第10話「水のまどろみ」後編


 レン高原。

 隠されしレンとも呼ばれるこの謎めいた高原は、かのアブドゥル・アルハザードが著したキタブ・アル・アジフ――『ネクロノミコン』をはじめ、数多くの書物の中で言及されるも、その全ての記述が相矛盾する、正確な位置についての定説が存在しない場所である。

<夢の国>におけるレンは、北方の都市インクアノクの背後に聳える忌まわしき灰色の山脈を越えた彼方に存在する禁断の領域で、凍てつく荒野の広がる悍ましい不毛の地そのもの。

 そんな、まっとうな者が訪れることをしない、暗澹たる雲の天蓋の下に灰色の荒涼たる平原が果てなく続く、朦朧とした不気味な薄明の丘陵地帯に、小柄な二つの人影が降り立った。すなわちヴィエとアクアに他ならず、カーターに協力的な食屍鬼が提供してくれた二匹の夜鬼に乗ってここまで来たのだ。

「うう……やっと解放された……」

 疲れの滲み出た声色で、ふらふらと足をよろつかせる三つ編みの少女。あまり気分的によろしくないゴム状の肌をした漆黒の魔物に乗せられ、結構な距離と時間を飛翔した心情たるや言葉に表せぬものがある。

 空を移動している間は体をぶるぶるさせながらずっと目を閉じていたアクアだが、

「アクアったら勿体ないんだから、上空からの景観を堪能しないなんて。インクアノクに入るまでの眺めなんかもう心ときめくものがあったよ?」

「そ、そんなことより、ここで何をすればいいのか教えてくださいっ」

 がっかりした風なフヴィエズダ某へ口早にまくしたてた。

「カーターから聞いたでしょ。レン高原にいるムーン・ビーストをどれでも構わないから一匹だけ仕留めることって」

「仕留めるって……なにを?」

「だからムーン・ビースト。あ、ちょうどあそこに一匹いた」

 ヴィエが指差した先、前方の渺茫たる空間の岩や丸石の隅にうっすらと見えた輪郭は、遠目にも判るほどに人間の形をしていない。よく目を凝らして視認に至るや、たちまち恐怖と嫌悪の念がつのりはじめた。

 自在に伸縮する大きな灰白色のぬるぬるしたものの姿は蟇蛙じみており、目はなく短いピンク色の触角が集まって震える妙なしろものが、太くて短い鼻らしきものの先端についていた。

「あれがムーン・ビーストだよ。<夢の国>の月の裏側に存在する悪臭漂う都市に居住しているらしい怪物。あれをやっつけるの」

「……誰が?」

「あなたが」

 あっさりと言われ、アクアは顔面蒼白になってかぶりを振りまくった。

「む、むむむ、無理です! 絶対無理です! 私、なんの力もない普通の人間なんですよっ?」

「安心して。わたしがアクアに一時的な魔法の力を与えてあげるから」

「い、い、い、嫌ですよっ! ヴィエさんが何とかしてください。それかそこの夜鬼さんたちにやらせるわけにはいかないんですか」

「事象揺り戻しの防止は当人が行わないといけないの。わたしにできるのは、あなたの手助けだけだから」

「そ……そんなぁ……」

「元の世界に帰りたいんでしょ? さあ勇気を出してゴーゴー!」

「ひゃううっ」

 ヴィエに背中を突き飛ばされ、慌てふためきながら前へよろめき出るアクア。

 蟇蛙めいた冒涜的な生物がゆっくりと迫ってくるのが見え、淡い水色の眼差しが恐怖に怯えた。

「コシュカ・オブ・ウルタール」

 魔術詠唱を口にしたヴィエの全身から夜空のきらめきのごとき魔力が溢れ、足がすくんで動けないでいるアクアへと降り注いだ。三つ編みがしゅるりと解けるや、なめらかな金髪が腰までふわりと下り、衣服が光の粒子となって拡散した。

 そして見よ、あどけない肢体を星空のスピカが包み込み、まさしく魔法の神秘に彩られた衣装を少女の柔肌に形成していくではないか。

 やがてパステル調の水色螺旋が渦巻き、揺らめくような淡い飛沫がぱあっと散った。

 きらめきが収まると、所謂ネコミミ魔法少女コスプレっぽい格好をしたアクアの姿がそこにあったのだった。

「……思わず決めポーズまでしちゃいましたが、こ、これはいったいなんなんですかーっ」

「魔法でウルタールの猫の力を一時的に与えたんだよ。<夢の国>における猫は覚醒世界では発揮できない行為を可能とするの」

「知りませんけど、だからってなんでこんな恥ずかしい格好しないといけないんです!?」

「……たまには恋人の趣味に付き合ってあげようと一緒にアニメを観たんだけど、その影響が出ちゃったかも」

「そんな理由でっ」

 理解もできない魔術的理論による結果ならまだしも納得できたものだが、これはあまりにも馬鹿馬鹿しい。正直どうでもよくなりかけたところに、近づく怪物の気配を敏感に感じ取って咄嗟に身構えた。その反応に自分でも驚きを隠せないのだが、それこそがヴィエに与えられた魔法の効果ということなのか。

