第13話「ルーンファクトリー」


「驚いたわ、家の中が大きな屋敷になってるなんて……外から見たら普通の一軒家なのに、どういう構造よ」

「室内の空間様式を変化させる上級の魔術よ。家主は空間術式に長けた魔道士みたいね」

 半ば呆れた吐息を漏らすリアに、さらっと薀蓄を添えるヴィエ。

 ここはかつてヴィエの父親の友人だった男が住むという家である。一週間前に起きた『新世界の神』騒動によって一時的に御納戸町一帯の物理法則が乱れた。その影響で、偶然にも、ヴィエが探していた『銀の鍵』を所有しているという男の住処が判明したのだ。

 譲与の交渉が決裂した場合は実力行使に出るつもりでいるため、その際の戦力としてリアを連れてきた。もちろん話術で言いくるめて詳細は伏せてある。

「にしても、なんかやけに静かっていうか、人の気配がしないんだけど」

 玄関ホールをざっと見回して訝しがるリア。旅行で何日も留守にしている家の中を思わせるひっそりした空気と、空き巣に入られたかのような微妙な荒れ具合が目につく。

 ヴィエは軽く柳眉を寄せるとリアの肩をつついて振り向かせ、素早く呪文詠唱を呟き人差し指で彼女の額に触れた。

「ちょ、なにするのよっ」

「まあまあ、ただのおまじないだと思って」

「あのねえ……はぁ、悪影響がないならべつにいいけど」

 意図あってのことだろうし、このくらいで目くじら立てていたら付き合いきれない。

 状況的に来訪から探索へと切り替わった。

 玄関右方のドアを抜け、大人五人が横に並べる広さの廊下を歩いていると、突然に中ほどの部屋のドアが開いて執事姿が歩み出てきた。

 眼を丸めて足を止める二人へ、前かがみの姿勢でゆっくりと近づいてくる、かろうじて人間の形をしたもの。ゴムのような皮膚に鋭い鉤爪を備えた両手、そして犬の特徴をもった醜悪な顔。

「グール!」

 食屍鬼だと視認したリアが、すかさず数歩前に出て戦闘態勢に入る。

 後方から眺めるヴィエは僅かに眉を寄せて思案顔になった。

「一見して使役タイプだけどその挙動はオリジナルに近い? いやそれにしてもさっきから纏わりつくこの妙にもやもやした感じは……」

「!――ヴィエ!?」

 ちらりと背後を確認したリアが叫ぶ。物憂げともとれる仕草をしている少女の真後ろに、メイドの服を着た食屍鬼が迫っていたのだ。

 ハッとして振り向いたヴィエを鉤爪の薙ぎ払いが襲った。直撃を受けて床に転がる小さな肢体。

 駆け寄ろうとするリアだが、跳びかかってくる前方の食屍鬼にやむなく印を結ぶ。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・アギャノウエイ・ソワカ!」

 ごおお、と執事姿の食屍鬼が炎に包まれた。火天の業火を浴び、奇声をあげて燃え尽きていく怪物。密教術による炎は対象にのみ効果を発するので床に燃え移ることはない。

「っ……」

 ヴィエは痛みに顔をしかめながら、ひりひりと赤く腫れた頬に片手を添えて上体を起こす。瞬時にエルダーサインが発動しなければ鋭利な爪で頬の肉がそぎ落とされていただろう。

 覆いかぶさろうとするメイド服の食屍鬼へ右の掌を向けかけたとき、

「オン・バザラ・タラマ・キリク」

 野太く威厳ある男の声による真言が響き、どこからともなく飛来した無数の刃先が一斉に前かがみの黴生えた体へ突き刺さった。

「滅!」

 其は千手観音の刃――食屍鬼の全身が内部から決壊して塵と消えた。

 刃先は金属製の飾り輪と化して一箇所へ舞い戻っていく。廊下の脇に立つ、禿頭の大男が手にする錫杖の大輪へ繋がり、しゃりんと音を立てた。

 身長一メートル九十センチ。白のカッターシャツと黒のスラックスを着こなした、剛直そのものといった風貌と大柄な体躯をした中年の巨漢は、威風堂々と少女達を見据えたのだ。

「お父さん!?」

 心底びっくりした声を張り上げる金髪碧眼の娘をいっとき凝視し、男――羽丘権化はほんの少し口もとを緩めると、頬をさすりながら立ち上がった美少女へ視線を移した。

「どうしたフヴィエズダ、注意散漫とはらしくないな」

「……ちょっと気になることがあっただけよ」

 社交辞令の礼も口にすることなく、淡々と服についたホコリを手で払い落とすヴィエ。

 そんなふたりの様子を、リアはただきょとんと見つめるしかできなかった。



 実験室らしき隠し部屋で一息つく三者。権化はこの屋敷内のことを知っているのだった。

「それで、何でゴンゲーがここにいるの?」

「その呼び方はやめろ。――この間ハーケンから手紙が届いてな。面白い魔術に成功しそうだから近々招待するとのことだった……が、それきり便りが途絶えたので、慮って来てみたらこの有様だったというわけだ」

