「覚醒」
ぽたん……ぽたん……。
音がする。
水の滴る音がする。
それは、あたかも古き刻を告げる振り子のように、ゆっくりと。
一定のリズムを保ちながら、ぽたり、ぽたりと。
「……う、ん」
うっすらと、遥か伝説にある「パンドラの箱」を開くように、ただ、ゆっくりと、瞼という名の、世界の繋ぎ目が開かれる。
蒼穹を連想させる、青い瞳。
ぱちくり、ぱちくりと、瞬きを繰り返しながら、ルイセの双眸が映し出した光景は――
「……」
水世界。
そうとしか例えようがなかった。
それとも、アリオストさんや、エリオットくんなら、もっと感慨深い言葉を思い付いたのだろうか。
ふうっと、辺りを見回してみる。
淡い水色の流れが、悠久の時間を超えて、そこにあるように――
澄み渡る空は、漣のように漂う、まばらな浮雲と共に世界を睥睨していた。
「みずいろ……」
ぽつりと呟く。
周囲には何もなかった。
否。人という存在の生活を、それを示すものが無かった。
水で出来た平原。水色の葉を、微風に受ける蒼い木々。
平原の彼方に見える、儚げな稜線――
その果てには何があるのか。
それ以前に、ここは何処なのか。
何か、夢寐の中にいるような感じがした。
ぽたり。ぽたり。
やはり、水滴だった。
そう。自身の存在を邪魔するものなど何も無い、どこまでも広がる青い空から滴り落ちる水滴だ。
雨ではない。それは紛れも無く、水の雫なのだ。
まばらに落ちる水滴が、この世界に霧をかけるようにみえる。
立ち止まっていても仕方ないので、歩く事にした。
ぴしゃ。ぴしゃ。ぴしゃ。
水の平原に、それ特有の足音が響く。
遥か頭上には銀色に輝く月ふたつ。
どこまでも続く、同じような風景。水のビロードを思わせる。
荒涼というよりは、幻想的という言葉の方がしっくりときた。
不思議だった。
いつもの自分なら、こんなところに一人でいたら耐えられないはずなのに。こんな状況に陥ったら、不安で心が押し潰されそうなはずなのに。
何故か――落ち着いていた。
安堵感というのか。何か、深い靄に包まれているかのように。
怖いと、感じることがなかった。
ただ、ひとつ思う。
「お兄ちゃんがいないのは……嫌だな」
ぽつりと漏らした。
果たして、その願いが銀月にまで届いたのか。
世界が淡く発光したように見えた。
「え……」
きょとんと、眼をしばたたいた。
ごしごしと擦る。
見開いて、よく目を凝らす。幻ではなかった。
みずいろの色彩の彼方から、ゆっくりと鮮明になる人影。
彼女の最もよく知っている人物。
ルイセは、喜びの篭もった声を喉の奥から張り上げた。
「お兄ちゃん!」
幾許かの時間が流れた。
それは、とても楽しい時間だった。
ずっと、心の奥底で待ち望んでいたことだから。
コバルトブルーの空には、二人を導く雲が流れ――
二人だけの世界に、月は祝福の煌きを促し――
幸せだった。
幸せだと思った。
ただ、何かが心の片隅に引っかかっていた。
さらに刻は流れる。
色々なことを話した。その度に、笑ったり、からかわれたり、優しくされたり、水世界に虹色の喜びが咲いた。
どれだけ時間が経過しても、喉も渇かず、お腹も空かなかった。
何故か、それを不思議だとは思わなかった。
本当に夢でも見ているかのように。
ふと、感じた。
それは心の片隅に残る小さな黒点。
例えるなら、満月の中心に小さく灯る黒い渦。
やがて月そのものを侵食してしまう、その名は――
猜疑心。
そう呼ばれるもの。
「……」
立ち止まる。
こころを落ち着けて、そっと眼前の青年を瞳に映す。
「どうしたんだ?」
「……」
ひとつひとつ、記憶を呼び覚ましてゆく。
ばらばらになったピースをゆっくりと、しかし正確にはめ込む。
それはまるで黒い光が、太陽を覆い尽くすかのように。
目の前の青年には何かが足りなかった。
自分もまだ見たことの無い何か――――
ピキーン!
頭の中で、何かが弾ける音がした。
同時に、新円を描く太陽が、輝く輪郭を伴って、黒一色に染まった。
「あ」
瞬間、ルイセの全身が、淡い蛍のように煌いた。
「ぐああああ!」
青年の絶叫に、異形の声が重なる。
それはもはや「人」では有り得なかった。
「ぐおお……き、貴様ぁ! まさか!!」
銀色の巨体を震わせて、真紅の双眸が、眼前の少女を捉える。
「――――――」
息つく間もなく、ルイセが呪文の詠唱を開始した。
今までにない不思議な力が身体の奥から溢れ出てくるようだった。
これなら、勝てる。
「させるか!」
爛爛と燃える瞳から、真紅の閃光が走った。
それは瞬時に対象を貫く。
「なに!?」
邪悪な笑みは、驚愕の叫びに取って代わられた。
確かに貫いたと見えた閃光は、少女の残像をかき消したに過ぎなかった。
異形が、分身だと気づいたときには、もう遅かった。
「ソウル・フォース!!」
放たれた膨大な魔力を秘めた緑光が、異形の中心に集中した。
「ぐはあぁぁぁぁぁ!」
耳を覆いたくなるほどの断末魔が水色の世界に響き渡り、銀色の巨体は霧散して見えなくなった。
ほっと、胸をなでおろす。
同時に、周囲が淡い光に包まれる。
水色の平原が、遥かなる稜線が、銀色の月が――
シャボン玉のように幾星霜の泡と化した。
夢霞を思い浮かばせる光景。
ふわふわと、ふわふわと、幻想的に漂う光。
「グローシュ?」
そう呟いたとき、世界は虹色の螺旋に溶けた――――
世界はそこにある。
永い……永い夢を見ていたようだった。
今、目の前に広がる世界こそ真実だ。
ベッドから上体を起こす自分。
ひっそりとして、しかし暖かな「病室」という名の空間。
色々と知りたい事もあったけど――
最初に口をついて出た言葉はただひとつだけ。
「お兄ちゃんを泣かせることが出来たから……私の勝ちだね」
不思議と、優しい微笑になっていた。
「ルイセ……」
ぎゅっと、抱きしめられる。
二人だけの世界。
でも、今なら思える。
何も無い二人だけの永遠より。
みんながいる、この「現実」という世界で、お兄ちゃんと幸せになりたい――――
(了)