「うふふ、実感できた? さあ目の前の汚穢な生き物にその力を存分に振るってあげて」

「そんなこと言われても、どうやって」

「自然と判るから。それより戦わないと、ムーン・ビーストに捕まったらサディスティックな拷問を受けることになっちゃうよ」

 その言葉が効いたのか、身震いして決意を固めるアクア。目前まで迫っていた蟇蛙めいた生物が、言葉を発することなく奇妙な形の長槍を振りかざした。

 それを俊敏な動作で円を描くように避け、信じがたい跳躍で怪物の後ろに着地してのけたアクアは、そこはかとなく静かな感動に震えた。

「す、すごい……考えるより先に身体が」

 猫を殺してはならないという驚嘆すべき法律が制定されている町ウルタールは、その為に多くの猫が集まり、地球の<夢の国>における猫の拠点となっている。

 ランドルフ・カーターは多くの猫と友好関係にあり、かつてカーターが悪臭漂うガレー船に乗せられ囚われの身となり、月の裏側にあるムーン・ビーストたちの居住区まで連れ去られたときは、ウルタールの老いた将軍猫が勇猛果敢な猫たちを統率し、星間を渡る大跳躍で地上から月までジャンプしてカーターの元に駆けつけ、彼の窮地を救ったことがあるという。

 その際には優美かつ凶暴な鉤爪と歯で何匹もの月の怪物を葬り去った、そんな畏敬に値する猫の力ならば、今のアクアの動作も何ら不思議なことではないのだ。

「さあアクア、ハンティングタイムだー♪」

「わ、わかりましたっ!」

 こぶしを振り上げて声援を飛ばすヴィエ。それに応じるよう気合を込めた両手が瞬時に大きなネコハンドに変化し、アクアは、ゼリー状の月の怪物に、驚愕のいとまも与えず跳びかかった。

 一気に優勢となったネコミミ魔法少女の戦闘を楽しそうに眺めつつ、ヴィエは周囲の寂寞とした凍てつく荒野に細心の注意を払っていた。

 悪名高き驚くべき馬頭の邪悪なるシャンタク鳥が現れたとしても、天敵である夜鬼が二匹もいる以上は迂闊に手を出してこないだろうし、<夢の国>の中ですら伝説上の存在である、ずんぐりとした無窓の石造りの修道院からも距離があるため、黄色の絹の覆面をつけ、一人きりで蕃神と這い寄る混沌ナイアルラトホテップに祈りを捧げるという名状しがたい大神官の脅威も遠く、凍れる巨峰の未知なるカダスを目指す謂れもないゆえ、司教冠を戴く恐るべき双頭の守りが動き出すこともないだろう。

 だが想像もつかぬ脅威と恐怖が凶風を伴って忍び寄る危機にいつ何時晒されるとも限らない。一刻も早く目的を達して、この邪悪と神秘にとり憑かれた地を離れたほうがいいのは明白だ。

「しょうがない、もうひとつ手助けしてあげるかなあ」

 ヴィエが右手を突き出し五指を広げると、掌に燃え上がる五芒星形が浮かんだ。エルダーサインの純然たる白の光輝に、ムーン・ビーストは器用にたたらを踏んで恐れおののいた。

 その隙を逃さず巨大なネコミミハンドを振りかざすアクア。蟇蛙めいた月の怪物はついに一言も発しないまま、悪臭放つ緑色の脳漿を致命的に流して息絶えたのである。

 あまりの不快な匂いに十歩は離れてから、水色の瞳の少女はどっと息をついた。

「ふう……こ、これで、いいんですよね」

「おめでとう! ミッションコンプリート♪」

 パチパチ拍手しながら近づいたヴィエは、怪物の死骸のそばで何かきらめくものを発見した。

 注意深く手にとってみて、思わずダークブルーの双眸を輝かせる。

「こ、これは――」

「なんですか、それ」

「縞瑪瑙の原石だよ。それも純度の高い……いやはや、棚から牡丹餅とはこのことね」

 レン高原の縞瑪瑙は覚醒世界において優れた魔術媒体となる。高純度なものは超一級の稀少品に他ならず、ヴィエの少なからぬ興奮具合からもその価値が判るというものだ。

 幻夢境の物を覚醒世界に持ち帰ることは基本的には無理だが、カーターに頼めば何とかしてくれることをヴィエは知っている。彼女の力とカーターの協力がそれを可能たらしめるのだ。

「よしっ、早くカーターのところへ戻るわよー」

「ま、待ってください、こんなところに置いて行かないでーっ」

 縞瑪瑙の原石を持って意気揚々と帰還用の夜鬼へ駆け出すヴィエの後を、魔法が解けて元の服装に戻ったアクアが、月の怪物を仕留めた時の威勢もどこへやらの情けない声を上げて追いすがるのだった。