 ハーケンとはヴィエの父親の友人、すなわちここの家主の名である。

「とすると、その魔術実験に失敗した結果……ということになるのかな?」

「疑問口調では説得力に欠けるぞ。それはともかく、リアに抗体措置は施してくれたようだな」

「当然でしょ。折角の戦力が感染で使い物にならなくなったら元も子もないし」

「ふん、人の娘を便利な労働力として利用する者の発言だけある」

 つっけんどんに言葉を交わすヴィエと権化。あまり仲はよくないらしい。

「まあいい。先刻のオリジナルもどき、何かわかるか?」

「うん、以前お父さんによく似た研究を教えてもらったことがあるわ。人間を異形化して使役する術」

「ロンダルキアか。あれの友人であるハーケンなら精通していてもおかしくはないな」

 食屍鬼には二種類のタイプがいる。魔術などで使役される模造タイプと、オリジナルだ。

 本来の食屍鬼は高い知性を持っており、人間の社会や行動、心理というものをよく知っているので、一般に研究されたり見つけられることは少ない。よく退治されたりする食屍鬼は往々にして知能の低い模造タイプのほうで、リアが認識しているのもそれに他ならない。

 だがさっき戦った種類は、明らかに使役タイプであるにも関わらず、オリジナル特有の挙動を示していたのだ。

「仮にお父さんからノウハウを得ていたとしても、空間術式とは埒外の分野に手を出して失敗するなんて目も当てられないなあ」

「考えられぬことではない。ハーケンは自己顕示欲の強い男だったからな」

「そうなんだ。……まあ、実験の失敗じゃなくて外部干渉によるものだという可能性もあるけど」

「ちょっとヴィエ」

「え? リアさんなに」

 ほとんど蚊帳の外状態で遠巻きに見ていたリアが堪えかねて口を挟んだ。

「お父さんとヴィエが知り合いだったなんて初耳なんだけど」

「ん、そういえばそうかな。それがどうしたの」

「なんで言わなかったのよ」

「訊かれなかったから。ああ心配しないで、ゴンゲーのことは嫌いだけど、リアさんは友達として好きだから」

「いやそういうことじゃなくて……」

「フヴィエズダ、とりあえずハーケンの安否を確認しておきたいから、まずやつの自室に向かうぞ」

「じゃあ書斎の場所を教えてもらえる? わたしとリアさんはそこをあたるから」

 あくまで別行動を意思表示。

 ところが、リアは苦笑いを浮かべて言った。

「あー、悪いんだけど先に行ってて、私トイレ済ませてくるから。さっき見かけたし」

「ひとりでだいじょうぶ?」

「自分の身くらい自分で守れるわよっ」



 トイレを後にして、リアは小さく溜息をついた。

 父とヴィエのやりとりに入ることができず疎外感をおぼえてしまった自分が情けない。父、羽丘権化は真言密教の退魔師であると同時に、魔術に対しても相当の知識を持っており、その辺でヴィエの父やその周囲とも関係があったのだという。

 一方の自身は学生なのだから、年季の違いもあるしそんなことを思っても詮無いことではあるのだ。そもそもそっち方面に詳しくなろうという気はない。

 ただ、なぜだか、うらやましく感じた、それだけだった。

「えーと、ヴィエは書斎だっけ……」

 雑念を振り払うように、行き先を声に出して廊下を足早に歩く。

 ふいに影が差したのを見て窓に眼をやった。

 巨大な、黒いアメーバ状の物体が、一面に広がっていた。



 書斎の奥で、手にした香木製の箱を見つめてヴィエは小さく溜息をついた。

 ゴティック風のグロテスクな彫刻が施された、馥郁たる薫を放つ古びたオーク材の箱の中はからっぽだった。

 そこに収められているはずの、探し求める『鍵』はどこにも無かった。

 魔力探査の反応からして、箱から取り出されたのはつい最近のことに違いない。

 意識せず眉根にしわを寄せていると、バタンッと開け放たれたドアが一人の少女を乱暴に吐き出した。リアが息も荒々しげに転がり込んできたのだ。

「ヴィエっ!」

「どうしたのリアさん、トイレに花子さんでもいた?」

「そんなかわいいものじゃなくて……と、とんでもない化け物が!」

 みなまで言い終える前に、閉めたばかりのドアが破られた。いや、黒い液状タールに押しつぶされ飲まれたというべきか、壁の一部もその後を追って溶解され、悪夢のような、黒っぽい玉虫色の、悪臭を放つ原形質の不定形の塊が、壁に空いた大穴からにじみ出るように這い出てきたではないか。

