第4話「星の目指す永遠」


 誰もが皆、いつか旅立つ。

 見果てぬ夢を追い求め、旅の果てに出会える答えのその先へ。

 人によってその場所は違い、辿り着けるかは分からない。

 夢には終わりがある。それは現実を生きる人の宿命であり、喜びと悲しみだ。

 しかし、必ずしも、夢の終わりを受け入れなければいけないということはない。

 彼方へ旅立てるのなら、それはまた稀少な一つの選択ともいえるだろう。

 そう、もし彼方へ辿り着けるすべがあるのならば、我々の生きる現実、無知という名の平穏な島に留まるべき謂れはないのだ。



 約一年半前のこと。

 チェコにひとつの名家がある。――魔道の名門、ウビジュラ家。

 フヴィエズダ・ウビジュラ。通称ヴィエ。

 チェコ語で星を意味する名を持つ少女。今年十歳になる、ウビジュラ家の一人娘。

 母は数年前に他界し、現在は召使いを除けば父と二人だ。

 ヴィエの父であるロンダルキア・ウビジュラは魔道の名門に相応しい優秀な魔道士で、娘は尊敬と憧れをもって彼を慕っていた。

「ほう、もうそこまで上達するとは驚いた。立派だよ、ヴィエ」

「えへへ、ありがとうお父さん」

 披露した幻術を父に褒められ、頬を赤らめて喜ぶヴィエ。彼女の実力も血筋に劣ることなく、既に父が感心するほどの域に達していた。それは、父に認められたいから、褒められたいから、それが嬉しいから。天才の資質と努力が合わさった結果である。

「今晩に魔道実験の成果を実現するんだよね?」

「そうだよ。エルダーサインを体内に取り込む魔術試行の準備はすべて整った。今日の夜を経て私はチェコ第五位の魔道士となり、チェコ第一位の栄光へまた一歩近づくのだ」

「わあ〜、お父さんの夢がまた前進するんだね。実験にはわたしも立ち会っていい?」

「勿論だよ。その目でウビジュラ家当主が成す偉業を刮目するといい」

 エルダーサイン。幻夢境のとある地域ムナールで採掘される灰白色の石に、<旧神>のシンボルである燃え上がる五芒星形が刻まれた護符で、旧き印と呼ばれるもの。

 ロンダルキアは二十年に及ぶ歳月をかけて、エルダーサインを体内に取り込みその力を独自の形で行使できるようになる方法を発見した。それを可能とする魔道実験を今夜行い、チェコ魔術協会に第五位の魔道士となることを承認させるわけだ。

「ところでヴィエ、死に至る病とは何か分かるかい?」

「え? んと……『絶望』だったかな。キェルケゴールだよね」

「そう、一般的にはそれが正しい。だが私は別の答えを模索した」

「別の答え? なになに?」

「それは自分で考えなさい。誰もがもっていて、決して逃れられないものだ。但し例外はある。答えを見つけ、もしヴィエがそれに従いたくなければ例外を選ぶといい」

「?」

「なに、ヴィエにならすぐ分かるさ。では今夜のために気をほぐそうか。どこか行きたいところはあるかな」

「じゃあ、プラネタリウムがいい!」

 顔を綻ばせるヴィエ。がっしりとした手で頭を撫でられ、くすぐったそうに微笑んだ。



 星空瞬く夜。ウビジュラ邸の儀式室に立ち並ぶ複数の人影。

「それでは始めます。とくとご拝見あれ」

 チェコ魔術協会の監査者たちに一礼し、ロンダルキアは娘に向けて笑いかけた。

 そして懐から取り出した護符――エルダーサインを掲げ、魔道実験は開始された。

「第四の結印は旧神の印である。夜に諸力を招喚する者を守り、脅威と敵意の力を祓う――」

 左手の親指と小指の先を合わせ、残り三本の指を真っ直ぐ立てた形の印を結び詠唱を続けるロンダルキア。次々と儀式が紡がれていく様を、目を輝かせてわくわく見つめるヴィエ。