 三つ編みの少女がおずおずとしたほほえみを浮かべる正面に、蛋白石の玉座に就くカーターと、傍らに立つヴィエの姿があった。

「お別れなんですよね」

「元の世界に帰りたくなくなったのなら、わたしが面倒見てあげてもいいよ?」

「けけけ、結構ですっ」

「ざーんねん。アクアなら色々とわたし色に染められたのになあ」

 くすくすと可笑しそうに残念がるヴィエには、別れの名残惜しさというものが微塵もなかった。

 アクアとしては少なからず一抹の寂しさがあったが、おかげで湿っぽくならずに済んだようだ。ヴィエの行動や態度には辟易させられたものの、過ぎてみれば気分的にそう悪くはない。

「ヴィエさん、私、今日のこと忘れませんから」

「わたしも、アクアのこと忘れないよ。ぜったい、ぜったい忘れないからっ」

「……ものすごい棒読みで言わないでください!」

「別れの挨拶はそれくらいでいいかね? では、始めるぞ」

 カーターが手の平を上向けると、長さ五インチ近くある、光沢のない大きな銀色の鍵が現れた。

 謎めいた奇妙なアラベスク模様のほどこされた銀の鍵。

 くるめくほどに非人間的な宇宙の、その大いなる目的と謎とが、ことごとく象徴されているかもしれないその鍵を、ヴィエは胸が切なくなるほどの憧れに満ちた眼差しで見つめるばかりであった。

 何となれば眼前に浮かぶそれこそが、彼女の探し求めている物なのだから。

 カーターが銀の鍵に回転(ひねり)を加えた。

 呪文を口にするとアクアの輪郭がぼやけた。

 アクアが小さく手を振った。

 ヴィエが適当かつ大雑把に手を振り返した。

 それでも満足そうな少女の三つ編みがふわりと揺らぎ、そして、跡形もなく消えた。



 夜の帳が下りたイレク=ヴァド。カーターが夜霧に濡れる高い段庭に登ると、斑岩に彫刻をほどこしたベンチに座って星を眺めているヴィエが目に入った。

「彼女に言わなくてよかったのかね、元の世界に戻ったらすべて忘れ果てるということを」

「何も知らせずに帰すってところがわたしなりの気遣いかな」

「殊勝な物言いだが、君の場合はただ単に面倒なだけだからだろうね」

「うふふっ、当然♪」

 楽しげにベンチを離れると、ヴィエは青白い欄干から身を乗り出して、都の北方の切り立った斜面に目を向けた。古びた尖り屋根の小さな破風窓が素朴な蝋燭の穏やかな黄色い光でもって、一つまた一つと輝いていくのを眺めてうっとりとする。

「やっぱりここは最高……はやく住人になりたいなあ」

「準備が整ったらいつでも来るといい。新たな永久の居住者を謹んで歓迎させてもらう」

「えへへ、わたしのこと認めてくれたんだー」

 欄干から身を引っ込め、近寄ってきたカーターへ心底嬉しそうにほほえみかけるヴィエ。

「その笑顔を取り戻した君に私が否定する必要性はどこにもない。だが、まだ手段を実現できてはいないようだね」

「うん、銀の鍵はまだ手に入ってないよ。今はとある日本の町に滞在してるんだけど、なかなか探査が進展しなくてね……とりあえず若返りの術式の完成を進めながら調べてるところ」

「急がずとも覚醒世界での生を存分に愉しみながら頑張るといい」

「もちろん! あっそうだ、覚醒する前にウルタールへ行って猫たちにお礼をしないと」

「ふむ、彼らの力を借りたのか」

「事象揺り戻し防止の際に、アクアにウルタールの猫の力を与えたの。これもみんなカーターのおかげだけどね」

 ウルタールの猫やド・マリニーの時計といった、ヴィエが扱う魔法の中でも極めて特殊な部類に値するこれらのものは、すべてランドルフ・カーターにまつわる事柄である。

 すなわちカーターと親睦な仲にあり、かつ優秀な魔道士であるヴィエだからこそ可能とするものなれば、カーターの存在なくしてそれらを行使する事あたわず。

「あまり持ち上げるな。私はただの夢想家に過ぎないよ、君のような秀でた特技もない身の」

「ううん、カーターの真髄にはかなわないわ。確かにわたしは学識も魔術も天才だけど、ただそれだけのこと。熟練した賢明なる至高の夢見る者がつくりあげたる、かつて現れた如何なる幻よりも美しい奇想と不思議なる空想の具現――壮麗きわだかな夕映の都が魅せる驚異には遠く及ばないわ」

 お世辞抜きで述べる少女の賛美に、壮麗きわだかな都の王は、まんざらでもなさそうな苦笑を浮かべたのだった。



 目を覚ましたヴィエは天蓋付きのベッドに腰をかけて部屋を見渡すと、一人きりになった室内を少しの間立ち歩き、この世界の時間にして幾許か前に隣で手を繋いで横になっていた、水の名前と瞳をもつ少女のことをいっとき幻視した。

「泡沫の水の、微睡のごとく――なーんてね」

 小さく呟いた後、それきり彼女のことは心の片隅に追いやった。

 終わってしまえばどうでもいいことである。

 そうしてヴィエは、自身の手に握られているものに新たな関心を移して微笑した。

 繊細な手の平の上で縞瑪瑙の原石が彩光を放っていた。

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