 体全体から微光を発し、天井までの空間を満たすその巨体の前面についているチカチカと点滅する緑色の光は、無数の目が形成されたり、またなくなったりしているところなのだ。

 笛でも吹くような音が聞こえ、「テケリ・リ! テケリ・リ!」というおぞましい鳴き声が発せられた。

 即座に臨戦態勢をとるリアの後ろで、ヴィエは軽い驚きと感心を口もとに表した。直後、胸がむかつくほどの悪臭に渋面でさらに数歩さがった。

「ショゴス」

 それが眼前の怪物の名に他ならない。

「成程、これが実験の本命というわけか」

 騒ぎを聞きつけた権化が別方向のドアから現れ、納得いったふうにヴィエへ近づいた。

「そうみたい。確かに食屍鬼よりずっと頑強で有益な使役生物には違いないわね。人が扱うにはいかがなものかと思うけど」

「してみると、このショゴスは哀れなハーケンの成れの果てか」

 距離を置いて物知り口調で悠長に会話する二人を背に、リアは印を結んで真言を唱える。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・バロダヤ・ソワカ!」

 空間から激しい水流が渦を巻き、アメーバ状の黒塊へ濁流のごとく叩きつける。それは一部をえぐっただけで期待したほどの効果はあげられない。遭遇時に放った火天の炎よりはダメージを与えられたほうだが、スライムに似た形態はもう再生を始めていた。

 柱状に突出してきた一撃を飛び退いてやり過ごし、リアは再び印を結んだ。

「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・インダラヤ・ソワカ!」

 今度は凄まじい雷撃がショゴスを撃つが、これはさしたる効果が無かった。

 集中が乱れバランスを崩したリアの身体に原形質の小泡でできた不定形の塊が覆いかぶさり、強靭な力で圧迫してきた。とっさに被甲護身で全身を護ったものの、それでも骨がきしむほどの圧力で締めつけられ、リアは甲高い苦鳴をあげた。このままでは数分と持たずバラバラにされてしまう。

「わ、リアさんがピンチだ。――<旧き神>の尊き印よ!」

 やや焦り顔でショゴスに向けて右手を突き出すヴィエ。

 その掌に浮かぶ、燃え上がる五芒星形。

 するとどうだ、リアの繰り出す術をものともしなかった恐るべき不定形の汚泥が、悲鳴のようなおぞましき咆哮をあげたばかりか、水しぶきが弾けるように一斉に退いたのだ。

 どんなタイプの物理的攻撃もほとんど通じず、魔術や超常の力による火や雷にも高い耐性を誇るショゴスをここまで怯えさせる、エルダーサインの純然なる白き輝きよ。

 締めつけから解放され、あお向けに倒れかけた少女の体が、がっしりした力強い腕に支えられる。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 真言を唱え、錫杖を振るう権化。一瞬、その動作に合わさるような大きな手と戟が映ったかとみるや、真っ二つに裂かれる黒き塊。エルダーサインの効果で一時的に再生能力を失っていたショゴスは、そのままぐずぐずと泡立ちながら溶けていった。

 薄れるリアの意識に、父親のたくましい温もりが残った。



「お父さん、もう帰っちゃうの?」

「ああ、今晩あたりに。長く滞在してあの莫迦弟と顔をあわせたくはないからな」

「あいつなら先月から中国に行ってまだ帰ってきてないわよ。まあせめて夕食くらい食べていってよ。私が作ってあげるから」

「……ふむ、そうだな。久しぶりに娘の手料理を味わうのも悪くないか」

 剛毅に結んだ唇を綻ばせる権化。よかったとほほえむリア。

 そんな仲睦まじい親子のやりとりを尻目に、ヴィエは難しい顔で思案に暮れていた。

 家の中に入ったときから続く奇妙なもやもや感。魔術実験の失敗か外部介入による事態なのか判別のつかない今回の一件。しかし、なにはなくとも『銀の鍵』の行方こそが彼女にとって最大の問題であることは確かだった。



 禍々しさに満ちた聖堂の祭壇前に立つ、紅に染まった着物に身を包んだ二十代と思しき和風の女が、美しく妖艶な顔に邪悪な笑みを浮かべる。

「ふふふ……いよいよメインディッシュの時間だ」

 愉悦を含んだ高笑いが聖堂内に響き渡った。

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