 やがてそれは最終段階に入った。

「わがウビジュラの家系が代々崇拝せし<大いなる深淵の大帝>――宇宙的な善を体現する全能の存在<旧神>の一柱たるノーデンスよ、ベテルギウスの玉座或いは<夢の国>の深淵より時空を超えてその庇護をいま此処に!」

 詠唱の終焉と同時だった。目がくらむほどの光でありながら、一切の眩しさも感じない純然たる白き光の柱が室内を覆いつくし、そして――

「おお……!」

「な、に?」

「……えっ?」

 上がったのは、讃美と、驚愕と、困惑。

 一瞬浮かび上がった炎の柱を囲む五芒星は、見る間に吸い込まれていったのだ。――少女の胸へと。

 顔を見合わせる監査者たちの一人が何やら魔法を行使した。すると、ヴィエの手の平に燃え上がる五芒星形――エルダーサインが浮かぶやいなや、魔法の効果は一瞬で打ち消されたのである。

 それを確認して頷きあい、監査者たちは一様に彼女のほうを向いた。

「魔道実験の成功、しかと見届けた。フヴィエズダ・ウビジュラ、たった今より貴公がウビジュラ家の新たな当主であり、チェコ第五位の座につくことをここに承認する」

「……え、えっ!?」

 わけがわからずうろたえる少女と、茫然と立ち尽くす父。

 かくて、今宵この夜、新たなチェコ第五の魔道士が誕生した。



 それからロンダルキアはまったく笑顔を見せることはなくなった。ヴィエがいくら積極的に話しかけても気のない返事をかえすばかりで、呆けたような態度をとるだけだ。

 そんな陰鬱とした日々が続き、耐えられなくなったヴィエは父に懇願した。

「ねえ、お父さん……わたし、なんとかしてエルダーサインの力をお父さんに移すようにするから! 当主の権利も何もいらないから、だから……だから……」

 悲痛な娘の訴えに、僅かに父の口もとが揺らいだ。

 期待を満面に出しかけたヴィエだが、

「ふ、はははははははははッ」

 一拍おいて噴出した哄笑に、困惑の相で瞳を潤ませることしかできなかった。

「面白い冗談だなあ、ヴィエ。新たな当主としての気配りのつもりかい?」

「じ、冗談じゃないよ? わたしは、わたしはただ、以前のように……」

「なあに、私のことを危惧する必要はないさ。もはやおまえの立ち位置が崩れることなどないのだからね。――チェコ第五の魔道士様?」

「……」

 虚ろに乾いた笑みが、見開かれたダークブルーの双眸に映った瞬間、ヴィエの中で何かが砕け散った。

 数日後、ロンダルキア・ウビジュラは出奔して帰ってくることはなかった。



 失踪した父はその後も見つからず、ヴィエも精力的に探すつもりはなかった。いや、探す気にはなれなかったというのが正しい。

 父の言葉どおり彼女の立場は万全となり、少女の無垢な笑顔はいつしか狡猾な微笑に変わった。

 からっぽな毎日を送るだけの、ある雨の日の夜。

 ヴルタヴァ川の近くを歩いていると、サングラスをかけた三枚目風の男が惨めったらしくベンチに座っているのが目に入った。そんなずぶ濡れの青年を暫し眺めていたヴィエは、傘を差したまま無言で近づく。男がそっと顔を上げた。

