一角で久しく大きな一戦を交えて痛みわけに落ち着いたくらいか」

「わ、そうなんだ。あとでウルタールに労いにでも行こうかな……」

「その際は私もご一緒しよう。ああ、そうだ、ちょうど今はハテグ=クラの山頂に大いなるものどもが往来して舞い踊る時期らしい」

「大地の神々かぁ。一度その姿を見てみたい気もするけど、賢人バルザイの末路は辿りたくないし、思いとどめておくに限るわね」

「それに越したことはない」

 カーターにしても大いなるものどもの姿に関しては、ングラネク山に刻まれた顔容を眼にしただけに終わったのだ。

 それでも、大地の神々の住処である未知なるカダスの居城を訪れることができたただ一人の人間であるカーターを、心から敬愛せずにはおれないヴィエであった。



<夢の国>から戻ってきたヴィエは、自宅の洋館を出ると軽く気合を入れた。

「さーて、盗まれたものを取り返すために調査開始といこうかなあ」

「その必要はない」

「え、いきなりどうしたの、サイモンく――」

 恋人が発した抑揚のない声にきょとんとして振り向くと、サイモンの近くに見慣れぬ黒いセダンが停車していた。運転席には帽子を目深にかぶった、前かがみの男がハンドルを握っている。ひと目で食屍鬼だとわかった。

「一緒に来てもらおう。下手な真似をすれば、俺は死ぬ」

 意思の介在せぬ声音で自身を指差すサイモン。

 どうやら侵入者はしっかり彼に術を施していたようだ。ヴィエの魔術探査に反応しなかったのは、家の外に出たら発動するタイプのものだったからだろう。

 ハーケン宅での一件も魔術実験の失敗によるものではなく、第三者の干渉の結果だということが明確になった。

「こんな形でサイモンくんとドライブしたくはなかったなあ……」

 ここで何かアクションを起こそうとしたら間違いなくサイモンは即死する。おとなしく従うほかはなく、ヴィエは観念して首肯した。



 隣町の廃墟に建てられた大きな聖堂。結界が張られているため一般人が近づくことはない。

 禍々しくも荘厳な聖堂内では、ヴィエの左右に食屍鬼が縦に整列し、正面の祭壇脇にはサイモンが微動だにせず突っ立っている。そして祭壇前に、深紅の着物を纏った美女が悠然と立っていた。

「わたしをこんなとこに連れてきてどうするつもり? 恋人の前で食屍鬼たちに陵辱させようってことなら、趣味が悪いとしか言いようがないけど」

「あら、私がそんな野蛮なことを仕向けるような女に見られるとは心外ね。フヴィエズダ・ウビジュラ――チェコ第五の魔道士さん?」

「……ええと、あなた名前は何て言ったっけ?」

「私は錫。新参者だけど、『星の智慧派』の末席に身を連ねる者よ」

 星の智慧派。

 それは、1843年にエジプトでネフレン=カの墓所を発掘調査したイノック・ボウアン教授が、その翌年にプロヴィデンスのフェデラル・ヒルの丘に建つ自由意志派の教会を本拠地として設立した新興宗派である。

 ボウアンが持ち帰ったという『輝くトラペゾへドロン』を信仰の基盤におき、ナイアーラトテップを主神として、「旧支配者」および<外なる神>を崇拝した。

 1863年には信者が二百名以上に達する大きな宗派となったが、その十数年後、当局の摘発により解散に追い込まれ、多くの信者が街を離れた。

 そうして一時は滅び去ったかに見えた星の智慧派だが、実際には多くの信者が各地に潜伏しており、1890年代にはジェームズ・モリアーティ教授の協力でイギリスのヨークシャーに教会が設立されており、アメリカ国内では1970年代にカリフォルニア州ロサンゼルスの南ノルマンディーにおいて、ナイ神父と呼ばれる謎めいた黒人神父が教団を再建するに至った。

 ナイ神父に率いられ復活を果たした星の智慧派は、1980年代にはインスマスのダゴン秘密教団とも協力関係を結び、驚くべき勢いで世界の陰にその勢力を伸ばし暗躍している。

 現在ではナイ神父の後継者が模索されていて、幹部の一人であるマグヌス・オプスという魔道士が有力候補のひとつとして挙がっているらしい。

「わたし、星の智慧派に目を付けられるようなことしてないんだけどなあ」

「あなたに用があるのは私個人の趣によるものよ、フヴィエズダ」

「じゃあハーケンの家から『銀の鍵』を持ち去ったのはただの嫌がらせ?」

「あら? あなたが探していたものってあれだったのね。残念だけどもう私の手元にはないわよ。仲間にあれを欲しがっている男がいてね、その人に渡したわ」

「……」

 意外なところで銀の鍵の手がかりを聞くこととなり、暫し口を閉ざすヴィエ。

「ふふふ、考え込んでいるところ悪いんだけど、そんなことを気にする必要はなくなるわよ。何故なら、あなたは今宵この夜、私の忠実な愛玩人形になるんだから――」

 ねっとりとした眼を少女へと注ぎ、錫と名乗る女は、厭らしく舌なめずりをした。

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