「おお、可愛い女の子……天使が迎えに来たのかと思った……もう三日もろくに何も食べてませんぜ……ふ、ふっふっふ、お恵みを……」

 やつれた声音。やはりというか、どうやら物乞いのようだ。

 哀れな男を無表情に見下ろすヴィエ。やがてそれは厭らしい嘲笑へと移ろい、彼女の体から魔力が溢れ出した。

「うふふ、いいもの見せてあげる」

「お、おお……っ!?」

 発動させたのは幻術。いま行使したのは恐怖を煽るタイプで、男の眼には世にも恐ろしいものがたくさん映ることになる。

 こんな放っておいてもくたばりそうな人間ひとり死んだところで構わないし、哀れに発狂死する様を見れば少しは気分が晴れるかもしれない。

 しかし、次に生じた事態は予想外だった。

「なんてことだ! パジャマ姿の女の子がこんなにたくさん!」

「――は?」

「このままでは布団に入ってみんなで好きな人白状大会はもはや避けられん!」

「ちょ……ちょっと、なに勝手に別の楽しそうな幻見てるのよーーーっ!」

 察するにこの男は妄想癖があり、それが良い意味でも悪い意味でも幻術の効果と溶け合った結果、斯様な状態になってしまったのだとヴィエは理解した。

「おや、君も仲間に加わりたいのかい? ははは、まいっちゃうなあ」

「こらーっ、馬鹿なこと言ってないで正気に戻りなさい! って、術かけたのわたしか……えーい、この、このぉっ!」

 思わず傘を放り出して男の胸倉を掴み、両の頬にパンパン平手打ちを繰り出すヴィエ。

 何故だか、凍りついた感情が不思議な熱で溶けていくような感じがする。眼前の男があまりに突拍子で、わけがわからなさすぎて。

 なんだ。なんなのだろう、この男は。こんな人間は今まで見たことがない。

「はっ……パジャマ姿の女の子たちはどこに? おや、君はさっきの」

「はあ、はあ……やっと目が覚めたのね」

 さめざめした雨の中、だらしなくベンチに座る男と、それを見つめる少女。すっかり雨に濡れた全身を気にも留めず、ヴィエは意味深にほほえんだ。

「ねえ、あなた乞食なんだよね。だったらわたしの家に来ない? あったかい食事を出してあげるし、ふかふかの寝床も用意してあげるから」

「おおおおっ!? やはり君は天使だったのか! ありがとうございます連れて行ってください!」

「うん、いいよ。その代わり、あなたのこと色々聞かせてもらうから」

 ごく自然と湧き出る笑顔。そう、あの日以来、初めて心から笑うことができた。

 家に連れて帰っていっぱい話を聞かせてもらおう。いっぱい話をしよう。

 もしかしたら、この人はわたしの空虚な心を満たしてくれるかもしれないから――



「ヴィエちゃん、何を物思いにふけってるんだい?」

「ん……ちょっとね、いろいろと回顧してたの。サイモンくんと出会った時の事とか」

 御納戸町の住宅街外れにある大きな洋館。

 満天の星空。月光降り注ぐテラスでたたずむヴィエと、その後ろに立つサイモン。

「ねえサイモンくん、死に至る病って何だかわかる? ヒントは誰もがもっているもので、決して逃れられないもの」

「へっ? 急にそんなこと言われても……いやいやいや、まかせなさい。――ようしわかった! 白血病とか癌とかだね!?」

「もう〜、それは誰もがかかるわけじゃないじゃない。答えは『生』だよ」

「せい?」

「そう、生こそが死に至る病。生の行き着く先は死でしょ? 人はこの世に生まれた瞬間から死を約束されているの」

「なるほど。なんか哲学的だね」

「うん。でもね、どんなことにも例外はあるの。老いも病も避ける手立てはいくらだってあるんだよ」

 そう言って、ヴィエは楽しそうに振り返った。軽く首をかしげた恋人へと向ける、ダークブルーの妖しい眼差し。

「サイモンくん、ずっとわたしと一緒にいてくれるよね?」

 ぎゅっと抱きつかれて上目遣いで見上げられ、サイモンは胸がスパークしそうになった。

「もも、もちろんだよ! 俺にはヴィエちゃんしかいないさ!」

「ほんとかなあ……サイモンくん、すぐ色んな女の子に目が行くし」

「うっ……あ、いや、それは……ごめん」

「はあ、しょうがないなぁ……いいよ、べつに。他の女の人に手を出しても、わたしだけを愛してくれるなら許してあげる。でももし心まで移ろったら、サイモンくんを殺してわたしも死ぬから――って、わ、そんな震えなくても」

 抱きついた体から、肩に添えられた手から、ぶるぶるとした震えが伝わってきて思わず苦笑。まあこの様子ならまかり間違っても心配はなさそうだ。

「んー、じゃあそろそろ話してもいいかなあ、わたしの望みを」

「ヴィエちゃんの望み? 俺と一緒に生きていくことだろ――なんちゃって、ふふふ」

「それは勿論だけど、さっきの話を踏まえてもう数ステップ。わたしの望みはね、幻夢境のイレク=ヴァドでサイモンくんとずっと一緒に暮らすことなの」

「げんむきょう?」

 聞いたこともない名称を出されて戸惑うサイモンだが、ヴィエはうっとりした声音で言葉を紡ぐ。

 その、恐いくらい真剣な表情に、サイモンは、別のもっと異質な何かを感じて背筋が冷え始めた。

「幻夢境は、人間が見ている夢の、更に深いところに存在する異世界のこと。深い眠りの底の底、巨大な門を越えた先に広がる夢の国。星と星の間をガレー船が行き来し、人間以外にこの世ならぬ様々な生物が棲息する幻想世界だよ。そしてイレク=ヴァドは<夢の国>に存在する数多くの都のひとつで、かのランドルフ・カーターが玉座に就く伝説の都市なの」

 ラバン・シュリュズベリイもタイタス・クロウも行方不明になって消息を絶った。

 彼らが何処へ消えたのか、どうなったのかは定かではないが、人の知らぬ彼方へと旅立ったのではないかとヴィエは思っている。

 だから、自分もそうありたい。但し、ひとりではなく、愛する人とふたりで。

 そんな彼女の目指す彼方こそがイレク=ヴァドなのだ。

「自分の都市を創造してそこの統治者になりたいとも思ったけど、わたしにはカーターやクラネスのように良き夢を夢見て幻夢境に都市を創造することなんてできないから……それに、なにより、地球の神々を魅了した異様な美しさを誇る、中が虚ろな硝子でできた崖の頂に広がる小塔建ち並ぶ夕暮れの瑰麗なる都市――イレク=ヴァドで愛する人と暮らすのが、わたしの一番の願いだから」

 もちろん<夢の国>の住人には誰でもなれるわけではない。

 だが、幸いにして夢見る人の資質を持つヴィエは行き方を心得ており、過去幾度となく幻夢境を訪れているし、既にカーターとは知己の仲だ。あとは<夢の国>の住人となる手段を実現するだけだった。

 まずは恒星セラエノに存在する大図書館へ行って、そこに納められている数々の知識を、自身が理解できる範囲で得ることが第一目的である。

 その前に『セラエノ断章』を読んでその辺の準備を万全にするつもりだが、これは羽丘隆志という青年神父が現在ミスカトニック大学附属図書館に閲覧許可を申請している。

 ヴィエが御納戸町へやって来たのは、<夢の国>に永住するために必要な『銀の鍵』を所持しているという人物がこの町にいると知ったからである。それは彼女の父ロンダルキアの親友だった男らしい。

「とりあえず若返りの術式は絶対完成させないといけないし……まあこれは昔だったら何十年もかかっただろうけど、現在は先人の済ませてくれた下ごしらえを踏み台にできるから、お金と才能と根気と良い環境を労費すれば数年くらいで可能かな? わたしなら全部兼ね備えてるし♪ とりあえず差し当たっては……――あれ、どうしたのサイモンくん」

「あ、いや……ヴィエちゃんの話にさっぱりついていけない俺がいまここに」

「わたしはサイモンくんがノリノリで話すオタクワールドのほうがついていけないんだけど……ん、まあ、つまりね、言いたいことは最初のひとつだけ」


 ――ずっとわたしと一緒にいてくれるよね?


 この瞬間、サイモンはようやく気がついた。自分がもう後戻りできないところまで足を踏み入れていることに。

 いや、あるいは、ここで彼女を突き放せば引き返せるのかもしれない。

 その結果が自分の死であっても、終わることができるだけましなのではないのか。

 長い逡巡の末、サイモンは、――そっとヴィエを抱きしめた。

「俺はヴィエちゃんと一緒にいる。約束する。ずっと一緒さ」

「サイモンくん……」

 歓喜に頬を染めるヴィエ。

 星空の祝福を受けるように、月明かりのテラスで抱き合う。

「うん、約束。ずっと一緒だよ。いつか辿り着く彼方、壮麗きわだかな夕映の都で――永遠に」

 ぞっとするほど妖しい笑みを浮かべたヴィエが囁く、瑞々しい玲瓏たる声の、その最後の言葉が――甘露な雫のごとくサイモンの脳髄に沁み透っていった。

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